〔週刊 本の発見〕ヤニス・バルファキス『父が娘に語る経済の話』 | |||||||
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毎木曜掲載・第236回(2021/12/30) ワクワクさせながら「経済」を解き明かすヤニス・バルファキス『父が娘に語る経済の話』(関美和訳、ダイヤモンド社、2019)評者 : 菊池恵介本書は、経済学者の父親が、オーストラリアで離れて暮らすティーンエージャーの娘に語るという形で執筆された経済の入門書である。2013年にギリシャで出版されて以来、たちまち25カ国語に翻訳され、世界的ベストセラーとなった。著者はヤニス・バルファキス。リーマンショック後、ギリシャやアイルランドなど、EU周辺国が次々と債務危機に陥り、厳しい緊縮政策と構造改革を迫られるなか、2015年にギリシャで誕生した急進左派政権の財務大臣としてEUの債権者団との債務削減交渉を担った人物である(*)。欧州の最高権力者たちと5か月にわたるバトルを繰り広げ、世界的に知られるようになった著者が、その傍らで、このような可愛らしい経済の入門書を書き下ろしたのは、なぜだろうか。その理由として、本書は二つの点を挙げている。一つは、「経済学を教える者として、若い人たちにもわかる言葉で経済を説明できなければ教師として失格だとつねづね思ってきた」という教育者としての信念。もう一つは、「経済学者だけに経済をまかせてはいけない」という民主主義者としての信念である。 たとえば、橋を作るなら建築の専門家に任せた方がよいし、手術を受けるなら医療の専門家に任せた方がよい。しかし、政治や経済に関しては、専門家に任せてしまうわけにはいかない。なぜなら、自然科学の世界とは異なり、経済の選択は、どのような価値を優先するかという民主的な判断に直結しているからである。したがって、「専門家に経済を委ねることは、自分にとって大切な判断をすべて他人に任せてしまうことにほかならない」。*写真=ヤニス・バルファキス氏 問題は、いっけん抽象的で難解、しかも退屈な経済の話を、どのようにしてわかりやすく、魅力的に伝えられるかである。本書の最大の功績は、オイディプスの神話からファウストの物語を経て、SF映画の「マトリックス」まで、欧米のティーンエージャーなら誰でも知っているような物語を題材に、資本主義の誕生と不平等の起源、不況のメカニズムなどを、まるで小説のような筆致で読者をワクワクさせながら解き明かしていくことにある。特に、24年間にわたる全能と悦楽と引き換えに、悪魔メフィストフェレスに自分の魂を売り渡す契約を交わすフォースタス博士(ゲーテのファウスト)の物語を通じて、生産活動の原動力としての「債務」の役割と金融危機のカラクリを解き明かす3章と4章、ルソーの「狩人のジレンマ」をヒントに、失業とデフレ不況のメカニズムを説明する7章などは、著者の人文主義的な教養と語り部としての才能がいかんなく発揮されていて、鮮やかというほかはない。2017年に英語版をいち早く手にしたブレイディ・みかこが、本書を「深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」と評した理由である。 本書によれば、古代メソポタミアから現代まで、支配者と庶民の間にはつねに大きな不平等が存在してきた。それでは、富を占有する支配者たちは、いかにして庶民の不満をいなし、権力を維持してきたのだろうか。その答えは「支配者だけが国を支配する権利を持っていると、庶民に固く信じさせ」ることだという。すべての支配者は、自分たちの統治を正当化するイデオロギーを必要としている。そして、その役割を長らく果たしてきたのが、呪術や宗教であった。王や貴族による収奪や暴力が、精霊や神による自然の秩序として正当化されてきたのである。しかし、近代科学の登場を背景に、宗教的世界観が後退するに伴い、支配を正当化する新たなイデオロギーが求められるようになった。そこで編み出されたのが、市場における需要と供給のバランスこそ、究極の自然的秩序だとするイデオロギーである。『国富論』(1776)によって経済学を樹立したアダム・スミスは、これを「神の見えざる手」と名付けた。「このイデオロギー、つまり新しい現代の宗教こそ、経済学」にほかならない。 1920年代にアフリカのスーダンで民俗学的な調査に取り組んだイギリスの社会人類学者、エヴァンス=プリチャードは、アザンデ族の人々が占い師に絶大な信頼を置いていることを発見した。しかし、その予言は的中するよりも外れることの方が多いため、なぜ占い師が絶大な影響力を持ち続けられるのか、不思議に思った。そして長い参与観察の末、次のような結論にいたった。「アザンデ族の人たちも予言が外れる理由を知りたがったが、あまりに迷信に囚われすぎていたので、予言が外れる理由も迷信で考えていた。迷信と現実が食い違っても、別の迷信を使って食い違いを説明していた」。 現代の経済評論家が行っていることも、概ね同じようなものだと本書は結論づける。つまり、経済予想が外れると、新たな迷信のような理論が編み出され、その間違いが説明されるのだ。たとえば、「失業と不況は競争不足が原因だとされてきた。そこで《規制緩和》によって競争を促進することが解決策だとされている。銀行家や支配層を政府のしがらみから解放するのが規制緩和だ。この規制緩和がうまくいかない場合には、民営化によって競争が促進されるという。民営化でもうまくいかない場合には、労働市場が問題だとされる。組合の干渉や福祉という足かせを取り除けばいいとされる。そんな説明が終わりなく続いていく。現代の専門家は、アザンデ族の占い師とどこが違うというのだろうか」。 現代の呪術師たちは、大学や金融機関のシンクタンクに籍を置き、経済書を執筆したり、新聞に論説を発表したり、テレビに登場して「市場の福音」を説いている。これに対して、一般の人々は「経済学は複雑で退屈すぎる。専門家に任せておいた方がいい」と思うかもしれない。だが、経済を専門家に委ねてしまうのは、かつて中世の人々が自分の運命を教会や僧侶、異端審問官に託していたのと同じくらい危うい行為だと著者は主張する。「だれもが経済についてしっかりと意見が言えることこそ、いい社会の必須条件であり、真の民主主義の前提条件」だからだ。市場の自己調整能力に全幅の信頼を置き民営化や規制緩和のメリットを謳い上げる呪術師たちに民主主義を売り渡さないためにも、私たち一人一人が経済について学ぶ必要がある。専門用語を一切使わず、新自由主義のドグマを一つ一つ反駁していく本書は、その最良の入門書だと言えるだろう。 *ギリシャ危機の原因に興味のある方は、次の記事をお読みください。菊池恵介「ユーロ危機の真相――欧州通貨統合の矛盾と南北の分断」『世界』2020年8月号(岩波書店)。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2021-12-31 18:41:46 Copyright: Default |