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予測できない...憲法第1条を書き直す市民革命

[インタビュー]パク・レグン活動家

ユ・ヨンジュ記者 www.yyjoo.net / 2008年06月06日8時47分

  1. 10を控えて大韓民国すべての政治勢力が緊張モードに突入した。結果の予測 は難しい。予測より大衆の流れに、大衆と共に『告示撤回』の小さな取っ手に 執拗に執着することが重要な時だ。

活動家たちは道路で何を考えているのだろうか。何人かの活動家と会ってみる。 今日(6月5日)午前は、人権運動サランバンのパク・レグン活動家と会った。人 権映画祭活動にパク・レジョン烈士20周年行事準備で疲れたようすが歴然だ。

「今週は人権映画祭のためにあまり行けなかった.. 31日、徹夜で放水を受けな がら現場にいた。放水を受け、本当に低体温現象になった」。

強硬鎮圧が一番強烈な日だった..

「双方とも強硬だった。押し入ったら、大統領府と警察はとにかく防がなけれ ばならない.. これまで、大統領府前まで行ったことは何度かあったが、こんな に多くの人員が夜を明かし、目前で座り込みをしたのは初めてだった。1日午前 4時頃、彼らが攻め込んだ時も約5千人、それほど多くがそこにいたのだから」。

4.19の時も、6月抗争の時も、大統領府近辺にこれほど多くの人が集まったことはなかった。韓米FTA反対デモの時、社会団体活動家が大小のデモをしたが、やはりこれほどの群衆は集まらなかった。

「警察としては、大統領府さえ防げればという状況だった。実定法の話になる と困るのだが、すでに集示法上の限度をはるかに越えていた。不法かどうかと いう話ではない」。

市民革命が起きている

今大衆は主権者が自分の席を探すという、文字通り『民主共和国』の要求を掲げて行動しているが..

「実定法違反かどうかを越えて、すでに抵抗権が発動されている。不法行為が あったから鎮圧だというのでなく、国民が立ち上がって国家と社会、そして憲 法を正しく立て直そうとする抵抗行動、直接行動をしていると解釈することが 正しいのではないか」。

市民革命だと読めるということだろうか。ブルジョア民主主義革命なら87年に、あるいは近現代史のある時点ですでに形成されたと見られるが、今の大衆のキャンドルデモを市民革命と規定できるのだろうか。

「仮設をたててみれば.. 今、市民革命は進行形だ。革命でも運動でも、どこが 最後かわからない状況だが、仮定で見れば1年、2年、3年続くかもしれないが、 明らかに初期段階に入るのではないかと思う。体制崩壊を断言することはでき ないが、その可能性はかなりある。代議民主主義で票を投じ、ひとまず選んだ らその結果を承服するべきだが、そして不満があっても4年、5年後にまた票を 投じて審判しなければならないが、今、大衆行動は代議民主主義を否定してい るということだ」。

多少積極的な判断だ。断定するにはさまざまな考慮点が多いのではないか..

「大衆がキャンドルを持って大韓民国の国家体制そのものに抵抗している。資 本主義で社会主義に進むのではないとしても、国家が、民主主義政治体制を受 け入れない(耐え難い)行動が続いているのではないか」。

もっと踏み込もう。これまでの階級闘争の過程で十分見てきたように大衆行動が深刻な水準まで激化しても、結果は概して制度政治に収斂されたりした。

「そうだ。たとえば6月抗争の成果は、自由主義政治勢力が戦いとった。彼らは 労働者の闘争を分離して排除した。ところが今、大衆行動が革命的性格を持つ ことになれば、今その政治的成果を持っていく政党はない。民主党? だめだろ う。誰も認めないだろう。今回の補欠選結果のように漁夫の利でも得ることは あるだろう。民主労働党や進歩新党も準備ができていない。どの政党もこの闘 争の成果を吸収し、政治的基盤にできない状況だ。では新しい政党が出てくる のかというと、それもまだわからない」。

どうなるだろうか。

「少し萌芽が見られるのではないか。市民自治権力のようなものが作られる過 程を踏んだ後、革命的な状況が生じることがあるかもしれない。自由民主主義 体制を越える新しいものか、資本主義体制の発展の中間地点か... 中間地点か もしれないが、どこに飛んでいくのか断定は難しいということだが..」

話がまた出てくる。新しい国民政党ないし民主党とは違う次元の政党の出現と収斂の可能性が大きいようだが。

「もちろんそうなるかもしれない。社会主義的な方向には行かないとしても韓 こ、国のブルジョア民主主義体制を強固にする質的な民主主義革命に進めない だろうか。既存の政治勢力が否定され、新しい政治勢力が登場するかもしれな いし。もちろん大衆が満足するかどうかはわからない」。

憲法第1条を歌うアイロニー.. 直接民主主義の要求で発展している

今大衆は憲法第1条の歌を歌う。本当に楽しく感動的に歌う。二律背反だ。憲法第1条は、現在の権力を掌握したブルジョア政治権力が存立の根拠にする。ブルジョア政治権力は、憲法第1条に基づいて存在する。ところが、大衆が憲法第1条を歌い、そのブルジョア政治権力を糾弾する。このアイロニーをどう見ればいいのか。

「憲法第1条.. それにしても人権活動家は明日(6日)から憲法第1条路上講座も 準備しているのだが.. その通りだ。支配勢力の専有物のように支配イデオロギー が集約されているのが憲法第1条だ。200年前、フランス革命の時の1791年憲法 がそうだった。1789年憲法を否定して出てきた。ところが1791年憲法は代表を 通して国民の主権が行使されると規定されている(三権分立に立脚した立憲君主 政)。1793年の憲法は、直接民主主義と人民主権的だったが施行できずに廃棄さ れた。今大衆が語る憲法第1条は、例えばフランスの1791年憲法を越えようとす るものと比喩できる。市民が私が主体だ、私が主権者だと言って、人民主権を 語っているのではないか」。

国民主権に対して代理主義と直接民主主義次元で区分してみるという、では憲法第1条の再解釈ないしアップグレードという話だが..

「主権を無視して主権者の意を拒否する傲慢な権力に鉄槌を加えようとしてい るのが今の大衆の要求だ。大衆は指導部も認めない。どんな政治的権威も認め ない。だから無政府的な要素も議論されているが、いずれにせよ憲法1条を再構 成している。憲法第1条の再構成の欲求と指向、現在としては韓国ブルジョア政 党はこの欲求と指向を受容できないもようだ。さらに進めば大衆によって政党 勢力すべてが否定されるほかはないのではないか」。

ブルジョア政党に対する反対は明白だ。今まで姜基甲議員以外に演壇で発言権を得た政治家はない。

「だからさらに無定形だ。方向もなく合意も成し遂げられない... 現場に行け ば、さまざまな話がすべて出てくる。李明博政権の政策すべてに反対する。発 足して100日にしかならないが、『独裁打倒』スローガンが自然に登場する。と ころが政権を変えて独裁を打倒することは、街頭デモだけでできるものではな いが、そこまでは表現されない。6.10を経て、この指向をどう作って行くかが カギだろうが..」

今運動圏は無条件大衆の中に入らなければならない

昨日(4日)の夜の市庁前キャンドル集会の風景は妙だった。対策会議が72時間デモを控えた日に集会を率いた。9時頃解散をしたが『アゴラ』の旗と共に市民は光化門の前にまた集まって遅くまでデモをした。前日(3日)も同じだった。対策会議でも運動圏でも、指導や統制などとは無関係に大衆は動く。

「拒否感が序盤よりはちょっと少ないようなことはあったが、とにかく確認さ れたのは既存の運動勢力は広場に集まった市民を指導することもできないとい う事実だ。対策会議の活動家も考えてこの部分をどう引っ張っていくか準備を しているけれど.. ところでよく見ると運動団体が一週間、1か月議論して決め ることを市民はインターネットで一日二日で決めてしまう。運動団体が街頭で デモをするのと違って、向こう見ずにそのままやってしまう。恐れることもな く、躍動的だ。即席で討論して、行動に移す」。

大衆と運動圏の距離感が色々な形態で確認される。

「私が見てもそうだ。これまで私が考えてきた仮説と考え、運動圏の感性や組 織方式と今の大衆行動の現実は、あまりにも似つかわしくない。大衆と運動組 織が過度に距離が遠くなっている。方法はない。無条件に市民の中に入らなけ ればならない。そうでなければ信頼もされず、大衆から孤立する。中央集中式、 民主集中制的組織方式の限界があらわれるのではないか。それぞれの個人が主 体になり、小規模な集りを作り、ネットワークして、オン-オフを行き来するよ うな運動でなければ、今後の運動はできないという感じだ」。

大衆と運動圏、運動圏と大衆の距離が遠のいたり隔離されるのは大衆や運動圏も望まないことでしょう..

「今までの運動状況が過去の方式から脱皮できなかったことと、こうした人々 が2000年代を生きていくITに習熟した人々を指導することは難しいのではない か。運動圏に不信が積み重なったのは、金大中ね盧武鉉政権を経て、政権を取っ て見せた姿が結局自分の利益のためと映ったことにある。それと比べ、大衆は 純粋だ。純粋な市民とそうでない運動圏という対応があるようだ。頭が痛いこ とだ」。

運動圏がなぜこんな身分になってしまったのだろうか。

「人々は自由に意思表明をしたいが、運動圏は訓戒と指導をする存在として近 寄ってくる。民主労総の産別委員長が演壇に上がった時、あの冷たい反応が何 だけか。大衆は思いがけないプラカードを作って集会に参加し、よどみなく言 いたいことを言う。この大衆の躍動的な進出を、運動社会は謙虚な姿勢で学ぶ べきではないだろうか」。

暴力-非暴力.. 不服従.. 公権力無力化させる大衆行動の力

少し非暴力の話をしよう。キャンドルデモの白眉が非暴力だ。不法を越える非暴力、主権者としての非暴力が公権力を無力化させる。警察が市民に対して不法だと放送すると、お前たちが不法だと叫び、道路に停めた警察の車両に不法駐車ステッカーを貼る。カマボコツアー風刺に見られるように、大衆の非暴力行動の前に公権力が戯画化されるという言葉も出てくる。

「他の国なら、ここまでくればスーパーを略奪して車両に放火する。市民意識 が高いのかどうなのか、とにかく良いことなのだが、一方では非暴力がとても 硬直しているように思ったりもする。インターネットカフェや現場の話を聞い てみると、口実を与えるのは止めようという論理が最も多いが、非暴力に対す る哲学的な認識のようなものは確認されない。だが非暴力の力は明らかに確認 できる。この渦中で火炎瓶を投げれば、彼らは鎮圧の名分を持つことになるだ ろう。このように、非暴力が硬直的に区分できるものではない。暴力と非暴力 の区分そのものがあい昧だ。たとえば、不法行為=暴力が成立しないのと同じだ。 不法がすなわち暴力ではない。実定法とは支配勢力が統治力の手段として確保 するが、実定法に閉じ込められると、人権も放棄しなければならない」。

どこまでが暴力でどこまでが非暴力なのか。今までは抵抗する大衆の自衛手段として非暴力と暴力を区分して理解してきたようだが。

「どこまでが暴力か非暴力かは、状況によって違うだろうが、非暴力だけを強 調する方向に行くだけではない。警察バスの扉を壊すことがなぜ暴力なのか。 それは暴力でない。ところが今、市民は警察の車の扉を壊すのはだめだと言い ながら、警察の車をロープで引っぱることには力を注いで歓呼する。暴力と非 暴力を間違って分けると、いざという時には平和なキャンドル集会と不法な街 頭デモと二分する認識がありえるが、幸い平和集会を主張する人々が街頭デモ に自然に合流し、この区分が無力化した。使い道のない暴力・非暴力議論を忘 れさせる程、大衆行動が高揚しているということだ。非暴力を固定不変で、硬 直した概念として受け入れないでほしい。大衆はすでにその段階を越えた」。

集示法.. 街に出ると大衆は集示法も無用の長物にしてしまう。

「集会デモの自由はそれ自体が階級的で民主的だ。たとえば言論出版の自由は ブルジョアが緊要だと思ったが、さらにそのようにすることができない人々が 集会デモを選択してきた。数で押し通し、発展してきた。わが国での集会デモ の自由は、集会デモをいかに合法的にできるようにするかが制定の趣旨で、今 までその骨組みが維持されてきた。そして次第に改悪と後退の道を辿ってきた。 夜間集会を不法と見なそうとしているが、大衆は自らの力で越えた。オ・チョ ンス警察総長が街頭デモの不法は厳しく処断すると話したが、大衆は無視して しまった。集会デモの自由は人を集めてデモをしながら出発するが、今は抵抗 権発動の準備段階を踏む時点だ。6月抗争も不法だったが、今誰がそれを不法だ と言うだろうか」。

大衆自ら国家権力そのものに不服従する雰囲気を演出しているということか。

「警察庁長官が不法デモ者を拘束するというと、警察庁のホームページに集まっ てダウンさせてしまった。ハンナラ党、機動隊をハッキングして嘲弄した。道 路で警官が押してくればそのまま逃げずに。私を捕まえろと言ってカマボコに 乗ってしまった。バスツアー風刺はすごい。不服従直接行動が公権力を滑稽に する、そんな生き生きとした姿を見せたのではないか」。

また変わるオルタナティブ・メディアの概念、市民自治権力の構成を悩め

国家の監視統制が強化されて、特にインターネット空間で表現の自由を制約する流れが大きくなるという恐れがある。大衆行動はこれも簡単にやりすごす感じだ。

「朝鮮、中央、東亜日報が韓国社会の議題と談論を独占、主導してきたが、今 回相当破壊された。明らかに既存の言論とは違う形態のメディアが出現してい る。人々が直接自分の意志を自由に表現し、現場でデジカメと携帯電話のメー ルを飛ばし、個人がデモの状況を中継したりもするという驚くべき光景が広がっ ている。何か一つ問題を提起して、政府がとんでもない答えをすると、執拗に 追跡して明らかにしてしまう。放送通信委とチェ・シジュンの動きを見れば、 言論掌握のための政府の考えがわかる。諸々の名目をつけて言論掌握の試みは 放棄しないだろう。だが侮れない」

これまでのオルタナティブ・メディアは、インターネット言論そのものを指していたが、今回のキャンドル・デモの現場でインターネット言論とはまた違う次元のオルタナティブ・メディアが登場しているという評価だ。

「さらに準備して、国家の監視統制と日常的に戦える代案的なメディア創出を 準備しなければならない。ネチズンがアゴラを非難して離れればダウムもなく なるという選択の岐路に立つほかはない。ダウム・アゴラの変質や閉鎖に備え て空間を確保して作る課題も必要でないだろうか。進歩ネットでは難しいよう だし、進歩運動陣営がそういうことを悩むべきなのだが.. このネットワーク秩 序ができれば言論だけでなく、その後の市民自治権力を作る構想も可能ではな いだろうか」。

人権活動家はやはりキャンドルデモの現場で緑のチョッキを着て人権侵害監視活動をした。大衆の呼応も大きいようだ。

「活動家に力量があれば、人権侵害監視活動だけでなくデモ隊の中に入って、 私たちの話もしたいのだが、現実的にはこれまでもしてきた人権侵害監視活動 に留まっていて、ちょっと苦しい。だが初めて街頭に出た大衆からははるかに 遠かったが、現場で人権活動家が警察暴力に抗議するのを見て、信頼もして、 反応も良い。小さなカード一枚を配ったら、大切にして自分を守ってくれるお 守りのように思う。そのゴマ粒のような物を読んで、すぐに賢くなった。現場 で吸収する知識は、本当にものすごく早い。1万枚を準備したが、すでに5千枚 程度がなくなった。明日からは人を集めて、集会や憲法第1条路上特講もして、 ちょっと私たちの話をしてみるつもりだ」。

記事をまとめながら、約220年前にフランスで書かれた1793年憲法を検索してみ た。第1条、第28条、第35条が眼につく。大韓民国の権力と主権、その憲法第1 条を書き直す戦い、結果の断定は禁物だ。

第1条. 社会の目的は共同の幸福にある。政府は人間にそれらの自然で消滅で きない権利の享有を保障するために設立される。

第28条. 人民は常に自身の憲法を再検討して改正し、変化させる権利を持つ。 ある世代が未来の世代を自分たちの法で拘束できない。

第35条. 政府が人民の権利を侵害する時、蜂起は人民と人民の各部分にとって 最も神聖な権利であり最も不可欠な義務だ。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳)に従います。


Created byStaff. Created on 2008-06-07 18:29:15 / Last modified on 2008-06-07 18:29:18 Copyright: Default

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