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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『地震と虐殺 1923−2024』(安田浩一)
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毎木曜掲載・第368回(2024/11/21)

底に流れる協働のこころざし

『地震と虐殺 1923−2024』(安田浩一、中央公論新社、2024年6月刊、3600円)評者:志真秀弘

 1923年関東大震災の時に、在日朝鮮人に対する虐殺事件が関東各地で起きた。政府や軍、そしてメディアのデマ報道が巻き起こした事件である。政府は、しかし、今もって責任を認めていない。それどころか史実を認めてもいない。

 これに対して、以前から、そして、ここ数年来、事件を独自に調査してまとめ刊行する仕事が市民によって続けられている。

 本書は、こうした積み重ねの現時点での集大成と言っていい。ルポルタージュとしての優れた表現力はもちろんだが、特筆したいのは著者の行動力である。すでに知られている現場であっても、かれは必ず足を運んでいる。目次からみるだけでも、東京・八広、横網町公園、新宿、亀戸、千葉・船橋、習志野、八千代、野田、埼玉・寄居、大宮、神保原、本庄、群馬・藤岡、神奈川・横浜、さらに関連して新潟・津南町、大阪・枚方、福島・西郷村、そして遺族を訪ねて韓国へも渡る。

 評者の住まいから遠くないところに千葉県立行田公園がある。その中心部に「海軍無線電信所船橋送信所」があった。この無線基地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が送信され(1941年)、太平洋戦争の先端が開いたことは有名であり、それを記す記念碑は今も行田公園の中にある。

 この電報から十八年遡る。1923年9月3日午前8時30分、この船橋送信所から後藤文夫内務省警保局長名で、各地方長官(知事)に次のような電文が送信された。

〈東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於イテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。既ニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ充分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加ヘラレタシ〉

 送信電文は国立公文書館で公開され、確認できる。

 行田公園近くの食料品店店主(93歳の佐藤ノブさん)は、彼女の父親が見聞きした虐殺事件の様子を、たまたま立ち寄った著者に話す。彼が聞き出そうとしたのではなく、女性自身が語り出したのである。

 政府が、そして首長たちの何人かが、虐殺の事実は「公的に確かめられない」、あるいは「諸説ある」というが、それはどれほど欺瞞に満ちているか。公文書も人々の記憶も、全てを消すことなどできない。

 記憶と資料を掘り起こしてきたのは国でも地方行政でもない。地域の歴史を探った女性教員であったり、場合によっては歴史に関心を持った中学生であったりする。「つまりこれらの人々がいなければ、日本社会は虐殺の詳細な中身を知ることもなかった」。著者の安田は自戒を込めてこう記す。習志野収容所による朝鮮人捕虜「払い下げ」事件をとってみても中学生と顧問教師によるスクープであり、「私たちメディア人は、こうした人々の調査結果に便乗しているだけではないか」。

 著者のこうした謙虚な姿勢、さらに先人へのリスペクトは、600ページを超える本書を貫いている。また荒川河川敷の遺骨発掘をリードした絹田幸恵はじめ、先人たちに女性が多いのも、読んでいて印象に残る。著者はこう書く。「私が本当に頭が下がる思いでいるのは、女性の行動力と情熱である」。虐殺の現場を訪ね、100年前に殺された一人ひとりを思うーその忍耐強い作業を著者にやり遂げさせたのは、先行した仕事に込められていたひたすら真実を探ろうとする謙虚な気持ちの連なりだったかもしれない。

 悲惨で残酷な事実の集積があきらかにされていても、読後落ち着いた気分がもたらされるのは、本書から浮かび上がる人々の協働によると思う。あわせて著者も強調するように、今世紀に入ってからの排外的風潮の高まりとそれによる民族差別の横行を見逃すわけにはいかない。その克服もまた今からの課題だ。


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