韓国:デモ生を中継した放送労働者 | |||||||
Menu
おしらせ
・レイバーフェスタ2024(12/25) ・レイバーネットTV(12/11) ・あるくラジオ(10/10) ・川柳班(フェスタ投句募集中) ・ブッククラブ(2025/1/11) ・シネクラブ(9/1) ・ねりまの会(10/12) ・フィールドワーク(足尾報告) ・三多摩レイバー映画祭 ・夏期合宿(8/24) ・レイバーネット動画 ●「太田昌国のコラム」第97回(2024/12/10) ●〔週刊 本の発見〕第370回(2024/12/12) ●「根津公子の都教委傍聴記」(2024/11/28) ●川柳「笑い茸」NO.158(2024/10/26) ●フランス発・グローバルニュース第14回(2024/10/20) ●「飛幡祐規 パリの窓から」第96回(2024/12/5) ●「美術館めぐり」第5回(2024/11/25) ★カンパのお願い ■メディア系サイト 原子力資料情報室・たんぽぽ舎・岩上チャンネル(IWJ)・福島事故緊急会議・OurPlanet-TV・経産省前テントひろば・フクロウFoEチャンネル・田中龍作ジャーナル・UPLAN動画・NO HATE TV・なにぬねノンちゃんねる・市民メディア放送局・ニュース打破配信プロジェクト・デモクラシータイムス・The Interschool Journal・湯本雅典HP・アリの一言・デモリサTV・ボトムアップCH・共同テーブル・反貧困ネットワーク・JAL青空チャンネル・川島進ch・独立言論フォーラム・ポリタスTV・choose life project・一月万冊・ArcTimes・ちきゅう座・総がかり行動・市民連合・NPA-TV・こばと通信
|
デモ生を中継した放送労働者[コラム]報道機関社主の金智泰とは違う企業家の金智泰
蔚山ジャーナル編集局 2012.10.31 11:29
李承晩政権は1960年の3.15不正選挙の直前まで、日本からトランジスタラジオ を直輸入し、農漁村の家庭に無償で配布して、電気がない農漁村でも少量の 乾電池でラジオが聞けるようにした。李承晩の政治功績、政府政策宣伝が主な 目的で、米公報局の冷戦心理戦とも緊密に連携していた。 当時、広報処の一介の『局』だった国営KBSの職員は正式な公務員で、報道は常 に広報処の指針に従っていた。放送記者も公務員として政府の施策を広報する ことをニュースの役割だと考えていた。当時の進歩的な学者たちは、放送の国家 所有がKBSの歪曲、偏向を呼び、放送の発展を妨げる主な原因だとし、放送の 民営化を主張した。 国営KBSラジオの限界がはっきり見えたのは、1960年の3.15不正選挙と4.19革命 の時だった。釜山MBCは1960年の春、馬山の不正選挙糾弾デモをアナウンサーと 記者が現場に出かけてラジオで生中継した。ラジオではあるが、路上で警察が 銃撃している生々しい音がそのまま聴取者に伝えられた。キャンドル政局の時 のインターネット生中継の元祖が釜山MBCの4.19革命の生中継だ。 しかしKBSは大統領が下野するまで、4.19デモをたった一度も報道しなかった。 フランスの1TVが1968年革命に目を塞いだのと全く同じだった。これに耐えられ なかった東亜日報は、1960年4月28日に「大口をたたくな』というコラムでKBS の歪曲報道を叱責した。 一昨日、正修奨学会の立場発表で、朴槿恵(パク・クネ)候補が釜日奨学会(正修 奨学会の前身)は当時、ラジオだけ、それも釜山地域だけの小さな放送局だった 釜山MBCと負債の塊りの釜山日報を持っていたといった。 釜山MBCは1959年4月15日、ソウルMBCより先に韓国最初の民間商業放送として開 局した。初期の経営は順調ではなく、金尚容社長は釜山日報と朝鮮絹織(株)を 持つ金智泰(キム・ジテ)に譲った。 1959年の韓国の二大放送局は、キリスト教放送と釜山MBCが競合していた。国営 放送のKBSは言論とは言えなかった。朴槿恵候補は地域の小さな放送局だとさげ すんだが、金智泰は1961年2月21日ソウルMBC開局に備え、政府から許可も受け た。もちろん朴正煕クーデターで水の泡になったが。 釜山MBCは、李承晩が下野する3日前の1960年4月23日、釜山の汎魚寺で開かれた デモ犠牲者合同慰霊祭で勇気を持って当時、基地司令官で慶尚南道地域の戒厳 事務所長である朴正煕将軍の調査を報道した。 李承晩独裁の厳酷な弾圧にもかかわらず、釜山MBCの放送労働者たちは馬山義挙 を勇気を持って報道した。社長の金智泰の強い後押しも一役買った。釜山MBCの 活躍は、ソウルの国営放送の放送関係者にとって大きな刺激になった。放送が 権力のオウム役をしていただけだったことに対する自省の声が高まった。 李承晩の下野声明後にソウルの放送労働者は、自省と共に放送の中立を宣言した。 朴正煕政権下では、1961年12月のKBS-TV開局に続き、東洋放送、(ソウル)MBCが 許可を受け、60年代には3社の角逐戦が起きた。大変な苦労の末に開局すると すぐ、朴正煕政権はMBC社主の金智泰を不正蓄財者として拘束し、経営権を 『5.16奨学会』に変えるというとんでもないことを行った。これに失望した 放送関係者は、ラジオソウルと東洋放送などの民間放送に移った。金智泰 社長は、1962年7月に所有する株式をすべて5.16奨学会に献納して経営から 手を引いた。 金智泰は合理的な言論社主だった。斗山財閥の所有ではあったが、合同通信が リ・ヨンヒ、趙世衡、オ・ソベクといった有能な言論労働者を育てたように、 金智泰は言論労働者にとって強固な後ろ盾だった。 ところが彼は進歩的改革家ではなかった。金智泰は典型的な企業家であった。 1927年、日本帝国主義侵奪機構であった東洋拓殖会社(東拓)釜山支店から社会 生活を始めた。東拓釜山支店長の配慮で蔚山の土地2万坪を払い受け、資本家に 変身した。1949年、日帝時代の敵産企業、朝日絹織を払い受け、朝鮮絹織を作 り、1952年には三和ゴムを作って女性労働者の長時間超過労働で利益を上げた。 資本を集めた金智泰は、1950年の5.30第2代総選挙に釜山甲区から無所属で立候 補し、革新系のイム・カプスを僅かな差で破って当選した。3代国会には自由党 から立候補して、やはり当選した。 5.16クーデターの直後にサムスンの李秉喆(イビョンチョル)、ファシンのパク・ フンシク、朝鮮絹織の金智泰など13人の不正蓄財者が自分の利害関係を代弁す るために、1961年8月16日に急いで全国経済人協会(全経連の前身)を作った (「韓国社会の労働統制」、1987、p111~113)。金智泰は、不正蓄財者の処罰 の代わりに生まれた大企業家の自衛団体に行った。 年末の大統領選挙を前に、正修奨学会の議論が企業家、金智泰の『不正蓄財者 攻防』に向かっている。釜山日報と釜山MBCの報道は、報道機関社主の金智泰が 作ったのではなく、催涙弾と弾丸が飛ぶ道路をとび回った言論労働者が作った。 彼らの労苦に改めて感謝する。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2012-11-01 10:14:31 / Last modified on 2012-11-01 10:14:32 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ |