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LNJ Logo 太田昌国のコラム : ロシア軍のウクライナ侵攻と百年前のゴーリキーの言葉
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 ●第65回 2022年3月10日(毎月10日)

 ロシア軍のウクライナ侵攻と百年前のゴーリキーの言葉

 2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して以降、ロシア内部からの声をたくさん聞きたいと思ってきた。だが、同時代の人びとの声が届く以前にまず私が思い起こしたのは、ちょうど百年前に発せられた、ひとりのロシア人作家の声だった。

「残忍さ――これこそ、終生私を唖然とさせ苦しめてきたものだ。人間の残忍さのルーツはどこにあり、何からできているのか? 私はこれについて考えたが何一つ理解できなかったし、今なお理解できないでいる。いま、ヨーロッパ戦争という恐るべき狂気の沙汰と、革命の血なまぐさい出来事を経たのちにも、私はロシア人の残忍さがついに変化を遂げたようには見えないことを認めざるを得ない。(…)私がここで問題にしているのはただ一つ、苦痛に基づいた集団的な気晴らしのことだけである。最も残忍なのは誰か? 白軍か、赤軍か? 双方ともおそらく同じ程度に残忍であろう。というのは、両者ともロシア人だからだ。それに、残忍さの程度というこの問いに対しては、歴史は非常に明確な答えを出している。すなわち、積極的な方が最も残忍である、と。」

 これは、ロシアの作家、マクシム・ゴーリキー(写真)が1922年に記した言葉だ。私がこの言葉に行き着いた事の次第はこうだ。4年前、某所で「ロシア革命百年」を迎えての連続6回の講座を行なった。各回のタイトルのみ書いてみる。「興奮と希望、幻滅と絶望のロシア革命100年史」「全55巻の全集からはみ出たレーニン」「『アナ・ボル論争』は古くない」「ソ連時代の文学・芸術の魅力と挫折」「粛清・強制収容所・情報封鎖と社会主義」「日本社会は『社会主義国』といかに向き合ったか」――以上の6回である。毎回、A4で8頁のレジュメをつくった。4回目の「文学・芸術」の回で、マクシム・ゴーリキーの発言の「変遷」をたどった項目がある。私はその箇所に、この発言を記録していたのだ。

 私は、「○○人だから、こうだ」「△△人だから、ああだ」という決めつけ的な言い方を、一貫して採ってこなかった。今もそうである。1923年の東京、1937年の南京、1965〜75年のベトナムを思い起こせば、「日本人と米国人の」残忍さも「ロシア人の」それに匹敵するものに違いない。人間は〈状況的に〉生きているのだから、「民族」、「国民」はもとより、「富者」、「貧者」といったところで、それらに括られて、一様であるはずもないのだから、その種の物言いは無効なのだ。

「強いられた」、あるいは或る時には自ら「選択した」その位置をいかにズラして生きることができるか――そこにこそ、生きることの醍醐味はあると考えてきた。でも、〈革命〉と〈反革命〉が激突していた1922年に、ゴーリキーは「ロシア人の残忍さ」を〈一般論として〉語っている。しかも「積極的な方が最も残忍である」という文言は、ロシア革命を積極的に推し進めていたボリシェヴィキ、すなわち、軍事的にいうなら赤軍側を指していたに違いない。ソ連崩壊後、それまで秘密にされてきたレーニン文書が数千点明るみに出て、そこでは〈反革命派〉に対する「残忍な」措置がたくさん指示されていることを知っていたから、ゴーリキーのこの言葉は異様なまでの迫力を持って、この言葉を書き写していた私に迫ってきた。

 レーニン治下の1919年、「反革命的な」知識人の弾圧に精を出すボリシェヴィキに向かって、ゴーリキーはこうも直言している。「一国の豊かさ、ある人民の力強さはその知的潜在力の量と質によって測られます。革命が意味を持つとすれば、この潜在的能力の成長発展を助長する場合だけです」。レーニンはすぐ答えた。「人民の〈知的努力〉をブルジョワ・インテリゲンツィアのそれと〈混同〉するとしたら間違いだろう。(…)労働者・農民の知的勢力は、ブルジョワジーとその配下の者、すなわち国の脳髄たらんとする哀れな小知識人や資本の下僕を転覆する闘いの中で増大し拡大していく。実際のところ、彼らは脳髄などではなく糞にもひとしいものだ。」

 これら二つの発言から10年ほどを経た1930年前後以降、ゴーリキーがボリシェヴィキ革命に対する態度を劇的に変えたことは周知の事実だ。後世のロシア人作家、ソルジェニーツィンは1973年にパリで刊行した『収容所群島』第1巻の筆者緒言の末尾に書いている。「この書物の資料はまた、ロシア文学においてはじめて奴隷労働を讃美した《白海運河》に関するあの恥ずべき本の著者たるマクシム・ゴーリキーを筆頭とする36人のソヴェト作家たちからも提供してもらった。」

 さて、ゴーリキーの百年前の発言に再度読み耽っていた私の前に現れたのは、2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻の翌日、2月25日にラジオ局「モスクワのこだま」で語られた、現役ロシア人作家の発言の翻訳だった。
https://note.com/iwanaminote/n/n3d5608b53e10

 ドミートリー・ブィコフ。1967年モスクワ生まれの文芸評論家だという。「戦争という完全な悪に対峙する――ウクライナ侵攻に寄せて」と題したそれは、思いがけずも「恥ずべき戦争」を前にした一ロシア人の怒りと哀しみを簡明なことばで伝える。プーチン政権には一貫して批判的な立場を取ってきたというが、それゆえか、2019年には連邦保安局から毒を盛られたこともある人物だという。彼の著作が一冊だけ日本語で読めるというので、図書館から取り寄せてみた。『ゴーリキーは存在したのか?』(作品社、斎藤徹=訳、2016年)。奇妙な符号だが、本コラムが冒頭から触れてきたマクシム・ゴーリキーの評伝である。この評伝の内容を詳しく紹介する余裕はないが、ゴーリキーの人生を「放浪者」「亡命者」「逃亡者」「囚われ人」の4段階に分けて分析するのは常套ではあろう。だが、ソルジェニーツィンの評言に見られるように、少なくともその後半生は「ボリシェヴィズムへの追随者」と見做され、〈文学的には〉放り出されていた人物を、21世紀に入ってから敢えて取り上げているだけあって、著者独自の視点があって、読ませる。「逃亡者」の章では、私が冒頭で引用した1922年のゴーリキー論文「ロシアの農民階級について」にも触れている。ブィコフによれば、「ボリシェヴィズムは同じ嫌悪すべき残虐性の方向に進んでいるが、しかし、それには、閉ざされた環を破り、ロシアをなにか別なものに変える歴史的チャンスがある」と考えたゴーリキーにとって、この論考は「ロシア革命についての彼の久しい思索の結果、そして、要するに、それ[革命]を、――まったくのところ、国にとっての最小限の悪として――受容する精神的覚悟の証明である」。「(この論考は)ロシアとの決別の行為ではなく、帰還の礎であり、ボリシェヴィキ――その無条件の恐るべき悪徳にもかかわらず――が祖国の原初からの野蛮性と獣性を処理することのできる唯一の権力であるという固い信念の証明であった」。

 旧ソ連では一貫して禁書だったという「ロシアの農民階級について」を論じるブィコフもまた、ロシア的なものとボリシェヴィズム的なものとの関連性を問わざるを得ない。だが、コミュニズムの例証をロシアだけではなく中国、カンボジアに拡大して見ると、その残虐性はロシアに固有のものではなく、全体主義体制に共通のものと見做すことができる。だが、ここで最も恐るべき考えが生じる――とブィコフは続ける。「もしもロシア的なものがさらに恐るべきものとなるとしたら、どうなのか? もしもソヴィエト的なものとロシア的なものとのどちらかを選ぶとしたら――恐るべき終焉と終わりなき恐怖とのいずれかを選ぶという、まさしくも絶望的な試みがある――どうなのか?」    ブィコフは、去る2月25日のラジオで語っている。「未来の学術界はこの事象をどう扱うことになるのだろう──なにしろファシズムが、一切のイデオロギー抜きで成立するものだということが明らかになったのだ。たんなるルサンチマンひとつで成立してしまうのだ。つまりファシズムとは、思想の生んだ現象でも文化の生んだ現象でもなく、心理的現象、あるいは心の病気のような現象だったのだ。それは感情であり、その感情に身を委ねることを心地よく思う人がいる。人間の本性として、巨悪に加担し、なにをやっても許されるという興奮状態に陥り、威力を見せつけたいという感情がある。人を酔わせる、怒りの感情だ。」

 今回ロシアの頂点に立って、この無謀な戦争を主導しているのは、KGB(ソ連国家公安委員会=諜報機関・秘密警察)要員としてソ連時代のコミュニズムを経験し、ソ連崩壊後も生き延びて「大ロシア主義」復活の夢を抱くプーチンである。プーチンの本音は知らずとも、ボリシェヴィズム的なものと、ロシア的なものとが、彼の中では〈経験的に〉合体している。ブィコフの「憂い」は、さらに深まるに違いない。

 私が信頼を寄せるロシア文学者・沼野充義は、自身のツイッターに「言葉の虐殺」と題する小文をスクリーン・ショットで掲げ、ロシア文学に長年親しみ、紹介もしてきた自分として、今回のプーチンの指令によるロシア軍のウクライナ侵攻の報に接して、ひたすら「恥ずかしい」と書いている。
https://twitter.com/MitsuNumano/status/1501436466190483461/photo/1

 これまた私が多くを学んできているロシア革命の研究者である池田嘉郎は、「30年以上関心を」持ち続けてきた、自分が「知っているロシア」が「崩れていく」ことへの名状し難い思いを吐露している。
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/108227/5f0504803a38a373181de54505deea2c?frame_id=561056

 私自身も、19世紀ロシア文学の広大な沃野と20世紀初頭に成就した社会革命に触れることで、若い頃から「ロシア」への深い関心を持ち続けてきた。4年前に行なった「ロシア革命百年講座」においても、腹立たしいまでの悲劇的な歴史を顧みながら、それでもなおそこから学ぶべきことがあることを実感していた。いま目の前で進行中のロシア軍の愚劣な戦争は、世の中(世界)の在り方を一変させてしまうような予感がする。もちろん、悪い方へ、と。

 米国の「非」を、NATOの「非」を指摘するのは必要だとしても、それでプーチンの戦争犯罪が免罪されるわけではない。ブィコフも言うように、米露のどちらが酷いか競争しても、それは徒労に終わる。私の本音は、「国家」こそが諸悪の元なのだから、国家間競争に関心はない。だが、ここは踏みとどまって、国家社会であれ、政治家であれ、ヨリ良いものを見つけたら、その「良さ」を競い合うような世界の創造へ向けて――それが、現時点での、私たちの合言葉だ。


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