「安倍晋三国葬」の弔辞で菅義偉前首相が、伊藤博文の死にあたって山県有朋が詠んだ短歌(岡義武著『山県有朋』岩波文庫所収)を引用したことから、同書に対し「書店から注文が相次ぎ…岩波書店は…急きょ重版を決めた」(9月29日付共同配信)といいます。ため息の出る話です。
安倍氏はなぜ『山県有朋』を愛読していたのでしょうか(4日付朝日新聞デジタルによれば、同書を安倍氏に薦めたのはJR東海元会長の故葛西敬之氏だったとか)。
山県有朋は伊藤博文とともに明治藩閥政治で中心的役割を果たしましたが、「終身現役軍人」でもあった山県が主に担ったのは、帝国日本の軍事分野でした。
幕末は高杉晋作の「奇兵隊」に所属し、官軍として戊辰戦争に参戦。明治政府での最初の配属は兵部省。1871年には西郷従道らと「徴兵制」施行の「建議書」を太政官に提出しました。やがて陸軍の全権を掌握するようになり、1882年には軍人勅諭を制定しました。
1889年、現役軍人のまま首相となり第1次山県内閣が発足。最大の課題は、「利益線」(朝鮮半島)を確保するための軍備増強でした。
1894年には枢密院議長として大本営メンバーとなり、日清戦争開戦を決定。自ら朝鮮半島に渡って戦闘を指揮しました。
1898年、第2次山県内閣を組閣。ここでも取り組んだのは大軍拡とそのための増税でした。
1904年の日露戦争も山県は御前会議で開戦決定に参画。大本営メンバーとして戦争指導の中心にいました。
1906年、元老として「帝国国防方針案」を明治天皇に上奏。翌年、天皇が承認して帝国日本の正式な軍事方針となりました。
1910年には大逆事件をでっちあげて幸徳秋水らを弾圧しました。
こうして、明治天皇制政府の軍隊制度を築き、軍拡を推進し、侵略戦争・植民地支配の先頭に立ち、社会運動を弾圧する中心に居続けたのが山県有朋です。
一方、伊藤博文が初代総理大臣として明治政府の中心にあり、初代韓国総監として植民地支配を推進したのは周知の事実です。
山県と伊藤は、ときに対立することもありましたが、山県は第1次伊藤内閣(1885年)で内務大臣、第2次伊藤内閣(1898年)では司法大臣を務め、個人的にも親しい盟友でした。
2人の共通点はなんといっても、同じ長州藩出身で、吉田松陰の門下生だったことです。
吉田松陰こそは、「蝦夷を開拓し…琉球に諭し…朝鮮を責め…北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」(『幽囚録』)と主張するなど、侵略・植民地支配、「大東亜共栄圏」思想の先駆者でした。
山県は主に軍事面で、伊藤は主に行政面で、ともに松陰の思想を忠実に実行した生涯だったといえるでしょう。
そして、同じ山口県出身の安倍氏は、同じく吉田松陰を信奉・敬愛し、「150年前の先人たちと同じように…行動を起こすこと」(2018年1月、「明治維新150年」の首相談話)と明治政府を礼賛してきました。
安倍氏が、自衛隊増強・軍事費肥大化をすすめ、戦時性奴隷(「日本軍慰安婦」)・強制動員(「徴用工」)問題で植民地支配責任を隠ぺいし、朝鮮学校無償化排除などで在日朝鮮人を差別し、憲法を蹂躙する専制的政治を続けてきたことをみれば、安倍氏は山県有朋、伊藤博文の2人が担ってきた帝国主義支配の軍事・行政の両方を推進してきたといえるでしょう。
菅氏は安倍氏の「国葬」で山県の伊藤への弔歌を引用しましたが、その伊藤の死は、苛烈な植民地支配に対する朝鮮民族の怒りが引き起こした安重根によるハルビン駅での銃撃(1909年10月26日)でした。歴史のめぐりあわせと言うべきでしょうか。