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LNJ Logo 太田昌国のコラム : 大谷恭子弁護士の死と、同時代を生き、闘った者への彼女の思い
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 ●第96回 2024年11月15日(毎月10日)

大谷恭子弁護士の死と、同時代を生き、闘った者への彼女の思い

 大谷恭子弁護士(写真)が、去る10月11日に亡くなった。74歳だった。

 彼女が弁護士登録したのは1978年で、1980年に所属したのは、東アジア反日武装戦線被告団の弁護に当たっていた新美隆、鈴木淳二両弁護士がいた新橋法律事務所だった。私は途中から、同被告団の救援活動に関わっていたので、救援会会議の時に同事務所を訪れるようになった。大谷弁護士とはそこで初めて知り合ったのだと記憶する。大谷さん自身は「反日」の弁護団には属していなかったが、控訴審で弁護側証人として証言している(1981年7月31日、東京高裁)。その後も、最高裁で死刑判決が確定する1987年3月24日以前に、何らかの必要があって「狼」グループの大道寺将司君に東京拘置所で面会している(その委細を、もはや私は覚えていない)。彼女が自ら語るところによれば――「(学生時代から)社会を変える実践運動をやっていて、その延長上で弁護士になったのだから、当初から公安事件、街頭闘争などの刑事事件を担当したかった。すでに非合法の運動も始まっている時代で、命を賭けている彼らに寄り添う弁護をする人が、私たちの時代から出なければならないという使命感もあった」【福島みずほ編『グレートウーマンに会いに行く〜それぞれの人生と活動にリスペクトをこめて』(現代書館、2024年)所収の「障がい者や若者などのために 情と熱をもってがんばる弁護士 大谷恭子」の章から、真意を損なわない範囲で要約して、引用】。

 このような思いをもって弁護士になったひとだから、死刑確定判決を前にした政治犯・大道寺君との面会はとても心に残るもののようだった。私は何度か、その時の気持ちを聞いた。「方法こそ異なれ、同時代に闘った者として」――大道寺君の2歳年下の彼女は、あの時代をふり返る時に、この捉え方の基本軸を失うことはなかった。

 それから20年ほどが経った2007年、大谷弁護士は再度大道寺君に面会した。この頃、大谷弁護士は、東京拘置所刑事施設視察委員会委員長の任にあった(2006年5月〜09年3月)。同委員会は、刑事施設の運営の改善向上に熱意を持つ民間人で、非常勤国家公務員として法相に任命された7人(医師、弁護士、地方公共団体職員、警察署協議会など)から成るもので、施設を視察し、被収容者と面接することで運営の実情を把握し、委員会での討議を経て施設に対して運営上の意見を述べる任務を負う。被収容者には随時アンケート調査を行ない、施設に対する要求がある場合には意見書にとめて施設当局に提出し、これへの回答を得ると、被収容者向けの「小菅新聞」で要旨を紹介する。年に一度は拘置所所長宛ての「意見書」をまとめる。実際に「小菅新聞」や「意見書」を読むと、秘密性・閉鎖性が際立つ刑事施設において、人権尊重に基づいた運営がなされるよう積極的な提言を行なっている。同時に、施設職員へのアンケート調査、死亡事案に関するヒヤリング、カルテの閲覧も行なっている。刑務官へのアンケート調査の公表は認められなかったというが、これら職員の職務上の労苦・過酷さ・疲弊の度合いなどが明かされ、施設運営の透明性が保証されない限り、「開かれた行刑」は実現しない、という見解をきちんと述べてもいる。被収容者にとってはもちろん、心ある刑事施設職員にとっても、一定の支えとなる活動をしていたのではないかと推測してよいと思う。

 大谷弁護士は、この委員会に関わる活動の一環として、2007年に大道寺君に20年ぶりの面会を試みたのだろう。この時の面会のことを、すでに俳人と言ってもよいだろう大道寺将司は、2007年、次のように詠んだ。「二十年ぶりに某弁護士と再会して」という前書に続けて詠まれたのは、

 蜉蝣やわたし分ると問はれしも

 という句だった(大道寺将司全句集『棺一基』、太田出版、2012年)。大谷弁護士は、この句集が刊行されて後、私と話している時に幾度となくこの句に触れた。こみ上げてくる、万感の思いがあったに違いない。翌2013年、『棺一基』は日本一行詩大賞を受賞した。角川春樹、堤清二、福島泰樹、辻原登氏らが審査員だった。授賞式への大道寺君の出席は残念ながら叶わず、版元代表、担当編集者、私などの関係者が代理出席した。上掲句で詠われた対象である大谷弁護士にも声をかけると、彼女は喜んで出席した。

 それからさらに10年以上の時が過ぎて、2024年の現在がある。東アジア反日武装戦線「狼」が初めてその名において行動した丸の内・三菱重工ビル爆破から、今夏の8月30日ですでに50年が経った。死者8人、重軽傷者385人もの被害者を生んだ悲劇だった。「狼」は、自らが生まれ育った国が過去から現在にまでわたって植民地支配と侵略戦争を通して近隣諸国への加害国であることを告発する行為によって、自国の民衆を傷つけ、自らが加害の責任を負うことになった。そして来年2025年5月19日には、彼ら/彼女らの一斉逮捕から50年目を迎える。

 「反日」救援組織の再編後ほぼ45年間にわたって救援活動を担ってきた「支援連」は、今年5月から「東アジア反日武装戦線の50年を考える連続講座」を、月一度の講演会の形で開催している。すでに5回分の講座は終わっているが、2025年1月には、7回目として大谷恭子弁護士が担当する予定だった。題して「同時代者の証言をした者として」だった。

 これは、あれこれ相談していて大谷弁護士自らが採用した演題だったが、明らかに、1981年の「反日」控訴審で弁護側証人を引き受けたときのことを意識したものだろう。

 講演を依頼して間もない今年初頭、すでに病の兆候は見られた。万一に備えて、メモを取り、草稿の準備をしておくからという言葉を聞いたときは、まだ安心していた。別件で協働作業をしている「永山子ども基金」主催のチャリティ・コンサートを、今年は7月27日に開いた。閉会の挨拶は、毎回大谷弁護士の出番だ。中盤で私が「『死の不平等』が露呈している世界の中で」と題する講演を行なった。現在の世界と日本に状況に触れる話なのだから、日ごろからただでさえ暗い内容に終止する私の話は、我ながらいつにも増して暗いものになった。休憩を挟んで、その後にカルメン・マキさんのコンサートがあった。

 大谷弁護士は閉会の辞で、「(太田の)話は暗く、どうなることかと思ったが、カルメン・マキさんのコンサートで救われた」と(その内容を私は解釈したのだが)、精一杯のユーモアを湛えた言葉を、これまた精一杯の元気を発揮して、語った。それ以降、亡くなるまでの2ヶ月半の間に、病状は急激に悪化した。「25年1月の講演の草稿は書けそうもない」、「何とか語るから映像に記録して、当日はそれを流してほしい」――病室からのそんな声を、電話で聞いた。それも叶わず、彼女は逝った。

 いくつかの媒体に乞われて、追悼文を書いた。救援連絡センター機関紙「救援」12月号には、主として、「連続射殺魔」と言われた永山則夫さんが処刑された(1997年8月1日)後、彼の遺言を引き継いでいる「永山子ども基金」の活動について述べた。「週刊金曜日」11月15日号には、短い文章とはいえ大谷弁護士の全貌が見えるような内容で書いた。ここでは自分の意志に基づいて、それらでは書ききれなかったことに触れた。その過程で、遺された著書を再読したり、弁護士として関わった事件を思い返したり、さらには大学講師として、また社会運動家としての活動を改めて振り返ったりした。

 関わった主な事件を取り上げると、三里塚小泉よね強制代執行取り消し事件、永山則夫連続射殺事件、永田洋子連合赤軍事件、金井康治自主登校事件、アイヌ肖像権裁判、地下鉄サリン事件、重信房子ハーグ事件、目黒区児童虐待死事件――となる。これらの背後からは、その時々の政治状況と人権状況が透視でき、社会の底に澱のように溜まった矛盾が噴き出ていることが感じられる。

 大谷恭子弁護士は、政治課題に取り組む時も、また、貧困・虐待・DV・性的搾取など現代の社会問題に関わるときにも、「同時代者としての証言」を行なうために、職能を発揮し、かつその職能を超えて、生き抜いたのだろう。


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