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イスラエル、「約束の土地」を創造した「想像界」の赤ちゃん
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●フランス発・グローバルニュースNO.14(2024.10.20)

イスラエル、「約束の土地」を創造した「想像界」の赤ちゃん

土田修(ジャーナリスト、元東京新聞記者)

  フランスの精神科医ジャック・ラカンにとって「鏡像段階」は、彼の理論の出発点となった概念だ。人間の赤ちゃんは生後6カ月から8カ月になると鏡に映る像が「自分の姿」であることに気づき、「キャッキャ」と笑い出す。これは犬や猫、チンパンジーには見られない行動だという。チンパンジーは鏡の後ろを確かめて、そこに何もないと分かるとそれで興味を失ってしまう。ところが、赤ちゃんは鏡に映った像が「ただの像」にすぎないことに気がついても、それを眺めながらうれしそうな顔をする。

 赤ちゃんに限らず、人間は自分の手や足やお腹など身体の一部を見ることはできるが、身体の全体像を見ることはできない。つまり自分の身体像はバラバラなパーツの寄せ集めにすぎない。人間は鏡を媒体として外部に位置する鏡像と自己を同一視することで、初めて全体像として自分自身を作り上げる。「自我」とは身体像を獲得することで生みだされる「想像界imaginaire」の産物なのだ。ラカンによると、「人間存在は、自分自身の像との間に自己を疎外する緊張関係を持っている」(セミネール第2巻)という。そこに敵対的緊張関係が生まれる。「想像界」とは、「自分か他者か」「敵か味方か」という二者択一の世界であり、相手の完全な破壊によってしか解決できない闘争状態の世界なのだ。ラカンの鏡像段階の話が少し長くなったが、「想像界」の概念はイスラエルの建国とイスラエルによるパレスチナ人のジェノサイド(集団虐殺)を理解するうえで参考になる。

 ユダヤ系イスラエル人なら誰でも知っていることがある。ユダヤの民はシナイ山でトーラー(前15〜14世紀、出エジプト後のモーゼと神との間で結ばれた「選民」契約)を授かって以来存在し続け、「約束の地」イスラエルを征服して定住し、ダビデとソロモンの王国を築いた。栄光の時代の後、神殿の破壊に伴って二度の追放を受け、2000年近くにわたり祖国を離れて放浪の生活を送り、「離散(ディアスポラ)」を経験した。その結果、イスラエル人は「イスラエルの土地(エレツ・イスラエル)」であるパレスチナへの組織的入植とユダヤ人国家の建設をめざすシオニズム運動を「ディアスポラの民の帰還」として理解している。

 イスラエル人にとって自己を映し出す「鏡」の役割を果たしているのはヘブライ語の聖書だ。彼らはそこに自らの民族的「自我」を見出し、「離散と帰還」というストーリーを作り出した。だが、想像界における自己の正当化は他者との対立関係を生みだす。彼らにとってパレスチナは「約束の土地」であり、入植は「帰還」でしかない。それを実現するには、そこに住むパレスチナ人の生活・伝統・文化の完全な破壊が必要になる。イスラエルの歴史学者シュロモー・サンドは「イスラエル国家の建設直後の数年間、エリート知識人階級によって、『聖書・民族・大地』という聖なる三位一体への崇拝が展開され、聖書はネイションの想像域(imaginaire)錬成にあたっての中心的なイコンとなった」(『ユダヤ人の起源』筑摩書房)と指摘する。

 だが、ユダヤ人の「離散と帰還」の神話、そして王国復活の物語は想像上のものでしかない。「彼らはユダヤ教もキリスト教もふくめ、宗教的記憶の断片をかき集め、その基礎の上に、豊かな想像力を駆使して、ユダヤ人のために途切れることのない系譜の連鎖をつくりあげた」(同書)。離散の時を乗り越えて「約束の土地」にたどり着いた彼らにとって、自らの土地を取り戻すための戦いは「正義」であり、現地に住むパレスチナ人の激しい抵抗は「犯罪」なのだ。

 そもそも「離散」とは、ローマ帝国によってエルサレムの第二神殿が陥落し、古代ユダヤ王国の民が強制的に追放され世界中に散らばったという物語に基づいている。だが、王国から追放されたのは神殿にいた少数の支配階層のみで、大多数の民はその地にとどまり、多くは農業を営みながらキリスト教やイスラム教に改宗したと考えられている。数十万人、数百万人の民が一度に追放され、各地へ離散したという聖書のストーリーを裏付ける痕跡はどこからも発見されていない。それが正しければ、パレスチナ人の起源は古代ユダヤ王国の民ということになる。

 一方、ユダヤ教の伝導によって欧州各地にユダヤ人の共同体が出現するが、そこでは聖書が集団的過去を教えるための教科書となり、ユダヤ人という想像上の民族を生み出しただけでなく、ユダヤの生活や習慣、伝承に神話を浸透させるのに大いに役立った。「こうしたネイションの方針は、さまざまなヴァリエーションをともないつつ、シオニズム運動の内部でその評判と有用性とを獲得したが、もともと歴史の想像域(imaginaire)の産物であり、その中核にあったものこそ、追放=離郷だった」(同書)。聖書を媒介に創出されたユダヤのナショナル・アイデンティティ(国民的自己意識)は、全世界に分散したユダヤ教の共同体を統一する役割を果たすとともに、パレスチナ人の土地の収奪や民族浄化を良心の痛みを何ら感じることなく実行する根拠としての役割を果たしている。

▪️パレスチナの社会を根幹から破壊するスコラスティサイド

 ユダヤ人は「聖書・民族・大地」が三位一体となった神話を、想像上の自我、すなわち自らのナショナル・アイデンティティの根拠として伝承してきた。それだけに、神話的出来事や文化の伝承がいかに重要であるかをよく理解しているはずだ。そこには、相手を破壊することによってしか解決できない闘争状態を喚起する「想像界」の役割が潜在しているからだ。「約束の地」を征服するという想像的な民族意識の虜になっているイスラエルのシオニストらが、パレスチナの民族的記憶を消し去るため「スコラスティサイド(教育システムの抹殺)」を実行しているとしても不思議ではない。民族そのものだけでなく、民族の歴史、伝統、文化を完全に破壊しなければ、「神との選民契約」を果たせないと思い込んでいるからだ。

 ジャーナリストのアンジェリーク・ムニエ=クーン氏の「パレスチナの教育を破壊するイスラエル」(ル・モンド・ディプロマティーク日本語版10月号)という記事によると、2024年9月の新学期を迎えたガザ地区では、イスラエル軍の空爆によって62万人の児童・生徒・学生が教室に戻ってくるという希望を打ち砕かれたという。ジュネーブ諸条約では、学校は軍事作戦の際に民間施設として保護されなければならないと規定されている。2015年には、ノルウェーとアルゼンチンの提案で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が後援し、戦時下における「学校の安全性」に関する政府間宣言が発表された。パレスチナを含む120カ国がこれを承認しているが、イスラエルは署名に加わっていない。

 7月6日にアル・ジャウニ学校、7月7日にホーリー・ファミリー学校、7月9日にアル・アウダ学校、7月14日にアブ・アラバネ学校、7月16日にアル・ラジ学校…。「国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が運営する6つの学校をふくめ、この10日間で少なくとも8つの学校が攻撃されました。戦争は、ガザの少年少女たちから子ども時代と教育を奪いました。学校は決して軍事目的に使われてはならないのに」とUNRWAのフィリップ・ラッツァリーニ事務総長はX(旧ツイッター)で怒りを爆発させた。その後も学校への攻撃は続き、校内に避難していた住民の多くが犠牲になっている。

 高等教育機関も例外ではない。ガザ地区にある主要大学のうち既に、アル・イスラー大学とキャンパス内の考古学博物館、ガザ・イスラム大学、アル・アズハル大学が完全に破壊されてしまった。2024年4月に国連人権理事会の25人の専門家が学校施設の脆弱性について警鐘を鳴らした。「ガザの学校の80%以上が損壊または破壊されたことを考えると、パレスチナの教育システムを完全に破壊しようとする意図的な戦略があるのではないか。それはスコラスティサイドと言われる行為ではないか」「これらの攻撃は個別の事案ではなく、パレスチナ社会の根幹を破壊することを目的とした組織的な暴力パターンに従ったものだ」

 「スコラスティサイド」という言葉は、2009年にオックスフォード大学のカルマ・ナブルシ教授(政治学・国際関係学)が提唱したといわれ、「教師、生徒、教育関係者の逮捕、拘留、殺害、また教育インフラの破壊を通じた組織的な教育システムの破壊」と定義されている。「アービサイド(都市破壊)」「ポリティサイド(政治破壊)」「カルチュリサイド(文化破壊)」などとともに、ジェノサイド関連用語として学会などで使われているが、国連で使われたのは初めてのことだ。

 ところで、パレスチナの民は教育に熱心なことで知られる。1948年、イスラエルの建国によって故郷と居住地を奪われ、75万人が難民になった「ナクバ(大厄災)」を経験したパレスチナ人にとって、「(教育は)国民感情を保ち続ける唯一の手段」だ。「彼らは教育を、よりよい未来への命綱であり、家などの物質的な所有物とは異なり、決して奪われることのない、育むべき遺産であると考えた」(同記事)。世界銀行によると、パレスチナはUNRWAの貢献もあり、他のアラブ諸国に比べて高い教育システムを整備してきた。就学率は小学校が100パーセント、中等教育では80%を超えており、教育へのアクセスは、性別、地理的位置(農村部、都市部)、所得にかかわらず非常に公平だという。「これらの指標を見ると、ヨルダン川西岸地区とガザ地区は中東・北アフリカ地域のトップに位置している」と同銀行は指摘している。

 イスラエルが「ハマスの壊滅」というお題目を掲げながら、大学や図書館、学校を狙い撃ちしているのは、パレスチナ人のナショナル・アイデンティティを根絶やしにするためとしか考えられない。先の記事でナブルシ教授はこう主張している。「イスラエル人は心の底では、パレスチナ人の伝統と革命にとって教育がいかに重要かを知っている。彼らはそれに耐えられず、それを破壊しなければならない」。離散と帰還、王国の復活という伝説と神話を鏡にして、そこに映し出される想像的自我に拘泥するシオニストたちにとって、パレスチナのナショナル・アイデンティティこそが最大の脅威なのだ。

 ラカンは初期の思索で、「想像界」に続いて「象徴界symbolique」の概念を理論化した。象徴界とは言葉や言語化されたルールの世界のことだ。想像界では人間同士の争いは「敵か味方か」という闘争状態に基づく武力衝突を招来する。敵愾心や憎悪を超えた和解への道は、想像的な自我の外部にある絶対的他者の存在によってしか見いだすことができない。イスラエルによるパレスチナ占領政策は国際法に違反していると勧告した国際司法裁判所(ICJ)や、戦争犯罪と人道に対する罪でネタニヤフ首相らの逮捕状を請求した国際刑事裁判所(ICC)などは象徴界に属する絶対的他者だ。

 実は、本当のユダヤ教の思想はユダヤ王国の滅亡を「神罰」と解釈し、王国の復活までを「離散」とし、その期間は祈りに身を捧げ敬虔に生きることを求めている。神による贖罪はメシア(救世主)の到来と赦しによってなされる。だから、本来のユダヤ教徒はメシアの到来まで祈り続けるしかない。イスラエルのような人為的な世俗国家の建国は、神の意思に反する背徳的行為なのだ。ユダヤ民族や「約束の地」への帰還といった神話を想像(創造)したシオニストたちは、正しいユダヤ教徒でさえない。彼らが、「鏡像段階」にとどまり暴力的な赤ちゃんであり続ける限り、母親の愛を失った瞬間に「神罰」を受けることになる。母親とはもちろん、赤ちゃんに無条件な愛情と危険なオモチャを注ぎ込んでいるアメリカのことだ。


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