韓国:娘の命日の前に彼が監獄から出てきた | |||||||
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娘の命日の前に彼が監獄から出てきた[ワーカーズ ルポ]サムスンに対抗した3990日の戦い、353日で出所した李在鎔
ユン・ジヨン記者 2018.03.05 14:29
2月5日月曜日娘の命日を一か月ほど前にして、彼が監獄から出てきた。 何と433億ウォンの賄賂をおくった者であった。 娘、ユミを死亡させても、これを隠そうとしていた者だった。 ユミのように希少病で死んだ労働者だけで118人。 多くの人を殺しながらも彼は一言の謝罪もしなかった。 責任も取らず、処罰もなかった。 今回もそうだった。 彼は堂々と監獄から歩いて出てきた。 せいぜい353日目に。 2月5日。 ファン・サンギ氏はソウル高等法院の前でまたプラカードを持った。 急いでA4用紙に出力したプラカードには 「李在鎔(イ・ジェヨン)を釈放したチョン・ギョンシク裁判所は判事の資格がない」という文句が記されていた。 記者会見の間、騒乱が続いた。 太極旗と星条旗を持った人たちが罵声をあげながら叫んだ。 人生の落伍者だと、犬野郎だと罵声をあびせた。 目をとじ、耳をふさいでも、心が傷つくのはどうしようもない。 ファン・サンギ氏は心に積もる鬱憤をぎゅっと押し隠してマイクを持った。 「判事が何の判断もせずにサムスン電子の最高権力実力者に免罪符を与えました。 サムスンが犯した多くの誤りは一つも解決されていません。」 ファン氏の隣にいたキム・シニョ氏もマイクを持った。 彼の娘、ヘギョンさんはサムスンLCD工場で働いて脳腫瘍になり、障害1級の判定を受けた。 「お母さん、李在鎔が解放されたらどうする?」 夜中に眠れず、不安がっていたヘギョンの声がしきりによみがえる。 「なぜ裁判所はサムスンの前に行けば小さくなるでしょうか」。 結局、キム氏は泣いてしまった。 サムスン電子の李在鎔副会長が監獄から釈放された日。 ファン・サンギ氏は江南駅のサムスン電子本館前座込場で夜を過ごした。 娘のユミが白血病と闘った600余日。 サムスン本館前でテント座り込みをして853日。 そしてユミが死んだ後、サムスンと戦ってきた3990日。 被害者と遺族の地獄のような時間は果てしないのに、 彼の罰がせいぜい353日間の拘禁とは。 百万回、千万回、十分に考えても明らかにくやしく、胸が痛むことだった。 2月10日土曜日五日後にまたソウル行の高速バスに身をのせた。 束草からソウルまで、そして地下鉄で光化門駅まで。 その日の晩、光化門世宗文化会館の前で李在鎔釈放を糾弾する最初のキャンドル集会が開かれた。 何を置いても参加しなければならない場だ。 暖かくなったとはいえ、日が落ちると骨の髄までしみる寒さが襲ってくる。 二百人にもならない人たちがコンクリートの地面にスチロールの座布団を敷いてシュプレヒコールをあげる。 ファン氏は四番目の発言者として舞台に上がった。 バスの中でぎゅっと押し込めていたくやしさが出てくる。 「われわれはこれ以上、検察と裁判所を信じることができません。 私たちがまた直接立ち上がって司法府とサムスンを改革しなければなりません」。 マイクを置いた後も怒りが収まらないようだ。 ファン氏は記者に今までサムスンが犯した違法行為らをならべた。 裁判所の控訴状にまだ指摘されもいない、数え切れない社会的な事件が彼の口から流れる。 龍山惨事と済州道江汀村、西海油流出事件、果川撤去民生存権問題まで。 サムスンが絡んでいないところもなく、サムスンが責任を取ったところもないという。 娘の死もそうだった。 サムスン電子の李在鎔副会長は、彼の娘ユミの死に対して明らかに知っている。 直接サムスン職業病の被害を口にした。 ファン氏は2016年12月6日を絶対に忘れない。 その日、李在鎔副会長は国会で開かれた財閥聴聞会に参加した。 その場で、ある議員が李在鎔に尋ねた。 「サムスン半導体工場で働いて急性白血病で死亡した故ファン・ユミ氏を知っているか」。 李在鎔が「はい」と言った。 議員がまた尋ねた。 「サムスンはファン・ユミの死の前に500万ウォンを差し出した。知っているか」。 李在鎔が答えた。 「二人の子どもを持つ父として、本当に胸が痛みます」。 李在鎔は繰り返し強調した。 すべてに重大な責任を感じていると、これからは絶対こんなことがおきないように徹底的にすると。 全国民が見ている前で彼は責任を語った。 だが彼はその前も、その後も、サムスン職業病問題の責任を取らなかった。 「2014年5月にも権五鉉(クォン・オヒョン)社長は報道機関の前で申し訳ない、 職業病問題を解決すると約束しました。 しかしまだ解決していないんです。 サムスンはそんな形です。言論プレイだけしています」。 それで李在鎔が監獄に閉じ込められていた353日間にも、 ファン氏は江南駅テント座込場を守った。 一週間に一度は必ず束草からソウル行の高速バスに乗って座込場で夜を過ごした。 そうして流れた時間はもう858日になる。 2月13日火曜日キム・シニョ氏が春川から上京してきた。 今日は江南駅のパノルリム座込場にリレートークの客が来る日だ。 おかしなことに娘のヘギョン氏の姿が見えない。 キム氏はヘギョン氏が最近、足の指の手術を受けたので一緒に来られなかったといった。 寒い冬、座込場で使い捨てカイロを当てて火傷をしたせいだ。 母娘はいつもガムテープのように一緒に歩いた。 脳腫瘍の手術を受けたヘギョン氏は、一人で歩くことも、食べることもできなかった。 それでも母娘は一週間に一度は車椅子を引いてソウルに上京し、 テント座込場で夜を過ごした。 李在鎔が釈放された5日にも、 キム氏は一人でソウル行のバスに乗った。 彼女はバスで不安に震え続けた。 娘を家に一人で置いてきたのも、李在鎔2審判決も、全てが不安だった。 娘のヘギョン氏は何日か前からよく眠れず、唇に二つも水ぶくれができていた。 いつよりも敏感そうに見えた。 初めは兄弟げんかのためだと思った。 心に閉じ込めておかず、お母さんに話せと言い聞かせた。 その時、始めてヘギョン氏が泣きかけながら打ち明けた。 「お母さん、私は李在鎔が出てくるような気がする」。 その日、李在鎔が釈放された。 高等法院の前にいたキム氏は、家にいるヘギョン氏を考えると目の前が真っ暗になった。 携帯電話の液晶画面にはすでにヘギョン氏が残した留守電話二通が記録されていた。 崩れそうな心を引き締めて、娘に電話をかけた。 受話器の向うでヘギョン氏が「あっ」と叫んだ。 そばにいれば抱いてやることもできるのに、なだめて慰めて撫でてやれるはずなのに。 春川の家で一人で叫んでいる娘を考えて泣き出してしまった。 李在鎔が収監されている間、母娘はいつも不安だった。 いつも李在鎔の裁判を追いかけた。 罰も受けずに釈放されるかと思って心労焦燥した。 そのうちにひどいこともされた。 昨年8月、李在鎔結審公判の前日。 二人の母娘は傍聴券を得るために裁判所の前で夜を明かした。 彼女たちが裁判所に到着するやいなや、太極旗部隊の人々の悪態が始まった。 「口にすることもできないような悪態をつきました。 いくらお金をもらったのかと言って。 耐えて耐えてヘギョンが『おばさん、私たちはお金をもらってきたのではありません』と言うと 『そんなことを暗記してきたのか』と悪口を言いました」。 悪態は夜中ずっと続いた。 耳を防いでいる娘を見るのがとてもつらかった。 翌日、何も得るものなく裁判所を出て、泣けば負ける歯を食いしばったが、涙に耐えられなかった。 キム・シニョ氏もハン・ヘギョン氏も、その日、とても心が傷ついた。 ヘギョン氏はいつも人の前で「私はサムスンで働きました。それは本当なんです」とクセのように話した。 なぜ娘がそんな話をするのか、キム氏は後になって知った。 昨年11月、裁判所はサムスン電子半導体工場で働いて脳腫瘍で死亡した故イ・ユンジョン氏の労災を認めた。 だがヘギョン氏ではなかった。 2010年に勤労福祉公団に労災申請をしたが、結果は不承認。 2011年に提起した訴訟は2015年に大法院での敗訴で終わった。 それでヘギョン氏は自分も同じようにサムスン職業病の被害者だと訴えようとした。 「私がいつもヘギョンに言います。 お前が先に立って戦ったから、他の労働者たちの労災が証明されたんだと。 障害者がたたかって地下鉄のエレベーターができたように、 お前が道を開いたんだと」。 また3月6日2月17日、旧正月連休。 パノルリムの座込場には二人の守備隊が常駐する予定だという。 空っぽの江南中心部のテント座込場は寂しくないのだろうか。 午後遅く、座込場のビニールテントを訪問した。 二人の守備隊と一人のパノルリム活動家が記者を迎える。 すでに野宿座り込み3年目。 座り込みのプロになってしまった彼らにも、今回の冬は特に寒かった。 電気もない座込場の中で、暖炉一つに頼ってがんばった。 それさえ温度が下がればうまく作動せず、ミニ暖炉と使い捨てカイロを動員し、 暖炉を温めながら越冬した。 気温が上がったとはいえ、相変らずテントの間から冷たい風が吹き込む。 その時、テントを巻き上げる音が聞こえる。 もう一人の守備隊が座込場の中に入ってくる。 彼は故郷の家ではなく座込場に来たので、お父さんから小言を言われると笑う。 続いて、パノルリムのイ・ジョンナン労務士が座込場の中に入ってくる。 家でいっぱい包んで行かれる来た名節の料理を取り出して、故郷に帰れない守備隊に渡す。 新入労務士の一人もパンの袋を持って座込場に来た。 サムスン職業病被害者が弁当とカップラーメンの箱を座込場に渡して消える。 空の都心の中の小さな座込場がガヤガヤと騒がしい。 2月20日。 パノルリム座り込み867日目。 この日はサムスン支会の労働者たちが座込場でギョーザバイキングをする日だ。 出張バイキングの名前は「そんなギョーザする」だ。 今年が最後だろう、と思いながらギョーザを茹でてもう3年目だ。 久しぶりにヘギョン氏の姿が見える。 彼はメニューの一つの「ジェヨン実刑肉ギョーザ」を食べていた。 手術した足の指はずいぶん良くなったという。 彼女に5日にはとても胸を痛めたという話を聞いたと話した。 突然ヘギョン氏の顔がぐしゃぐしゃになる。 うな垂れて手の平で顔を隠す。 泣き出しそうだ。 話題を変えようとして放言祭りをする記者に、ヘギョン氏が力を入れて話す。 「必ずまた入ることになるでしょう」。 その日、サムスンオンブズマンが3月中に半導体の生産ライン総合診断結果について、 初の報告書を発表するという知らせが伝えられた。 オンブズマンは去る2016年6月、サムスン電子とパノルリム、家族対策委委員会が合意して設置した機構だ。 マスコミではサムスン電子が化学物質の情報公開範囲を広げ、 安全保健資料の保管期間を延ばすという期待を表わした。 だが被害者と遺族は中途半端な期待はしない。 パノルリムのイ・ジョンナン労務士は 「1年以上の無駄な歳月の後に一足遅れて研究チームを設置した。 公開的な対話がなく、どのような調査が行われたのかわからない」とし 「3〜4月中に交渉当事者のパノルリムと家対委の意見聴取があると見られる。 遅くなったがきちんと結果が出てくることを願うだけ」と言った。 現在、サムスンが職業病被害者を相手に進めている独自の補償委員会も、 補償の水準など大部分の事案が非公開で進められている。 そしてサムスンは相変らずパノルリムとの直接交渉は拒否している。 パノルリム座込場の一方には昨年5月、文在寅大統領とファン・サンギ氏が並んで署名した政策協約書が広げられている。 布が黄色く褪せても、約束した協約は履行されない。 故ファン・ユミ氏の死亡11周年をむかえる3月6日。 パノルリムはまた真っ白な防塵服を着て路上に出る。 開まりもしていないのに、終わるはずがない。 李在鎔副会長を353日間拘禁した罪名は賄賂供与罪。 重要なことは、彼がまだ118人の労働者を死なせた罰は行われもしなかったという事実だ。[ワーカーズ40号] 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2018-03-08 00:27:38 / Last modified on 2018-03-08 00:27:41 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |