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LNJ Logo 写真と感想〜フェスタでわしも考えた(攝津正)
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12月1日、恒例になった「反戦と抵抗のフェスタ」が東京・千駄ヶ谷区民会館で開催された。これまで最高の400人以上が参加し盛り上がった。以下は、攝津正さんの投稿である。写真撮影は、梶屋大輔さん(デモ)・清水直子さん(そのほか)。

フェスタでわしも考えた。/攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. "Linda"

反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉に参加してきた。

昨年も一昨年も参加してきて、流れというか、持続的なテーマが見えてきたように思 う。それはずばり、「オルタな生は可能か?」だ。いいかえれば、左派は可能なのか ということだ。世界社会フォーラムがいうような、「もうひとつの世界」は可能なの かどうか、ということが問題なのだといえる。

「生きのびる」。それは大切なことだ。だが、その内実が問われなければならない。 どんな生であれ(無差別に)生きることが善いことだというのは、「生存主義」だ。 生が生きるに値する生であるか否かこそが問われているし、生きるに値する生を生き させろ!という要求としてぼくたちは声を挙げている。

原発や死刑のない世界を想像し、実現することは可能か。有機農業で食っていくこと は可能か。G8ではない、草の根の民衆の連帯を実現することは可能か。尊厳ある労働 を取り戻すことは可能か。戦争をしないで生きていくことは可能か。こうした一連の 問いの果てに、「オルタな生は可能か?」という問いが見えてくる。

生はそれ自身としてそれ自身を肯定する、ということはたやすい。だが、繰り返しに なるが、生きるに値する生を生きさせろ!ということが問題なのであって、ここには 価値評価というニーチェ的な発想が必要になる。

また、フッサールが現象学的探求の果てに生世界(生活世界)を発見した時、彼はそ れを構成するダイナミズムを見落としていた。そのダイナミズムとは、言うまでもな く、資本主義の運動である。ハイデガーが歴史に関する省察において、フッサールよ りマルクスを上位に置いたのは正しかった。ぼくたちの日常の生世界(生活世界) は、資本主義によって構成され、「商品の巨大な集積」として現れている。本来自由 活動であるべきものが、賃労働として現象している。

そんななかで、では、「脱資本主義」的な生き方が本当に可能なのか、ということが 問題になる。オルタ職場といっても、ワーカーズコレクティブ的なあり方をしている と自称していながら、最低賃金を割り込んだり、構成員を人格的に蹂躙するような経 営をしている場合もある。また、あかねのように、スタッフに賃金も支払われず、ま たもろもろの腐敗もあるというケースもあるだろう。ぼくの実践としても、Cafe LETSはオルタ志向だが開店休業状態だし、芸音音楽アカデミーをオルタと言うには躊 躇いがある。ぼくたちは、ズブズブの資本主義的価値観の中で暮らしており、そこか らの出口はないのではないのか?

「希望は、戦争。」議論にしてもそうだ。試みに、参加者全員に紙を配って、「32歳 不安定××、希望は、○○。」と書いてもらえばいい。希望として挙げられたもの が、果たして希望に値するのかどうか、吟味すべきだ。例えば、矢部史郎は「希望 は、階級戦争(class war)。」だといい、Tは「希望は、階級闘争。」だといい、雨 宮処凛は「希望は、革命戦争。」だという。だが、それらの内実を問うべきだ。

階級戦争というような言い方は、混乱を招く。赤木智弘が提起し表象しているような 戦争とそれは、明らかに違うはずだ。例えば、そこに殺し殺される関係はあるのか?

 階級闘争といっても、ぼくなどより遥かに「黒い」=アナキズム志向のTの口から 階級闘争などというマルクス主義的用語が飛び出ることに違和感がある。今階級がな いとは言わないが、かつて考えられた階級闘争とそれはどこが同じでどこが違うの か、明確にすべきだ。そして、「希望は、革命戦争。」というような言い方について は、それはそれを口にしているのが雨宮処凛だから許されているだけで、例えば塩見 孝也が同じことを言ったら許されるのか。本当にそれは、「冗談にならない」はず だ。

ぼくが考えていたのは、「希望は、……」と絶句し、失語する時、テロリズムしかな いという考えが生まれるのではないか、ということだ。自爆攻撃は絶望の表現であ る。が、絶望しかない土壌に生きる者が自己と他者を破壊する行為を、誰が倫理的に 咎められよう。

赤木智弘が、怨恨から社会そのものをぶっ壊し、不利益を平等に分配したいというな ら、手っ取り早いのは戦争ではなく、テロリズムだ。現在、国家ではなく、脱国家的 主体も軍事的な威力を行使し得る条件が整いつつある。希望を見失った者が、自己破 壊(そして他者の破壊)に走るのを制止する条件は、倫理的にも現実的にも、ほとん どない。そういえば、ぼくたちはもうすでに、オウムによるサリンばら撒きを経験し ているではないか。現存社会への「否定」がどす黒いかたちで現象する時の恐るべき 形態を知っているではないか。それと同じような、或いはもっと恐ろしい行動が考え られるし、将来起きる可能性がある。

ぼく自身も希望を持っているわけではないし、フェスタそのものがそれを明示したと も思わない。だが、サウンドデモ、特にvoco protesta http://a.sanpal.co.jp/protesta/の演奏は、政治的=音楽的「事件」だった。この 出来事の、既成秩序解体的意味が分からない人は、(西洋)音楽の規範においてコー ドが果たしてきた役割を理解していない人だろう。また、彼らは、エスペラント語で 歌詞を絶叫することで、日本語を脱するという過程で脱意味化し、といって全くの無 意味でもなく、エスペラント語での語りに意味を込めたのである。閉ざされたライブ ハウスではなく、開かれた原宿の街路でこの音が解放されたことには大きな意味があ る。

中上健次に『破壊せよ、とアイラーは言った』というエッセイ集があるが、現実にテ ロ行為を行うのではなく、音楽的に昇華したかたちでそれを為すということに意味が あるのではないか。だが、これも凡庸な芸術礼賛かもしれない。経済に踏み込まなけ れば、つまりどうやって食っていき暮らしていくかというところまで踏み込まなけれ ば、こうした言説には意味がないだろう。TVなどが撒き散らすメジャーな集団的主観 性(幼稚化され、凡庸化された)にどうやって対抗していき、マイナーな営みを流通 させていくか、というのは大きな課題だ。パンク的なDIYの課題でもあるだろう。ぼ くたちは、自分達の力で、どこまでのことができるのか、それを試さなければならな い。


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