本文の先頭へ
LNJ Logo YUZO LIVE に行ってきた/現在の生き方を問われる感覚
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 1727408035547st...
Status: published
View


小泉雅英

豊田勇造の歌を聴いていると、不思議と昔のこと、その後のこと、どんな
風に生きてきた のか、今、どのように生きているのか、そんなあれこ
れを思ってしまう。お前は何をして来たのか。お前は今、何をしてい
るのかと。多分、彼が同年代で、同じ時代を生きてきた、 という感覚
があるからだろうか。全く別の場所で、互いに関わりのない人生を生
きて来たのに、そんな感覚を呼び起こされるのは、不思議と言えば不思議だ。 彼の歌を初めて聴いたのは、1972 年の東大五月祭だった。山下洋輔バンド
(トリオ?)や 安田南も登場した。安田南は、ジャニス・ジョプリンの
Summertime を歌った。 その前年に、激しい政治運動があり、時代が
暗転するように、年明けから、どん底に落ちた感覚だった。重苦し
く、暗い、最悪の時間が続いた。銃撃戦を伴った浅間山荘事件の 敗
北、連合赤軍によるリンチ殺人事件。それらの繰り返される報道に、
打ちのめされていた。それに加えて、党派闘争の深刻化は、日常的 に
緊張を強いていた。そんな年の大学祭に、誘われたのだった。今から
考えると、その友人は、私を元気づけてやろう、と思ってくれたのか
も知れ ない。80 年代初めに、偶然、路上で再会した時、 当時の私が
ほんとうに暗かったことを、笑いなが ら話してくれた。当時の私に
は、三十代の人生な ど、全く考えられなかった。 そんな私に、1974 年夏の三菱重工爆破事件は、 ダメ押しの衝撃だった。
「えらいことやってしもたな」というのが、当日、夜のニュースを
見て浮かんだ言葉だった。それまで、ベトナム反戦闘争の流れの中
で、天皇制打倒、安保粉砕、日帝打倒、侵略を内乱に、などというス
ローガンを掲げ、不十分とは言え、入管闘争にも関与して来た。しか
し、侵略企業に爆弾をという発想は、全くなかった。日本の戦争責
任・植民地支配責任などを、爆弾で解決・清算できるなど、考えられ
なかったからだ。 まして、日帝本国人だから殺傷されても当然などと
いう発想は、ほんとうに観念的で、傲慢な思想だと今でも思っている。 翌 1975 年の春、息苦しい日本を脱出し、秋までの半年間、バスを乗り継
ぎながら、アメリカを放浪した。その過程で、いろんな人に会い、話
し、旅する中で、本来の明るさを回復していった。メキシコにも脚を
伸ばした。ジャニスが生まれ育った港町、ポートアーサ ー(テキサス
州)も訪れた。彼女はその町を飛び出し、西海岸を拠点に、ミュージ
シャンとして生きた。最期は 1970 年 10 月、ロサンジェルスのホテ
ルだった。ヘロインなど薬物とアルコールにまみれた27歳の、孤独な
死だった。遺作『Pearl(パール)』には、魂の底から 叫ぶような、
ジャニスの声が収められている。録音前に急死したため、歌がな
く演奏だけの曲は、「Buried Alive in the Blues(生きながらブルースに
葬られ)」と名付けられている。 1980 年代初めに、キッドアイラックホール(東京)で開かれたライブで、豊
田勇造と再会した。彼も海外を旅していた。その時のライブに誘って
くれた友人の連れ合いが、和太鼓奏者のケニー遠藤(Kenny Endo)で、
勇造氏とも共演したことがあった。そんな人の繋がりの不思議も感じ
た。そう言えば、その時のライブには、吉田ルイ子さんも来ていて、
狭いフロアーで一緒に踊った。 その後のことは省略するが、豊田勇造
の歌を聴くと、人生の様々なことを思い出し、現在の生き方を問われ
る。私には、そんな不思議な感覚を呼び起こすミュージシャンであ
る。 (2024/09/26 記) Facebook記事↓ https://www.facebook.com/share/p/Ty4SCJooaGDu5K4J/?

Created by staff01. Last modified on 2024-09-27 13:08:57 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について