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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕風刺漫画集『パレスチナに生まれて』
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毎木曜掲載・第329回(2023/12/28)

アラブ民衆から圧倒的支持を得た風刺漫画

『パレスチナに生まれて』(ナージー・アル・アリー著、露木美奈子訳、いそっぷ社、2010年、1600円)評者:佐々木有美

 本書は、パレスチナの風刺漫画家 ナージー・アル・アリーの一コマ漫画集である。彼の漫画には必ず、つぎはぎだらけの服を着た小さな少年が登場する。ハンダラという名のその子は、画面の中央や片隅にいて、じっと登場人物たちを見つめている。それは11歳で難民となった彼自身の姿だった。ハンダラの前には、イスラエル兵やアメリカの政治家などとともに、アラブの支配者たち、PLO代表も姿をあらわす。アル・アリーが描いたのは、パレスチナ問題に限らず「民衆をかえりみずに勝手にふるまっている者たち」(ジョー・サッコの序文による)すべてであり、どんな圧力にも屈しなかった。

 「私の仕事は、難民キャンプやエジプトやアルジェリアにいるパレスチナ同胞や自分の意見を表明する場所がほとんどない全アラブ世界に住む素朴なアラブ民衆のために思いを述べることだ」とアル・アリーは語っている。彼が暗殺された1987年2月には、ハンダラは、その数か月後に起こるインティファーダ(民衆蜂起)を予言するように、仲間のこどもたちと石をもってイスラエル兵に向かっている。

 アル・アリー(写真右)は、1937年パレスチナで生まれ、1948年11歳のとき、イスラエル建国にともなう暴力的排除・虐殺(ナクバ)によって故郷を追われた。南レバノンの難民キャンプで育ち、作家で後に暗殺されたガッサン・カナファーニーに才能を見出されて、60年代クウェートで新聞に風刺漫画を描くようになる。74年にレバノンに戻るが、1982年のイスラエルのレバノン侵攻に遭遇。再びクウェートに戻るが、その後、身の危険を感じてロンドンに転居。1987年、何者かによって暗殺された。この間、ずっと新聞に漫画を描き続け、アラブ民衆から圧倒的な支持を得ていた。

 以下、本書より3点を紹介する。

「最後の晩餐:十字架にはりつけになっているアラブの民衆には飢えと自由の欠如しかない。1980年4月」


「アメリカとイスラエルの戦争兵器が組み合わされて用いられ、暴力的に中東がコントロールされている。1981年8月」


「パレスチナの子どもたちは、イスラエルの地ならしローラー(パレスチナの土地収用や没収、不法な入植地建設の象徴)に石をなげる。アラブの支配者たちはローラーの陰に隠れてそれを前進させようと押している。1987年2月」
*「」内の説明文は、マフムード・アル・ヒンディ博士による。原画に説明はない。

 本書の解説によれば、アル・アリーは、思想的には汎アラブ主義(アラブ世界を統一しようとする思想と運動)の共鳴者だったそうだが、いかなる政治組織にも属さず、政治的理想を求めた。彼は、アラブ世界に根深く存在する残酷な刑法や女性差別などの人権問題をはじめ、欧米の中東支配、中東和平のまやかし、パレスチナ人たちの抵抗運動を描き続けた。イスラエルとその背後にいるアメリカの蛮行はもちろん、アラブ諸国の支配者たちの腐敗と二枚舌を鋭く衝く彼の漫画からは、アラブ世界全体の民主化こそ、パレスチナ問題の解決のもう一つのカギだということが伝わってくる。

 10月7日から始まった今回のジェノサイドも、アル・アリーが亡くなった1987年以降、何度も繰り返されてきたパレスチナの受難の延長にある。アメリカは、国連の停戦決議に一貫して反対し続けている。正義はどこにあるのか。ハンダラは、見続け、抗議し続ける。


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