韓国:2009年1月20日、忘れてはいけない『竜山』 | |||||||
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2009年1月20日、忘れてはいけない『竜山』[寄稿]撤去された『ナミルダン』から時代が見える
キム・ドクチン(カトリック人権委) 2011.01.20 09:04
撤去されたナミルダン、撤去された記憶2010年12月1日、ナミルダンが撤去された。2009年1月20日に、撤去民5人と警察 特殊部隊1人の命を奪った竜山惨事が発生してから681日目、撤去民5人の葬儀を 行ってから327日目、大法院が撤去民だけにすべての罪をかぶせ、父を竜山惨事 で失った龍山4区域のイ・チュンヨン撤去民入居者対策委員長に懲役5年という 重刑を確定してから21日目の日、大韓民国再開発残酷史に最も太い文字で永遠 に記録される竜山惨事の現場、『ナミルダン』が消えた。40階超高層住宅商店 複合ビルが入る空間をあけて力なく崩れた。一時代がナミルダンと共に通り過 ぎるようだ。 [出処:チャムセサン資料写真] 2009年、竜山のナミルダンは時代の象徴だった。この国の虚弱な民主主義が、 毎日のように死んでいった所、庶民のわずかだが大切な一日一日が道端に捨て られた所が、まさにナミルダンだった。私たちを追い出そうとする用役会社の 職員と区庁の職員に引き出されないように、互いに肩を組み、しゃにむに座り 込んでがんばった所、横断幕一枚を掲げてもすぐ駆け付けて高性能のスピーカー で怒鳴りつけ、盾を持って私たちを取り囲んだ「民衆のツエ」警察と体当たり をして、腰の周りをつかまれて引きずられて行った所、ソウル特別市竜山区 漢江路2街63番地地下1階、地上4階の貴金属販売店ナミルダンが1階にあった、 そのあんず色の建物はもうこの世の中にない。 2010年12月30日は、竜山惨事対政府交渉妥結1年であり、2011年1月9日は、竜山 惨事撤去民烈士5人の葬儀から1年になる日だった。そして今日2011年1月20日は、 今はないナミルダン・ビルの屋上で大韓民国再開発残酷史から消すことができ ない竜山惨事が発生してからちょうど2年になる。今、竜山惨事はこうして無理 に数字を付けて意味を付与する時だけ思い出される過去の話になりつつある。 弘大前の小さな竜山、トゥリバンの闘争は1年を越え、城南の壇大洞で、一山の トクで、ソウルの新契洞と上道洞で暮していた家を追い出され、テントで野宿 しながら「ここに人がいる」とすすり泣く人々が数百、数千いるが、ナミルダン と竜山は、こうして私たちから忘れ去られていっている。 生存権闘争をする人の中で切迫していない人がいるだろうか。100日近い断食を して非正規職労働者闘争の象徴になったキリュン電子の労働者、77日間の玉砕 ストの間、ずっと夫と父を待ち、平沢工場正門にテントを張って暮した双竜車 の家族、正規職と解雇者復職のために高空籠城を始めたGM大宇の労働者、みんな 各々の悲壮な理由を一つずつ胸に抱き、資本という岩にぶつかり砕けるタマゴ のように戦っているではないか? 40年前、22歳の青年、全泰壹が自分のからだを燃やして絶叫した要求は、一日 の賃金150ウォン保障、労働時間を12時間に短縮、そして毎週日曜には休めるよ うにしてくれということでしかなかったことを思い出そう。生存権をかけて闘 う人々が多いことを望んだ時期はない。『要求事項』という大きな文字を書き、 内容を整理して読んでみれば、自ずと『その程度』という言葉が出てくるほど の基本的な要求を主張して、あれほど命をかけて闘う。横で見ていれば残念と いうより、悪口が飛び出すほど我慢することに慣れた民衆は、そうして全てを かけて闘争しても、あまりにも素朴なその小さな望みさえ、勝ち取ることはほ とんどできない。 だから2年前の冬、竜山漢江路のナミルダン・ビル屋上に櫓をたてた彼らが望ん だことも、とんでもないものだったはずがない。急激に変わる世の中から忘れ られていくのは、ある意味、とても当然だが、それでももう一度彼らをナミル ダンの屋上に呼び集め、誰も聞かない絶叫でも一度叫んでみたい。でなければ 私が彼らの代わりに「ここに人がいる」、「ここから追い出されても誰も見よ うとしない人々がいる」と一度怒鳴りたい。 大学学生会の幹部という、似合わない傲慢さを肩に乗せた若い時から撤去民の 闘争を頭越しに見てきた。汗を流す労働などしたことがない白い手を持ちなが らも、三寸の舌でたびたび革命を口にして優秀なふりをした鄙陋な青年の目に、 撤去民の闘争はあまりにも無謀で過激に見えた。歳月がたち、人権団体で活動 を始めた後も、撤去民とは会うことがないことを望むほど、撤去民たちは腹立 たしく過激な人々だという偏見を持っていた。 だが1年間、竜山で一緒に泣き、笑い、撤去民を体験してと、私の偏見と先入観 がいかに愚かだったのかがわかった。竜山で会った彼らは、ただ町の電気屋の お兄さんや精肉店のおじさんで、屋台のおばさんや市場の総菜店のおばさんだっ た。この極めて平凡な人々に建物の屋上に櫓を作らせ、用役会社の職員の耳を かみちぎらせた背後は、結局もっとたくさんの人を追い出すことで腹を膨らま せる建設資本であり、その資本との甘い密愛を長い間楽しみたい韓国の権力、 そして貧しい人々が隣りで暮しているのは、暗く苛立たしいと思うあなたと私 たちだ。 ここに櫓に上がった人々がいる[出処:チャムセサン資料写真] 竜山惨事撤去民烈士で一番年上だった故イ・サンニム氏は、ナミルダンビルの すぐ裏のビル1階で27年間、そこだけを守り、豚カルビの商売をしてきた。竜山 惨事が発生する18か月ほど前に、末っ子夫婦に豚カルビ屋の場所を譲り、末っ 子夫婦は銀行からのローンで豚カルビ屋をビヤホール『レア』としてまた開業 した。故イ・サンニム氏は毎朝5時には起きて、自分たちを路上に追い出した張 本人である再開発組合長が長老をしている教会の朝の礼拝に行ってきて、毎朝 微笑ましい表情で『レア』の前の路地を清掃することから一日を始めた。故イ・ サンニム氏が末っ子夫婦共に暮していた月貰部屋は、『レア』があった建物の 屋上にあったため、彼は再開発で生計の根拠地と、身を横たえる一坪の空間ま で失うことになったのだ。私たちの誰かがこんな状況に置かれれば、どうした だろうか? 何とかして自分の財産と権利を守るために戦わなかっただろうか? 故イ・サンニム氏は七十の老駆を率いて、結局、櫓に上がる方法を選んでから、 一日もたたないうちに黒焦げになって亡くなってしまった。彼の末っ子のイ・ チュンヨンは、お父さんと一緒に櫓に上がり、火災の後に飛び降りて膝の靭帯 が切れ、有毒ガスによる肺狭窄で入院している時に拘束されて、懲役5年の刑が 確定した。姑は竜山惨事で夫を失い、嫁は夫を監獄に送った一家族のこの数奇 な不幸は、果たして彼らが悪いと言えるだろうか? 故ヤン・フェソン氏は、一生刺身料理屋の料理長として働いて貯めた全財産に 知人から借りた金を補って、竜山にふぐ料理専門店を開いた。成長した二人の 息子もお父さんの後に続いて、和食の調理士として働いていたので、近い将来、 家族みんなが共に店を運営する夢を見て、毎日毎日熱心に暮していた。この仲 むつまじい夢を見ていた四人家族にとって、突然の撤去の知らせは一生の夢を 目の前で粉々にしてしまった。散り散りになった夢を諦められなかった故ヤン・ フェソン氏は、一生着ていた白い調理士服の代わりに青い雨具を着て櫓に上がっ た。「ちょっと行ってくる」と言ったまま永遠に帰らなくなったお父さんを心 に抱き、故ヤン・フェソン氏の二人の息子は南営洞に日本式酒屋を開いた。お 父さんと共に見た夢を二兄弟が始めたのだ。故ヤン・フェソン氏はもういない が、彼の魂はジョンウォンとジョンミンが一緒に夢をかなえるだろうと信じる。 故ユン・ヨンホン氏は、竜山4区域だけでなく他地域の撤去民にもとても人気が 高かった。鍾路区巡和洞で韓国料理店を運営していた故ユン・ヨンホン氏は、 特有の親切さで一度来たお客さんは必ず上得意にする人だった。予約をしなけ れば食べられないほどお客さんが多かった食堂が、再開発で撤去される危機を 迎え、彼は撤去民団体に加入し、自分ばかりでなく、くやしく追い出された人 がとても多いという事実を知って驚いたという。撤去民団体に加入した後、彼 は全国どこでも撤去民の闘争がある所には誰よりも先に駆け付けた。他の人に 悪口を言ったり、大声を出したことは一度もなく、撤去民が嫌がることも何で も引き受けて黙々と働く強固なお兄さんであり、先輩だった。今は軍人になっ た大胆な息子、ヒョング、優しくて大人っぽい末っ子、サンピルと共に過ごす ことが一番好きだった故ユン・ヨンホン氏は、いつも親しく付き合っていた 竜山4区域の撤去民の闘争の消息を聞いて、真っ先に駆け付けて連帯するために 櫓に上がった。他の地域の撤去民だが、竜山4区域の撤去民の戦いがそのまま 自分の戦いだと考えていたのは明らかだ。それでもこうした悲しい死で家族と 離別することを予想できなかったが、最後の瞬間も彼は自分の闘争が正当 だったことを知っていただろう。 故ハン・デソン氏は静かな方だったが、しっかり黙黙と自分の仕事をする人だっ た。やさしそうな話し方はできなかったが、入隊する長男の後姿を見て、いつ までも涙を流した暖かいお父さんで、20年通った職場をやめても心配そうな表 情もせず動揺しない姿を見せる強固な夫だった。水原という巨大な都市にある 小さな村のシン洞に得た小さなマイホームを盆唐線延長区間工事で追い出され、 隣人と共に闘争を始めた。子供たちがもっと大きければ故郷の江原道に帰り、 ジャガイモを作って暮そうと言った妻との約束を守れず目をとじた時に、彼は どんな気持ちだったか? 故イ・ソンス氏はいつも不正には我慢できない人だった。すでに13年前、龍仁 水枝の再開発で追い出された経験がある故イ・ソンス氏は、二回目も力なく追 い出されはしないと妻に約束した。だが露店で生計を立てている間、暮してい た家はまた強制撤去され、その日からテントで野宿座り込みを始めた。一度で もなく、二回も住んでいた家を強制的に撤去された人の気持ちを、私には推察 することもできない。自分もつらい闘争をしながら、他の地域との連帯は、い つも最優先した故イ・ソンス氏、同じく座り込みをした隣人たちが一人二人と 町を離れても、闘争の意志は揺らがなかった彼も、二人の息子が友人の家を転々 として高等学校に通うことを考えて、しばらく涙を流した。竜山惨事の後に、 息子を二人とも軍隊に送った故イ・ソンス氏の夫人は、先日龍仁にピンデトク 屋を開いた。騒々しく信頼できる家の男三人をあっという間に送り出した故イ・ ソンス氏の夫人は忙しくても暮さなければと思い、商売を始めたという。彼女 は二人の息子が転役すればもっと大きな店を開くため、それまで少し金を稼ご うという夢を見ている。 生き残った者たちのうんざりする悲しみイ・チュンヨン懲役5年、キム・ジュファン懲役5年、キム・チャンス懲役4年、 チョン・ジュソク懲役4年、キム・ジェホ懲役4年、キム・テウォン懲役4年。 竜山惨事で拘束された撤去民の刑量を合計すると懲役26年。さらに全国撤去民 連合議長のナム・ギョンナムに宣告された懲役5年と、すでに満期で出所した 全国撤去民連合の2人の幹部の刑量1年と1年6か月を足せば、竜山惨事で実刑を 宣告された人の刑量を合計すれば33年6か月になる。不拘束で裁判が続く座り込 み撤去民は17人もいて、水原シン洞の撤去民1人は裁判から帰った直後に死ぬ という悲しいこともあった。 それで、今後の竜山惨事の真相究明を要求して追慕集会に参加して逮捕され、 執行猶予を宣告された人々の刑量も足せば100年は越えるだろう。数百万ウォン の罰金刑を受けた人も数えられないほど多いから、竜山惨事と竜山惨事以後の 追慕集会などで前科者になった人はどれほどだろうか。他人のものを奪ったり、 人を欺いたり、傷つけたこともなかった。ただ自分が持っていたものを守りた かっただけだ。そして自分のことを守ろうとして、あまりにもくやしく死んだ 人々がいて、彼らを追慕し、その死の真実を知ろうとした人々に戻ってきたの は監獄であり罰金納付告知書だ。追慕する暖かい心と真実を知ろうとする心の 代価は本当に大きい。 [出処:チャムセサン資料写真] 検察は、韓国の代表的な人権活動家で、竜山惨事真相究明委員会執行委員長の パク・レグンに懲役5年4月を求刑した。順天郷大学病院の葬儀場と明洞聖堂の 霊安室で10か月の手配生活をした後自主的に出頭し、獄中生活をして保釈され たパク・レグンに、検察は検察が求刑できる最高刑をプレゼントした。長い間 人権活動をして、時代の痛みを全身で抱こうとした人権活動家で、二人の娘の 誇らしいお父さんは、21世紀になってすでに三回目の監獄を準備している。 怒りの涙ももうかわいてしまった。 竜山惨事発生後、大韓民国検察と警察は『竜山』という言葉がついただけで目 を皿のようにした。あらゆる資料を集め、少し関連があるだけで、すべて瑞草 洞検察庁、竜山警察署に呼び入れた。ある撤去民団体の幹部の中学生の息子の 銀行口座取り引き内訳を検索したり、家族の通話内訳をみんな追跡した。拘束 された撤去民の接見記録や家族とやりとりした書信内容も検閲し、言葉じりを 捕らえて法廷に証拠として提出することもした。 こうした実力と誠意で、政治家のわいろ授受事件や財閥の不法相続事件を捜査 していれば、おそらく大韓民国の検察はすべての国民から愛と信頼を受ける組 織になっただろう。筆者も竜山惨事葬式の日のことで葬式の9か月後に召還調査 を受けるというとんでもないことを体験した。捜査機関のその誠実な努力は、 真に感心で拍手してやりたい。竜山氾国民対策委が開こうとしたすべての集会 申告をたった一件も受け入れなかった警察が、それで未申告集会になった集会 に参加したという理由で私たちを呼び、また法廷に立たせる。本当にうんざり だ、この土地の公権力は。 『民族の名節旧正月を前にした2009年1月20日、竜山国際ビル近くのナミルダン・ ビルの屋上に作った鉄の櫓で撤去民五と警察1人が警察の無理な強制鎮圧過程で 死んだ』というこの一文は、2010年1月9日、五人の撤去民の葬儀をするまでの 1年間、韓国社会を熱くする関心事だった。しかし葬儀の後1年たった2011年、 竜山惨事を話す人は見つからない。2010年一年間、人々の目と耳は天安艦沈没 と延坪島砲撃という朝鮮半島の緊張状況と、全国を病気にかからせる4大河川の 土木作業と国会のかっぱらい予算案通過、南ア共和国のワールドカップと地方 選挙などに注がれていた。大法院の最終宣告の知らせも白菜価格や5000ウォン の『大胆チキン』より関心があるニュースではなかったし、ナミルダン・ビル の撤去も15秒の短信報道で処理された。今、竜山惨事は撤去の危機に置かれて いる弘大前のカルククス屋、トゥリバンを小さな竜山と呼ぶ時ぐらいに思い出 される程度だろうか? だが元から暮していた住民を追い出して、家という存在を住む「所」ではなく 買う「もの」にした韓国の建設資本と、その資本と手を取りすべての便宜を提 供した韓国の権力は、誰かの息子であり、お父さんであり、夫だった六人を死 に追い込んだ事実、いや六人を殺したという事実は絶対に忘れてはいけない。 時間がたつほどに竜山惨事が人々の口にのぼることは減るだろうが、骨を削り 肉を破るほど鋭く寒かった2009年の冬の朝、竜山でおきた「死」と「殺し」を 私たちの記憶から消すことはできないだろう。 区分された真実、記録される嘘誰かが私に2010年に一番ひどいニュースを選べと言えば、私は昨年夏にチョン・ ウンチャン前総理が任期1年もたたないうちに退いて、任期中一番やりがいがあっ たのは竜山惨事の解決だと話したという報道を選ぶだろう。ソウル市の呉世勲 市長も竜山惨事をうまく解決したので、今からは再開発の問題を改善し、うま くやっていこうと騒いだという事実は、本当にあきれはてる。マスコミの注目 をあびる名望家は、こうして一言で自分の業績を積むこともできると思うと、 虚しい笑いしか出てこない。チョン・ウンチャン前総理が解決したというのだ から。チョン・ウンチャン前総理の総理任期中に竜山撤去民烈士の葬儀をした のは事実だから、そう言うのか? チョン・ウンチャン前総理に会えば、ぜひ尋 ねたい。いったい何を考えてそんな言葉を吐きだしたのかと。あるいは本当に 自分が解決したと信じているのなら、もう彼は国務総理ではないという事実が とても幸いだ。 筆者は竜山惨事の遺族と竜山4区域の撤去民から全権限を委任され、対政府交渉 を担当した交渉代表だった。もちろん今もあの時、交渉するべきではなかった と言う人もいて、私の手落ちだという人もいるが、私はまたあの時に戻っても 同じように協議に入っただろう。激しい戦いの現場での交渉というものは、 うまくやってもやらなくても非難されるものだが、誰かはやらなければならない ことだからだ。 しかしそんな悲壮な覚悟で交渉をしても、竜山惨事が発生して6か月経つまで、 私は交渉代表に値する役割ができなかった。政府のどの機関も「竜山」に来な かったからだ。理解できないほど、政府は竜山を無視した。六人の国民が命を 落としたこの途方もない悲劇に対する政府の無関心な態度が理解できなかった。 真相を究明への私たちの意志が揺らぐことはなかったが、私は交渉代表として 不安な気もした。 しかしそんな不安は杞憂だった。待てば勝つ戦いなのだから、焦るなと言って いたムン・ジョンヒョン神父の言葉のように、夏が本格化すると、政府関係者 が先を争って竜山に来始めた。約60回の公式、非公式テーブルで、警察と竜山 区庁、ソウル市庁、総理室と情報機関の人々と会った。その後、竜山は新任の 国務総理の弔問も受け、ソウル市長とも会った。野党の代表と中堅政治家は、 誰もが自分こそ竜山惨事を解決すると出た。曹渓宗の総務院長とカトリックの 主教など、代表的な宗教界の指導者が竜山にやってきた。だがそんなに多くの 人の中で、私たちの真心をちゃんと知っている人は一人もいなかったというこ とは、もうひとつの悲しい真実だった。 会うだけでも怖い用役会社の職員から口にできないような悪口を朝から晩まで 浴びて、一日も待てないと彼らに腕を折られ首筋を捕まれ、アスファルトの上 をずるずる引きずられても、竜山を離れなかった私たちの心、ただ一度も味方 になってくれたことがなかった民衆のツエという警官に殴られ、理由もなく捕 まえられ、あらゆる脅迫と侮辱を受けても、あの冷たい地面に座って、ミサに 参加することを拒まなかった私たちの真心を、彼らは知らなかった。事実ただ しばらく竜山に立ち寄っていく彼らに私たちの真心まで認めてほしいと希望す ること自体が無理だった。 竜山惨事は決して誰かひとりが解決したのではない。誰かひとりが解決するこ ともできなかっただろう。総理が、ソウル市長が解決したのでは、絶対にない のだ。私たちが1年を一日のように生きてきた力、もつれた糸のように絡まった 竜山惨事を解決したのは、まさに「人」の力だった。1年間、竜山を記憶して共 にした多くの人々、テントを張って毎日祈り、竜山のしんばり棒になってくれ た天主教正義具現全国司祭団の神父たち、ナミルダンで祈り、歌い、踊り、絵 を描いた人々、キャンドルを持ち、花を持ち、コメとラーメンを持ち、キムチ と果物を持って竜山を訪ねてきた人々、彼らの力でわれわれは1年を暮し、葬儀 をした。その力で今も『竜山』の記憶を捕まえて映画を作り、闘争白書を作り、 撤去民と連帯して闘争している。 名前を数え上げるだけでも許された紙面が埋まるほど多くの人々の心と希望、 韓国で一番悲劇的な事件の現場で、これほど楽しく温かく闘争しても、亡くなっ た方々に迷惑をかけるのではないかと思うほど、毎日毎日私たちの涙を流させ た人々、恥ずかしくて頭を下げさせた人々、幸せな笑いで、愛が何かを教えて くれた人たちが忘れられられない。その力に較べれば私はなんと微弱でつまら ない存在だったか? その人々を思うと、また喉が詰まり、目が熱い。 交渉が妥結した後、ある保守新聞が書いた記事のように、私たちの最大の関心 は果たして「お金」だったのなら、もっと早く葬儀ができただろう。どうして 私たちが亡くなった人たちの「命」をあえて「金」で補償を受けようと言える のか? 1年間喪服を脱ぐことも出来なかった遺族の恨と涙、冷たいアスファルト の上で野宿をしながら生存権のために闘争してきた撤去民の毎日毎日を、二つ の肩に担って交渉に臨んだ。竜山を記憶する誰もが見守る交渉で、私たちがど うして『金』を理由に1年も続けてこられただろう? 少なくとも政府の責任ある 謝罪と臨時の店、賃貸の店を確保しなければならなかった。入居者の住居安定 と、権利侵害を防ぐ『循環式開発』を保障する法と制度を作り出さなければ、 五人の『命の値段』の1%でも受け取れないと考えた。1年間、五人を冷凍庫の中 において、遺族と私たちすべてがひとつになって戦ったから勝ち取ることがで きた竜山の『足りない勝利』であった。 逆行する世の中[出処:チャムセサン資料写真] 交渉に関する約束が一つ二つと履行されて、われわれはナミルダンを離れた。 一日もはやく問題を解決し、ナミルダンを離れるのが皆のためだということは わかっていたが、実際にその最後の日にはさびしさと懐かしさで涙が止まらな かった。197回の生命平和ミサが開かれ、100回を越えるキャンドル集会を開い た所、1千食を越えるご飯を炊き、ゴザ一皮枚を地面に敷いて371日も寝た所、 たった一瞬もキャンドルは消えず、弔問客の訪問が絶えなかったそこを離れる 日、われわれは本当に泣いた。竜山を離れるのは竜山を忘れるためでなく竜山 を記憶するためだった。竜山惨事を解決して離れたのではなく、解決すべき課 題を抱えて離れた。それでわれわれは、私たち自身を『離れられない人々』と 称した。竜山に心を寄せ、魂を残してきたのだからだ。 しかしナミルダンを離れて1年、世の中はさらに後ずさりしている。この不道徳 で愚かな政府を叱ることもできず、毎日毎日苦しくなる庶民の不安な生存権は、 ますます転落している。追い出される人々は相変らず鉢巻を巻かなければ声も 出せない。冬が近付くと、野宿座込場に吹く冬の風より酷寒期に入る前に撤去 を終わらせようと押し寄せるショベルカーの心配で夜が明ける。大韓民国の民 主主義と人権は、2年前の竜山惨事の時から過ぎた時間と同じぐらい後に戻った。 いや事実、その短い時間に崩れたとは信じられないほど急速に後退してしまった。 国家人権委員会が政権の表情だけを見て、人権の原則を無視し、屈辱的に全て を差し出す不当な韓米FTAを国民の合意なく妥結した。休戦ラインの北の同胞を 恐れ反撃するため、外国の原子力空母を西海に出して戦闘機爆撃を感激して云々 する国防長官が任命された。非正規職労働者たちは職場から追い出され、闘争 して監獄に行く。同じ空の下で同性愛者とは暮せないと新聞に広告を出す歪ん だ信頼が世の中を支配しており、百年の災いになるのが明らかな4大河川失脚の 土木工事を緑色成長と言い張って、必要な予算はかっぱらいで国会を通過させ る。外国の首脳には見られたくないと国民を裏路地に追い出して、G20ポスター にネズミ一匹を描いたと言って法廷に立たせる国に住んでいる。原子力発電所 の建設工事を受注した代価に若い軍人を中東の砂漠に派兵する2011年大韓民国 に、果たして私たちは何を期待できるのだろうか? 国家権力が国民を馬鹿にし始めればその瞬間に国家権力は不当な公権力を動員 し、国民の人権を侵害し始める。その深刻な人権侵害は思ったより広範囲で迅 速だろう。権力は自分の言葉と行動だけが真理で、自身の意志に反対する人は 無知蒙昧な一握のゴミのような人間だと考える。それで限りなく馬鹿にして、 果てしなく押してくるだろう。もちろん、国家権力が国民の声を軽く思って、 国民の意思に逆らうことを恐れなくなったのは、明らかに私たちすべての責任 が大きい。私たちが信じていた民主主義と人権がこれほど簡単に崩れてしまう ということは予想できなかったし、経済を生かすとニュータウン開発の偽りの 動画にうっかりだまされていた私たちの責任に知らんふりはできない。 国民の峻厳な命令に逆らう国家権力をもうこの土地で見たくなければ、人権と 民主主義の価値を蔑視しない政権を見たいのなら、これ以上くやしく死んでい く国民を見たくないのなら、私たちが信じるのはやはり国民の力だけだ。私た ちすべての『行動する良心』だけだ。不当な権力の横暴に抵抗して戦わなけれ ば、われわれはまた苦痛と闘争の歳月を暮さなければならないだろう。この3年 間、明らかに体験しなかったか? 私たちの無関心とほう助がいかに大きな誤り だったのかを全身で感じたのではないか? 2009年の竜山で、本当の民主主義と人権を願った人々とまた会いたい。その切 なく、けなげな気持ちをもう一度確認したい。『ナミルダン』は崩れ、彼らが 積むバベルの塔だけが、ソウル市内の摩天楼を埋めるだろうが、私たちには、 その住宅商店複合ビルより高い意志があり、最上階のスイートルームより広い 心があるのではないか? 国民が公権力に死なされないようにしよう、再び全て を奪われ、追い出されないようにしよう。2009年1月20日の竜山を忘れないでお こう。この悲壮な決心が希望になり、信念になって、私たちが暮すこの世を守 ると信じる。諦めず、揺らがないでいよう。われわれは良い役割を選び、正し い道を行っている。 翻訳/文責:安田(ゆ)
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