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LNJ Logo 大田昌国のコラム:去りゆく葉梨は私であり、あなただ
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 ●第73回 2022年11月10日(毎月10日)

 去りゆく葉梨は私であり、あなただ

 選挙制度としての代議制に対する疑問は、若い頃からもっていた。「自分を代表するものは自分以外の何者でもない」とするのは、人間の在り方として基本的なことだからだ。だが、実際の選挙になると、国政選挙でも地域選挙でも、ヨリましな候補者に投票する程度には私は一貫して「現実主義者」ではあリ続けてきた。投票したひとに過剰な期待は寄せないままに。

 その私にして、いつの頃からか、選挙結果を見ながら次のように想うようになった。有権者はよりによって、この社会の中でも、倫理的にも論理的にも《もっとも悪いやつら》をわざわざ自分の代理人として選んで、国会に送り出している! まあ、その時期ははっきりしている。去る7月に狙撃死した元首相が――当選して間もない頃は、自民党内少数派+極右派を自認していたかれが――いつの間にか、事もあろうに自民党総裁に選ばれ、必然的にこの国の首相にまで上り詰めた(とりわけ、いったんは病気で退いたのに、5年後に復活した)2012年以降のことである。その頃から、かれが全国各地で目に留めた「特異な」政治的意見を持つ者が(ということは、かれに政治的な立場が近いということだが)、とりわけ女性が、自民党の公認候補者となる機会がとみに増えた。それらの女性たちが、当選後次々と「問題発言」をしたり、選挙違反を問われて失職した議員が実は選挙直前に党中央から特別な選挙資金の提供を受けたりしていたことなどを思い起こせば、その異常さを納得していただけるだろう。かの女たちの「問題発言」とはいっても、それは多くの場合、首相本人が、自らの立場では言えなくなった《過激な》ことを、代弁しているだけだという事の本質は見ておかなければならないと思ってきた。

 そして、かれの狙撃死から4ヵ月のいま、自民党総裁としてかれが選挙に際してどんな采配をふるっていたか、それがどんな価値観を持つ勢力によって支えられてきたかなどが、明々白々となりつつある。《もっとも悪いやつら》が代議員に成り上がっていくからくりの一方法が、はっきりと見えてきたと言ってよいだろう。

 ここ数日、葉梨康弘法相(この文章を書いている間に、前法相となった)の発言が取り沙汰されている――曰く、「法務大臣というのは、朝、死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」。「今回は旧統一教会の問題に抱きつかれてしまい、一生懸命、その問題の解決に取り組まなければならず、私の顔もいくらかテレビで出ることになった」。「外務省と法務省は票とお金に縁がない。外務副大臣になっても、全然お金がもうからない。法相になってもお金は集まらない」。

 自民党派閥内のパーティや地元の支援者を前にした場で、繰り返し語ってきた「言の葉」のようだ。このような語り口、ボヤキ方が「受ける」ことを知っているのだろう。またか! とは思うが、驚きも怒りもさして強くはない。「テレビに出て有名になる」「閣僚に就けば、お金も自然と集まり、選挙もやりやすくなる」――そう信じて疑うことのない、こんな程度の人間をわざわざ「有権者」が選んできて、久しいのだ。葉梨の言葉と顔つきには、自分たちの思いと表情が映し出されているのだ、と有権者は思わなければならない。自分は違う? そう、自分は「ヨリましな」ひとに投票したかもしれない。でも、大勢は「葉梨的な」人物を選んだからこそ、現在の日本の政治状況があるのだ。

 でも、それだけか? 私自身、「ヨリましな」候補が某野党にしかおらず、致し方なく、その党の候補に投票したこともあった。その党は自民党に代わって2009年から2012年まで政権の座に就いたが、案の定、いくつもの案件で野党時代に公言していた政策をガラリと変えた。死刑廃止の立場から活動していた一議員は、法相になった途端に、葉梨の言う「死刑のはんこを押した」。

 この社会の在り方を法律として定めるのが国会である以上、国会の議員構成について、つまりは選挙結果に、少なからぬ関心を持つことは当たり前のことだ。だが、それを当たり前のこととして言うには、今の国会議員の在り方は、押し並べて、ひどすぎる。葉梨が有権者によって選出された人物である以上、葉梨的なものを、私たちの日常とははるかにかけ離れたものとして彼岸化してはならない。葉梨は私だ、あなただ。

 葉梨発言を取り上げた11月11日付け朝日新聞コラム「天声人語」は、ジョージ・オーウェルの「絞首刑」という掌編に触れた。文庫本でわずか9頁に収まるこの作品は、葉梨とは180度異なる視点から、死刑囚のみならず、それを見つめる作家自身を凝視する(『オーウェル評論集』、小野寺健編訳、岩波文庫、1982年、所収)。

 日本で言えば、永田町・霞が関という代名詞に表象されて語られる政治空間に充満する虚しさと欺瞞と傲慢さから離れて問題の本質に出会うためには、政治とは異なる次元から「政治」の本質を衝く文学・芸術の力が、いつの世でも、蘇りの力を私たちに与えてくれるのだろう。

*写真=「時事通信」「東京新聞」報道より                                       


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