美術館めぐり:「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館) | |||||||
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志真斗美恵 第5回(2024.11.25)・毎月第4月曜掲載 ●「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館) 田中一村とハンセン病、そして高倉健今、東京都美術館で「田中一村展」が開かれている。「奄美の光 魂の絵画」と副題がついた展示は、〈第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代、第2章 千葉時代「一村」誕生、第3章 己の道 奄美へ〉の構成。大規模な回顧展で、幼少期からの作品が見られ、展示数は300点を越えている。さらに、千葉市美術館、多磨全生園(東京都東村山市)の一角にある国立ハンセン病資料館でも一村展に関連した展示がある。 田中一村(1908-1977)と千葉は縁が深い。評者は、今回の展示以前に、一村の作品を千葉市で見てその作品に魅せられた。1995年に千葉そごう美術館「田中一村の世界 孤高・異端の日本画家」展が開催され、『田中一村の世界』も発行された。2010年には、「田中一村 新たなる全貌」展が千葉市美術館で開かれた。その展示は、今回の東京都美術館での展覧会監修者である松尾知子 (千葉市美術館副館長)が中心を担った。「孤高の画家、異端の画家」と一村は言われ、生前にはまったく知られなかった。その点で、一村はゴッホと似ている。 奄美の自然―植物・鳥・海―を描いた一村の絵画には見た瞬間からひきつけられてしまう。一村が奄美で描いた作品は、私がこれまで見ていた日本画とはまったく異なっていた。大胆な構図と色使いによるのか、これは日本画なのかと思うほどだった。 墨絵のような枇榔樹や蘇鉄、その中に咲く花や小鳥・蝶、波打ち際の小石……どれひとつみても胸騒ぎがするほどだ。彼はどのようにしてそこに至ったのか。(↓一村「不喰芋と蘇鉄」) 一村は、本名を田中孝といい、栃木で1908年に生まれた。両親は1912年、娘と息子の教育のため東京に転居。1926年、芝中学校を卒業、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学、日本画科19人の中には、東山新吉(魁夷)、橋本明治、加藤栄三、山田慎吾らがいたが、2か月で退学。すでに南画家として名が出ていた彼の肩には家族の生活も懸かり、彼自身結核で安静を命じられてもいた。 1938年、30歳の時、母方の親類をたより、姉・妹・祖母と千葉寺に転居。それまでに、両親と弟3人は病死していた。彼は、そこで自給自足を目指し農業をしながら絵を描き続ける。小さな畑からでは画家のくらしはなりたたず、姉や親戚、援助者の支援があってこその生活であった。戦争中、徴用工としても働くが、身体を壊し闘病。戦後に入り「白い花」が第19回青龍展に入選(この作品は東京都美術館で展示。入選作とは異なる「白い花」も千葉市美術館で開催中の「田中一村と千葉」でみられる)。しかし、以後、日展、院展等で落選が続く。 50歳になった時、当時日本最南端であった奄美に単身移住。奄美に向かう交通費のため、支援者の家に描いた襖絵が今回展示されている。一村は、奄美行を心配した支援者達による紹介状を携え千葉を離れる。 今回の東京都美術館での回顧展は、新聞、雑誌等で大きく報じられ、紹介されている。ただ、ハンセン病療養所奄美和光園と一村の関係は、そこでは言及されていない。彼は、奄美に到着すると、紹介状を携え和光園を訪ねた。その時、芳名録の見開きに、船からの奄美を描き、「13日未明船上より/初めて黒き奄美の/姿を見る遙けくも/来つる哉の思ひあり/昭和33年12月17日/和光園にて田中孝」と記した。今回その絵も展示されているが、和光園がハンセン病療養所であることは記されていなかった。 国立ハンセン病資料館図書室では「田中一村と奄美和光園」が開かれている。展示の1つである『奄美和光園70周年記念誌』(2013年刊)に、美術評論家・大矢鞆音(おおやともね)の70周年記念講演「奄美和光園と田中一村 奄美作品揺籃の地」が掲載されていた。当時、安野光雅美術館長であった大矢は、一村に魅せられ、60回以上も奄美に通っていた。彼は、「一村の奄美作品が生まれる最大のポイントは、奄美和光園に来たことだ」と語り、その理由として、和光園にその時偶然にも優秀な人材が揃っていたこと、奄美の自然と和光園の環境とをあげている。一村は、和光園の官舎で暮らしたこともあった。 一村は、絵を描き続けるため、奄美の紬工場で染色工として働く。日給540円、彼は54歳にして初めて賃金を受け取る。しかし彼の個展を開く夢はかなわなかった。和光園近くの借家に移った10日後、独り夕食の準備をしている時に心不全で倒れ死亡、69歳だった。 国立ハンセン病資料館で、私は思いがけない著者名の本にも出会った。高倉健著『南極のペンギン』(2001年集英社刊)である。高倉健のエッセイ10篇が、唐仁原教久による絵とともに編まれている。その中の1篇に「奄美の画家と少女」がある。――ベンチで少女は、ひとり写真を見ている。一村は声をかけた。家族を離れハンセン病療養所に入所している少女だ。母の写真は、肌身離さず持ち歩き見ていたためにボロボロになってしまっていた。一村は、無料でそれを肖像画にして少女に渡す。――一村の描いた和光園入所者たちの肖像画が遺影にも使われた。しかし、このエピソードは知らなかった。 「生きているあいだ、彼の絵は世の中に認められなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにもまけなかった。(中略)一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ。」高倉健はこの話をこう結んでいる。 (東京都美術館「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」、国立ハンセン病資料館図書室「田中一村と奄美和光園」、千葉市美術館「田中一村と千葉」 いずれも12月1日まで開催) Created by staff01. Last modified on 2024-11-25 12:52:57 Copyright: Default |