17日夜のETV特集は「昭和天皇・秘められた終戦工作」と題し、天皇裕仁の最側近だった木戸幸一内大臣と南原繁東京帝大法学部長(後学長)による「終戦工作」に焦点を当てました。重要な気づきもありましたが、見過ごせない欠陥が少なくありませんでした(写真中の右が木戸、左が南原)。
番組の要点(私のまとめ)は以下の通りです。
戦況が悪化した1943年から木戸と南原は連絡をとりながら、いかに戦争を終わらせるかを検討し始めた。
「本土決戦」を主張する陸軍を納得させるためには、開戦が天皇の詔書で始まったことに倣い、終戦も詔勅によるしかないと考えた。
南原は、国体(天皇制)は守るが、裕仁の退位はやむを得ないと考えた。
45年6月8日、木戸は「終戦対策原案」をまとめ、翌9日、裕仁に上奏した。裕仁は「速やかに(終戦工作に)着手すべし」と命じた。
木戸はソ連に仲介を依頼すべきと主張。南原はそれに反対し、直接米英と交渉すべきだとした。アメリカ内部に天皇制維持を支持する勢力(「ソフトピース」)があることを知っていたからだ。
7月2日、ポツダム宣言原案がまとめられた。そこには「天皇制維持」が明記されていた。
ところが7月16日、トルーマン米大統領に「原爆実験成功」の報が入った。
トルーマンは7月25日、日本へ原爆を投下すべしという極秘命令を出した。
7月26日、ポツダム宣言が発表された。そこでは原案にあった「天皇制維持」は削除されていた。「宣言」は原爆投下のアリバイにすぎなかった。
日本は「宣言」を「黙殺」した。そして、「8・6」「8・9」をへて、8月14日、臨時御前会議でようやく「宣言」を受諾した。
8月31日、南原は木戸への手紙であらためて裕仁の「退位」を進言した。
12月6日、占領軍から木戸の逮捕命令が出た。その日裕仁は木戸を呼んでねぎらった。木戸は裕仁に、今は退位すべきでないと具申した。
東京裁判で東条英機らには絞首刑の判決が下されたが、木戸は「終身刑」の判決で、1955年に仮釈放された。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効した日、記念式典に天皇裕仁が出席し、「おことば」を述べた(写真右)。
以上の内容について、感想を箇条書きします。
1、番組の中心点は、木戸や南原の「終戦工作」が裕仁の「退位」を前提にしたものだったということで、それ自体は注目される。しかし、それはあくまでも天皇制の維持・存続が大前提だった。そこに木戸、南原の決定的な欠陥があった。
2、南原の「退位」論は、裕仁には「政治的責任はないが道徳的責任がある」というもの。しかし、裕仁に政治的責任があったことは明白で、ここにも南原の大きな弱点がある。
3、木戸や南原の「退位」論は天皇制を守るための弥縫策にすぎなかったが、裕仁はそれすらも拒否し、天皇の座に座り続けた。たんに座り続けただけでなく、天皇の政治関与を禁じた日本国憲法が施行した後も政治に関与し続けた。その典型は沖縄をアメリカに売り渡した「天皇メッセージ」(1947年9月17日)である。
4、番組は「遅すぎた聖断」(番組の中で吉田裕・一橋大名誉教授の言葉)がいかに重大な結果をもたらしたかを示した。しかし、番組はその責任は主に陸軍にあるとし、統帥権を握る大元帥でもある裕仁の政治的軍事的責任を事実上隠ぺいした。
5、裕仁が終戦を遅らせた事実で特筆すべきは、終戦を進言した「近衛(文麿・元首相)上奏」(1945年2月14日)を裕仁が却下したこと。しかし、番組はこれについて一言も触れなかった。
番組の最後に吉田裕氏はこう指摘しました。
「退位論についても十分に戦争責任について議論したり認識したりする場が東京裁判以外にない。自前の議論をできる場がなかった。国民は完全に蚊帳の外に置かれていてまったく情報がない。敗戦という戦後史の初発のところで受け身の対応にならざるを得なかった」
重要な指摘です。「自前の議論」すなわち日本「国民」が主体的に戦争責任とりわけ天皇裕仁の戦争責任について「議論をできる場がなかった」、しなかった。その過ちは、日本・日本人の無責任体質、歴史(とりわけ加害の歴史)に対する無関心を助長し、天皇制を存続させていることになり、今日まで尾を引いています。
「国民が蚊帳の外で情報がなかった」のは、新聞をはじめとするメディアの責任に他なりません。そのメディアの過ちも検証されることなく、今日の体制順応体質に引き継がれています。