本文の先頭へ
LNJ Logo 韓国:国定教科書反対だけでなく、自由発行制を主張しよう
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 1448797048234St...
Status: published
View


国定教科書反対だけでなく、自由発行制を主張しよう

[ヤン・ギュホンコラム]検認定制が労働者の要求ではない

ヤン・ギュホン(労働者歴史ハンネ代表) 2015.11.26 12:45

国定教科書の辞書的意味は 「国家が発行する教科書を意味し、国家の独占的地位を活用する。 特に、国定教科書が存在する場合、必ず国定教科書を使わなければならない」というのが百科事典の説明だ。 これは選択と解釈の余地がないという意味でもある。

韓国史教科書の国定化の議論は2003年に韓国近現代史教科書の発行検定化と2010年の中学校歴史教科書と韓国史教科の検認定教科書体制改編の時に台頭してきた。 特にこの問題は、2013年の教学社の韓国史教科書事態を起点としてまた明るみにでたが、 2013年の教学社教科書採択に関して激しい衝突が起き、問題が本格化した。

2013年の韓国史検定教科書事態の時、全国高等学校同窓会と地域団体はニューライト陣営が製作した教学社教科書の採択撤回運動を展開した。 特異だったのは、これがいわゆる左派の反発だというより、 保守や進歩ではない同窓会と保護者会などが中心になった望ましい教科書についての論争という性格が大きい。 その後、与党のセヌリ党を中心として教学社教科書を生かす運動が展開され、 2014年1月8日、教育部は教学社教科書採択撤回過程で「外圧があった」という調査結果を発表した。 同日、セヌリ党は歴史科目を従来の単一国定教科書に戻す方案を検討するという立場を発表した。

これに先立ち2008年9月、ニューライトは金星出版社が出版した韓国近現代史教科書が左偏向していると、議論の火種をつけた。 この過程でニューライト系列の学者と執権与党のセヌリ党と朴槿恵(パク・クネ)政権の国定化の動きが具体化し始めた。 そして4大改革の話題を投げかけて混乱をあおる渦中で、迷った教育部は青瓦台の圧力により、 急いで11月3日に確定告示を行い、今は執筆陣構成を完成しつつある。

しかし国定教科書はすでに始まった

修学能力連係教材のEBS教材は、教育部の圧力でその内容が変わった。 国定教科書ではなく、教育部が関与する対象でもないが初版本が修正された。 昨年9月2日付で言論が報道した修正の部分は、 まず「朴正煕(パク・チョンヒ)政府が反共を国是に定めて国会を解散した」だったが、 教育部の主張は国会の解散はしばしばあることなのに、 これを知る必要があるかとして修正を要求し、他の内容に変わった。 二番目に、「朴正煕政権が国家安保と経済成長を口実として維新憲法を公布した」と書かれていた部分に教育部が削除を要請し、出版本からはなくなった。 三番目はスパイにされて死刑が執行された曺奉岩(チョ・ボンアム)の問題も、教育部がさらに重要な人に変えろと要請し、李承晩(イ・スンマン)関連の問題に変更された。 四番目に労働活動家の全泰壹像の写真も教育部が削除を要請し、京釜高速道路の写真に代替された。 検認定教科書にもこうしたことが起こるのに、国定教科書の結果は国際社会でも笑い話になるほかはない。 国際的に自由発行制が大勢の状況で、国定教科書制度は独裁政権下で採択され、暗鬱だった70年代の長髪摘発と短いスカートの摘発、禁止曲指定などを連想させる。

検認定と国定化がまるで理念対決であるかように進歩と保守の前哨戦の様相で発展されている。 政府と執権与党は民衆を地域別に分けて世代を分裂させる反逆の政策を頑として押し通している。 ここには事実や真実と正義はなくなり、ひたすら政治的野心だけがうごめく。 これまで死活をかけて結着をつけようとした新政治民主連合は、民生を掲げようと言うセヌリ党の圧迫で国会正常化側に方向を旋回した。 政略的な判断かどうかはわからないが、真実と虚構の争点で歴史を数十年前に戻そうとする歴史的陰謀に、国会正常化カードで何もできないのは今の時期の野党の態度とは思えない。 もちろん野党は国定化反対を絶えず叫んでいるものの、はっきりした事実は政界における国定化教科書は別の局面を迎えていることだ。

この渦中で文化日報は対北朝鮮消息筋を引用し、 「北朝鮮の統一戦線部と偵察総局などの対南工作機関は最近、朝鮮総連などの海外にある親北朝鮮団体と国内の親北朝鮮組織、および個人に政府の歴史教科書国定化方針に対する反対闘争と扇動前を展開するように指示する指令文を送った」と報道した。 北朝鮮の指針が事実かどうかは分からないが、こうした北の指針を受ける勢力が南側にあるのかも疑問で、 執権勢力に不利な争点さえあれば北朝鮮を引き込む幼稚なやり方に吐き気がする。 政治的に分断を口実として進歩と歴史学者はアカ、保守は愛国という色をぶせる能力と技術には、自ずから感歎するしかない。 理念論争を押し出す弱い政治からは真実と定義は失踪し、ただ政治的野心だけがうごめいている。

進歩勢力の国定教科書反対の立場は検認定制賛成に映る

国定化は保守、検認定制は進歩の主張であるかのように通用している。 では検認定制は進歩の論理になるのだろうか。 全くそうではない。 検認定制は民間が出版をするものの、政府が審議権を持って教科書の内容に介入する制度だ。 EBS教材ですでに確認されたように、検認定の下で全泰壹(チョン・テイル)という名前さえも消された。 全泰壹像は朴槿恵氏が大統領候補だった時に花束を持って追慕をした所だ。 当時の朴槿恵の動きは、全泰壹を尊重したのではなく、 票を得ようとするための小細工だったが、全泰壹は労働者の精神であり、象徴なので全泰壹を訪問したのだろう。 しかしこの期に及んで一人の労働者も教科書に記録される態度は見られないということにはまったく理解ができない。 しかしそれが大統領朴槿恵の本質だというのだからどうしようもない。 しかし重要なことは、支配権力は国定化されなくても引続き教科書の内容を変えてきたという事実だ。 こうした状況で、労働者たちが国定化反対だけを叫ぶことは検認定を死守するという主張になるため、良いものとは見られない。

歴史の主人は労働者階級だ。 その根拠は社会発展の原動力、生産の主役、歴史の主体など、多様な理由をあげられる。 特に、与野を問わず世論を重視し手順を踏んだ民主主義を強調する支配階級の視点から見ても、 労働者が多数を占めているという事実から、明らかに労働者はこの社会と歴史の主人だ。 1500万の労働者が世の中を止めることもでき、投票を通じて権力を変えることもでき、体制自体を揺るがすこともできる。 ところが歴史と社会、生産の主役である労働者の名前や痕跡さえ、歴史教科書からなくしてしまおうと言うのだから、 検認定だからと言って容認されるのか。

世の中を変化発展させるために、働きながら激しく闘争した闘争精神と産業発展という美名の下、ベルトをきつくしめて生きてきた労働者たちは、 資本主義の発展にどのように作動し、それにともなう矛盾は何か。 長時間労働にさらされ、労働災害で病気になって死んだ労働者、 独裁政権により殺害された労働者、 死の原因さえ隠された民衆の疑問死が後が絶たない歴史の真実は何か。 1次産業の主役である農民の血の汗は、高度成長の歴史でどのように叙述されるべきか。 労働者の犠牲を踏み越えて育った独占財閥の実状と資本主義の本質も記録されなければバランスが取れた歴史ではない。 民衆の写実的な姿と生活の痕跡が歴史からすべて消され、反逆の政治家が英雄として浮き彫りにされる教科書は、 教科書ではなく支配勢力のイデオロギーを注入する道具に過ぎない。

検認定よりも自由発行制に焦点を合わせよう

筆者は憲法機関が好きなわけではないが、注目できる点がある。 憲法裁判所が教育的な価値に最も合った教科書制度として、 国定でも検認定でもない自由発行制を指定したという事実だ。 そのポイントは「国定制度よりも検認定制度を、検認定制度よりも自由発行制を採択することが教育の自主性、専門性、政治的中立性を保障し、 憲法の理念を高揚させ、さらに教育の質を向上することもできる」と教科書に対する結論を下したことだ。 支配権力、自由主義政治勢力があれほど称賛してはばからない憲法裁判所の決定文のように、 労働者たちは検認定制ではなくOECDの国家のほとんどが採択している自由発行制を主張しなければならない。 自由発行制を通じ、労働者、民衆の歴史を叙述して、労働の価値を理解させ、 1次産業の主役だった農民の人生と痛みを学生に学ばせることに不純な意図があるというのだろうか。

歴史とは、記録と事実の間の絶え間ない相互作用の過程であり、現在と過去の絶え間ない対話の連続だ。 したがって、歴史は人物の探求ではなく、年表を羅列するだけのものでもない。 歴史は私たち自身が置かれている時代的な状況をどんな観点から見るのかにその答えを探さなければならない。 事実がない歴史は、根元も生命力もない無意味なものでしかない。 歴史とは、ある事実をそのまま反映するとしても、どんな視点から歴史を記録するかによって非常に主観的な観点から叙述されるほかはないが、 民衆史観が反映されない教科書は、支配階級の論理でしかない。

労働者階級の歴史が省略された韓国史教科書は支配階級のイデオロギー

現在の検認定教科書さえ、歴史の主体であり社会の主人である労働者民衆の歴史が見えない。 歪曲され、隠され、消された労働者民衆の歴史を認めながらも、 国定化反対だけを叫ぶことに何となく寂しさがあるのはそのためだ。

国定化教科書に反対して多様性を認めつつ、労働者階級の観点から執筆され叙述される自由発行制という要求が強調されなければならない。 当分は巨大な資本と権力とぶつかることがあっても、労働者階級の人生と痕跡が含まれた教科書を絶えず主張しなければならない。 国定化反対と検認定を批判し、自由発行制を主張しても、その中に労働者民衆の歴史が溶け込んで教育されることが本当の教科書になるだろう。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2015-11-29 20:37:28 / Last modified on 2015-11-29 20:37:29 Copyright: Default

関連記事キーワード



このフォルダのファイル一覧上の階層へ
このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について