韓国:籠城団・解団式.涙の海になった明洞聖堂入り口 | |||||||
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涙の海になった明洞聖堂入り口地域活動に転換、 移住労働者籠城団28日の解団式の風景 ムンヒョング記者 「わたしたちは、同志たちから『寒くないか?』そんな言葉も聞きたいです。 『腹が減ってないか?』そんな言葉も聞きたいのです。 しかしそんな気持ちに勝って、われわれは現場へ帰らなければなりません。」 *(C)民衆の声キムチョルス* 移住労働者籠城団が28日の5時、全国各地に散在して 第二の闘争を準備するための解団式を開いた。 1年以上続いた明洞聖堂という特定地域を拠点にした 籠城と散発的な集会による闘争が限界に達したという判断からだ。 昨年の11月16日、明洞聖堂と聖公会聖堂に落ち着いた移住労働者は、約200人。 聖公会聖堂籠城団を含む全国各地の小規模籠城団が2月の前後に解散した後、 明洞聖堂籠城団だけが政府の雇用許可制と取り締まり追放に反対する 籠城テントを守ってきた。ガス銃までを動員した政府の取り締まり追放と 生活苦により、籠城突入当時は100人あまりだった明洞聖堂籠城団もまた、 20人あまりに減った。 「同志たちは、とても強く闘争していました。 一番気持ちが弱かった私は、いつも同志を引き込んで寝ました。 地方に行って、これからは地方の同志たちと会えると思うと とてもうれしい気持ちではありますが、 本当に人間として会った同志たちと別れなければならないと思うと..残念です。 ここを離れても、一緒に行動してきた同志を忘れません。 これからまた一緒にやっていきましょう。」 最後まで残った20人あまりの籠城団員は、ひとりずつ、 共に戦ってきた同志たちと籠城を整理する心と今後の覚悟を述べた。 *(C)民衆の声キムチョルス* ある移住労働者は「私たちの涙は、私たちをかわいそうだと感じ、 私たち移住労働者が皮膚の色が違うから、 単に外国からきたから弾圧されているのだ、苦しめられているのだと 考えているこの社会を変えるための涙」とし 「闘争を通して移住労働者の権利を勝ち取る」と感慨を明らかにした。 またある者は、「私はバングラデシュから来た不法滞留者」と述べ、 「とてもつらい気持だけれど、われわれは不法滞留者だからなくせと言う 韓国政府の考えを変えるために、長い間の明洞聖堂籠城を終え、 今は現場へ帰らなければならない」と話した。 1年間籠城に参加してきた韓国人活動家のソソニョン氏も、 籠城を整理する所感と今後の計画を述べた。 「籠城をはじめて1年という期間がものすごく早く過ぎたようです。 いつのまにか夏が来て、またいつのまにか秋が来て、 そしてこのように380日が過ぎました。 一日一日、大切ではない日がなく、一日一日、切迫しない日は 私たちにはなかったようです。 私があの時もう少しだけがんばっていたら、 そして私たちの同志たちがもう少しだけがんばって参加してくれていたら、 私たちの同志を国に送ることはなかっただろうに。 また、もう少し前進することはできなかったか。 そんな後悔がたくさんあります。 しかし、ここまで来たことも、とても誇らしく感じます。 そんな後悔、憤怒を胸に刻み、これからもっとがんばって闘わなければならない という気持ちを持ちます。」 解団式が終わった後も、彼らは互いを抱き合い、本当に長い間泣いていた。 籠城の間、出入国管理所のガス銃と網を受け、靴に踏まれ、 追放される同志を送り、耐えてきた涙だった。 もうつらい時に肩を貸し、抱いた同志と別れなければならず、 彼らはこれから流さなければならない涙まで、すべてを吐き出した。 *(C)民衆の声キムチョルス* 解団式が行われている時、 最初から籠城に参加してきたマニク氏(バングラデシュ、27)と話をした。 彼は「1年間、目に見える成果があったとすれば、 もっと多くの移住労働者に走って行くことができるのに、 そうでなくて残念だ」とし、「しかし不法滞留者として捕えられずに 移住労働者の困難を知らせたことや、 これから地方で活動する基盤を用意したことは自分達の成果」だと語った。 マニク氏によれば、籠城の間、既に百人以上の活動家たちが それぞれの地域で活動を始めたという。 マニク氏は籠城期間中、サマル・タパ籠城団全代表とK.B.、グプタ、ホグなどの 同僚が捕まり、強制出国させられた時が最もつらかったという。 彼は「一回は籠城団メンバーの父が亡くなったという話を聞いたが、 国(インドネシア)に電話をする金も私たちにはありませんでした」と 苦しかった籠城団生活を振り返った。 マニク氏は、家族として両親と2人の兄そして妹がいる。 マニク氏が籠城をするという知らせを聞いて彼のお母さんは入院した。 時々通話をするマニク氏のお母さんは、相変らず彼に活動をやめろと語るらしい。 「国から外国に送り出す時は、きちんと暮らそう。活動せず。 そう思っていたので、最初は本当だと受け入れませんでした。 そんなことはするな。今でも止めろと。兄もそうです」 *(C)民衆の声キムチョルス* マニク氏の妹のハースやヘナ(花の名前だそうだ)さんだけは いつも電話をかけて彼の安否を尋ねる。 「体調はどうか、女友達はできたか、韓国の暮らしはどうか、 そんな話をします。おもしろいこと、また悪かったことはなにかと。 そしてドラマの話もするのですが、闘争の話は妹にもできません。 どんなに良い話でも、母に話してしまうから。 妹も同じような女の子だから、母にみんな話すのです。」 話をしているうちに〈移住労働者合法化のための会〉で活動するある会員が、 時あるごとに写していたマニク氏の写真を集めた写真綴を彼にプレゼントする。 「慶煕大、梨花女子大、市立大などの大学生同志らが大勢一緒に戦いました。」 「闘争と飯」や「移住労働者合法化のための会」、 不安定労働撤廃連帯、社会進歩連帯、未来連帯の同志たちも 最も近くにいました。メディアアクトの同志もドキュメンタリーを撮りながら いつもそばにいて..ああ!パクジュン同志。 一番親しいですよ。」 彼は労働歌手のパクジュン氏の話をしながら顔に嬉しそうな笑いを浮べた。 「本当は、私達は1年以上も闘争するつもりはありませんでした。 一か月のうちにみんな解決するだろうと。 路頭に出て来て戦えば、政府が受け入れるだろうと思っていたのですが。 それがだめだと考えると、あまりにもつらかった。 ところが共に生活してご飯を食べて、苦しいことがあれば抱きあって、 この同志たち(連帯してくれた人々)がいてこそ、今までやってこれたのです。 本当に、とてもとても感謝していて、これからもこうして一緒にいることができれば いつかは勝利できると思っています。」 移住労働者たちが1年以上籠城闘争を続けることができたのには、 ソソニョン(31)平等労組移住支部事務局長の力も大きい。 ソソニョン氏は、籠城団の一員として1年間、彼らと共に生活をしてきた。 徐氏は99年に移住労働者センターという相談所活動を始め、 移住労働者運動を底辺から固めてきた。 *△中央がソソニョン氏(C)民衆の声キムチョルス* 「取り締まり追放を防ぎきる実際的な成果を勝ち取って、 地域の同志たちのところに行ければ良かったが、 私たちの力がまだ足りなかったと思います。 しかし、本当に多くの成果があったと思います。 何よりも、移住労働者が自ら闘争によって韓国の移住労働者の問題を知らせ、 多くの支持と支援を引出し、民主労組運動内でも恩恵授与ではない 共に闘争する同志だと考えてもらえるようになりました。 移住労働者闘争に対する実際的な計画が出てきています。 最も大きな成果は、移住労働者たちが闘争の主体として立ち上がったことです。 この闘争で一緒に集まった移住同志たちが、 これからの闘争を展開することができるのです。」 籠城を終えて、1年間の活動についてソソニョン氏はこのように評価した。 徐氏は、民主労組陣営が「移住労働者闘争の当為性に共感して支援もしたが、 他の闘争に埋まって積極的に受け止めることができなかった」とし、 「結局、私達がもっとたくさん組織して闘争する方法で動かなければならない」 とも話した。 実際、移住労働者闘争について、民主労組陣営の迅速な対応はなく、 労働許可制立法案の発議と全国組織建設などが遅れている。 個人的な感慨を尋ねると徐氏は 「1年間暮してきた家が消えてしまうのに、あまりにも馴染んでしまった空間..」 と言うと言葉を切り、 「ここでの闘争が、私がこれから生きていくために、 とても重要な影響を及ぼすでしょう」という覚悟にかえた。 ソソニョン氏もまた、サマルとビドゥなど、共に闘った同僚が連行され、 保護所内で生死の境をさ迷いながら断食をしていた時が最も苦しかったと言う。 しかし、彼らもまた「国に帰っても、とても熱心に活動している」と言い、 強制追放させられた同僚の近況を伝える。 徐氏によれば、サマル・タパ全代表は現在はネパール労総の移住労働者部署で 活動していて、来月18日の世界移住労働者の日を準備している。 ビドゥ氏も、バングラデシュで地域共同体を作り、 移住労働者運動を行っている。しかし、ビドゥ氏は韓国政府が 彼をテロリストだと通報したことで、情報機関から監視されるなどの 困難を経験しているという。 彼女もまた他の籠城団員たちと同じように、地域活動に飛込む計画だ。 現在、地方に住んでいる活動家たちが深刻な取り締まりによって 困難を経験している状況で、彼らの決意を実際的な成果にすることを 助けるという。 夕方7時頃、移住労働者籠城団をはじめとして 解団式に参加したあらゆる人々は、「一緒に行こう、私たちのこの道を」を歌い 明日の闘争を約束した。 来週には消える明洞聖堂入り口の籠城テント。 すり切れてつぎが当てられ、ちぎれ、色あせた旗が、 籠城団の険しかった1年を語っている。 *(C)民衆の声キムチョルス* *(C)民衆の声キムチョルス* *(C)民衆の声キムチョルス* 2004年11月29日(C)民衆の声 翻訳/文責:安田(ゆ) Created byStaff. Created on 2004-11-30 01:50:20 / Last modified on 2005-09-05 05:17:52 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ |