「憲法記念日」の3日、沖縄タイムスに栗原康氏(東京大非常勤講師、写真)の「脱憲法宣言」の論稿が掲載されました。要点を抜粋します。
< 安倍晋三政権時代に安保法制が成立。争点だった9条が骨抜きにされている。
2011年以降、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故を経験して、政治家たちは気付いてしまった。危機は支配の究極原理であると。
中国と北朝鮮の脅威をあおり、安倍政権はあからさまに憲法を無視。強権を発動して法案を通してしまった。新型コロナ禍でやられたのも同じことだ。危機をあおり、非常事態宣言。
何が起こっているのか。例外状態の常態化。常に危機的状況。死にたくなければ何も考えずに国に従え。人間の生が奴隷化される。
これを立憲主義だけでは止められない。いくら憲法違反だと批判しても、権力者たちは意図的にそうしているのだ。
どうしたらいいか。
権力の脱構成。そもそも法と権力を打ち立てるのが憲法だとしたら、その憲法をつくらせないのが脱構成だ。権力者を法で縛る前に、権力者がいらないのだ。支配なき共同の生を紡いでゆきたい。
どこかの誰かが飢えて倒れる。行政の支援を待っていたら死んでしまう。助けなくっちゃ。われ知らず、手を差し伸べる。誰に命じられたのでもない。法に従っているのでもない。義務も制裁もない。おのずと相互扶助の自律空間が立ち上がる。人間が共に生きていくのに支配はいらない。
戦争を止めるのだって同じことだ。どこかで誰かが殺されている。助けなくっちゃ。そう思ったら損得を考えている余地はない。われを忘れて手を差し伸べる。非戦を掲げて立ち上がる。
たとえ自国が戦争をしていたとしても、非国民と言われたとしても抗議してしまう。誰かの命令じゃない。憲法に書いてあるからでもない。義務も制裁もない道徳を共に生きる。非戦は権力の脱構成なのだ。
権力者のやりたい放題を止めるにはどうしたらいいか。まずは支配なしでは生きていけないという、その前提から脱していこう。憲法はなくても暮らしてゆける。脱憲法宣言。>
栗原氏は、『アナキズム』(岩波新書2018年)でこう書いています。
「アナキズムとは、絶対的孤独のなかに無限の可能性をみいだすということだ、無数の友をみいだすということだ、まだみぬ自分をみいだすということだ。コミュニズム。…アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きていきたい」
ブレイディみかこ氏は『他者の靴を履く』(文藝春秋2021年)で、「エンパシー」とは「他者の感情や経験などを理解する能力」だとしたうえで、こう述べています。
「民主主義とアナキズムとエンパシーは密接な関係で繋がっている。というか、それらは一つのものだと言ってもいい」
「アナキズム」は「無政府主義」だとずっと思ってきました。学校の教科書にもそう書かれていたと思います。しかしそれは、アナキストの幸徳秋水らを大逆事件(1910年)のでっち上げで殺した天皇制政府以来、いまに続く国家権力の意図的な誤訳であると今は考えています。「アナキズム」は正しくは「無支配主義」と訳すべきです。
抜粋した栗原氏の論稿は、一見突飛で無茶な主張のようですが、ここには私たちが自明のこととして疑わない「法の支配」あるいは「国家」というものを再検討することの重要性、そこにこそ権力の非人間的な支配を打ち破るカギがあることが提起されています。
ウクライナ戦争にどう向き合うかを念頭に書かれていることも間違いないでしょう。