本文の先頭へ
LNJ Logo 太田昌国のコラム : ふたりの知人を喪っての思い
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 0410ota
Status: published
View



 ●第89回 2024年4月10日(毎月10日)

ふたりの知人を喪っての思い

 去る2月にふたりの大事な知人を喪った。そのふたりのことを書き留めておきたい。

 2月22日に亡くなったのは、赤堀政夫さんだ。94歳だった。そのお名前を見聞きしても、誰だか分からない方も増えているかもしれない。日本が無謀なアジア侵略戦争で敗北した年から10年と経たない1954年に静岡県島田市で起きた幼女誘拐・殺人・遺体遺棄事件の容疑者として、赤堀さんは逮捕された。この一件については、詳しくは、伊佐千尋『島田事件』(潮出版社、1989年。のち新風舎文庫)や白砂巖『雪冤 島田事件――赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか』(社会評論社、1987年)などに委ねたい。

 警察による取り調べの段階で、殴る・蹴る・首を絞める――などの拷問を受けた赤堀さんは、強制的に「自白調書」」を取られた。裁判所は「自白」に存在する重大な矛盾にも目を瞑り、1958年静岡地裁、1960年東京高裁、同年最高裁で、いずれも死刑判決を下した。一審判決は「被告人は知能程度が低く、軽度の精神薄弱であり……殆ど通常の社会生活に適応できない」と断定した。

 赤堀さんは、弁護士、冤罪者救援運動、精神障がい者に対する差別・排除を異議申し立てる運動体などに支えられながら、最高裁最終判決の翌年の1961年から再審請求を行なった。3度の再審請求が棄却されても、1969年に行なった第4次再審請求が実り、1987年に再審決定となった。そして1989年1月、再審で無罪判決を勝ち取ったのだった。正当性のない形で身柄を拘束されてから34年8ヶ月、死刑判決を受けてから29年8ヶ月が経過していた。この1980年代には、赤堀さんを含めて、実に4人の確定死刑囚の再審無罪が確定している。

 自らの経験に照らして、死刑は絶対になくさなければいけないと考えていた赤堀さんは、解放されて後、袴田巖さんを初めとする冤罪犠牲者支援、死刑廃止、障がい者差別とのたたかいに取り組んだ。私も関わっている「死刑廃止のための大道寺幸子基金」は2005年に発足したが、それは、再審請求を行う死刑囚への資金援助と死刑囚表現展の開催を2本の柱としている。そのことを知った赤堀さんは、あるとき京都で開かれていた死刑囚表現展を見たうえで、自分も「死刑を無くすために、仲間に入れてもらって一緒にやっていきたい」と言われ、上記の「基金」に資金を提供していただいた。だから、2015年以降は「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」と改称し、現在に至っている。そのお陰もあって、死刑囚表現展は今秋第20回目を迎える。

 正月にいただく赤堀さんの年賀状には、いつも近影の写真が添えられていた。赤堀さんの笑顔には独特の穏やかな雰囲気があって、忘れがたい。

 2月25日に亡くなったのは、寺越友枝さんだ。92歳だった。寺越さんは、それこそ3ヶ月有余前の震災で大きな被害を受けた石川県羽咋郡邑知潟(現羽咋市)の生まれの方で、ずっとそこにお住まいだった。いまから60年以上も前のこと、1963年5月、友枝さんの息子で、当時中学入学して間もない武志さん(13歳)は、叔父2人とともに小型漁船に乗って、能登沖でのメバル漁に出た。高浜港から出港し、北寄りの富来町(現、志賀町)福浦港に立ち寄って沖に出たまま、行方不明となった。それから24年も経った1987年、叔父のひとりから能登の親戚に手紙が届いた。3人は「失踪」後は朝鮮に暮らしており、結婚し、家族もいるという。

 以後、友枝さんは息子に会うために朝鮮へ通うことになる。武志さんは、2002年10月、朝鮮労働党員及び労働団体の代表団の副団長として「来日」を果たし、故郷も訪れた。朝鮮から同行してきた「付き添い」の監視員はひとときも武志さんから離れることはなかった(これと同じようなことは、ヤン・ヨンヒ監督の映画『かぞくのくに』でも重要なエピソードとして描かれているから、さもありなんと思われよう)。

 私は、2006年〜08年頃だったか、京都の方たちに招かれて、3年連続で拉致問題に関する講演を行なった。会場が「哲学の道」に近い法然院だったこともあって、忘れがたい思い出だ。友枝さんが2度その場に来られていた。寺越さんの「事件」の予備知識はあったから、長年直面している「悲劇」すらをも静かな口調で話される友枝さんのことばは胸に堪えた。

 武志さんは「失踪」の事情を母親に話すこともなかったようだ。朝鮮は、遭難した日本船と乗組員を救助したというが、救助したならすぐ返すべきだったろう。1963年といえば、金正恩の祖父=金日成が絶対的な独裁権力を確立しつつあった時代だ。彼の命令には誰も背くことができない支配体制を強固に作り上げていた段階の出来事だから、隣国の漁民の「災難」に乗じての「人質的」処遇に関わる金日成の責任は重大だと言える。(日本国が、その段階で植民地支配に関わる責任を果たしていないという事実は、別個の問題として、解決すべきことだと捉えられよう)。

 友枝さんは武志さんに会いに、朝鮮へ70回ほども行ったと聞いた。また、地元出身の議員だから森喜朗に政治的には世話になっていると言っていた。気の毒なことだ。拉致された家族を取り戻すために朝鮮との交渉を必要としている人びとは、安倍晋三といい森喜朗といい、最も頼りにならない人物に下駄を預けるしかないと思い込んでいたのだ。

 もうひとつ、付け加えておきたい。在日の友人が、今回の奥能登地震の被災者の中にいるであろう在日のひとを探し求めて現地入りし、最小限の支援物資を届けてきたという報告があった。数で見れば決して多くはない在日の人びとが、能登でひっそりと、「根無し草」として生きてきた様子が感じ取られて、切ない。

 能登の地には、去る1月の震災直後の本コラムで書いたような、拉致問題をめぐる重大な事実も埋め込まれている。→ http://www.labornetjp.org/news/2024/0110ota

 これらの、幾重にも折り重なった重層的な事実を視野に入れながら、問題の本質を掴み、解決の道を探ること――困難ではあるが、この課題が私たちの前にあることを改めて自覚しておきたい。


Created by staff01. Last modified on 2024-04-12 13:13:32 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について