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村岡到:鈴木市蔵さんを追悼する

『もうひとつの世界へ』第2号に掲載予定

 鈴木市蔵さんが一月二九日に慢性腎不全で死去した。九五歳。
 鈴木さんは、敗戦直後の、六〇〇万人の労働者が団結したが不発に終わった一九四 七年の二・一ゼネストにおいて、その中心をなした国鉄労働組合の副委員長(委員長 は長く不在で実質的には委員長)として闘争を指導し、戦後労働運動に貢献した。五 八年の日本共産党第七回党大会で幹部会員(九人)に選出され、六一年の第八回党大 会でも再選、翌六二年の参議院選挙で初当選した。六四年五月に、米ソが結んだ部分 的核実験停止条約に対する評価と態度の問題で、同じく幹部会員だった志賀義雄とと もに除名され、「日本のこえ」派を結成した。八〇年代には、共産党除名組の古参を 集めて「一点の火」を発行したり、いわゆる「ソ連派」人脈の重鎮として労働運動や 平和運動について積極的に発言した。著書も『下山事件前後』(亜紀書房、一九八一 年。五月書房、一九八一年復刊)など。
 私は、一九八〇年代前半に鈴木さんに出会った。当時、私は和光市に住んでいた が、練馬の大泉学園のお宅に自転車で一〇数分だった。鈴木さんが個人で発行してい た主張の印刷を引き受けていたので、足繁くお邪魔することになった。書籍に囲まれ た書斎で、いつも穏やかにお話されていた。囲碁がアマ六段と強く、大泉学園駅前の 碁会所の筆頭でもあったが、手ほどきしていただいた。
 鈴木さんからはたくさん教えていただいたが、なかでも強く印象に残っているの は、六〇年の安保闘争での政党・大衆団体間共闘問題での態度についてであった。五 九年に結成された「安保条約改定阻止国民共闘会議」では、共産党はその幹事団体会 議に社会党や総評の反対によって正規に参加できず、オブザーバーとなった。鈴木さ んによれば、この時に、宮本顕治書記長はオブザーバー参加に反対したが、鈴木さん はそれでも統一行動すべきだと主張し、宮本を説得したという(なお、党史『日本共 産党の六十年』では社会党、総評の「セクト的態度」をなじっていたが、『日本共産 党の八十年』ではオブザーバー参加であった事実に触れなくなった)。宮本が好む形 式的な対等よりも実質的な共闘の前進を求めることが大切であることを物語る貴重な エピソードであろう。
 九八年には、米寿の御祝いを催し、神田の学士会館で盛大に人の輪ができた。私は 「鈴木さんは今も新聞の切り抜きをファイルする若わかしさだ」と閉会挨拶した。そ の後、慰労ということで、この会を中心的に組織した人民の力代表の常岡雅雄さんと 二人で、鈴木さんの縁者が働いていた箱根の旅館に招かれ一泊したことがあった。そ れまで経験したことのない豪華な露天風呂だった。
 鈴木さんにとって、六〇年代に顕在化した日ソ両党の対立は大きな不幸であったに 違いない。六四年の四・一七ストに対する共産党の指導の誤りについては、それを批 判した宮本と同じ立場だったのに、部分核停問題では鋭く対立してしまい、袂を分か つことになった。それが残念であったと述懐したことがあった。
 ご冥福を祈ります。

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