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毎木曜掲載・第233回(2021/12/9)

あえぎながら自分の生を自覚する

『純粋な幸福』(辺見庸、2019年、毎日新聞出版)評者:根岸恵子

 わたくしごとであるが、先月、とても近しい友人を二人もなくした。

 一人は11月2日。彼は8月に「僕は入院したけれど、コロナではなかったよ」というメールを送ってきた。「コロナでなくて本当によかった」とその時返信したけれど、その後彼に会うことはできなかった。あのときあんな安易なメールを送ってしまったことを今でも後悔している。のう天気なメッセージに本当の病名を言えずにいたかもしれないし、そんなことを言う人でもなかった。

 もう一人は11月22日。亡くなる二週間前に彼女と一緒に友人の展覧会に行き、帰りに居酒屋に入った。食いしん坊で大喰らいの彼女があまり食べなかったことに何故彼女の病に気が付かなかったのだろう。あのとき駅で「じゃあまたね」と笑顔で見送ったときの顔を忘れない。組織労働者たる私の話すインチキ臭い「人間の自由と解放」を、彼女は見透かすかのように実践する生き方をしていた。

 二人ともいつも一緒にいて当たり前の友人だった。そこにいて当たり前の人。空気のように必要で、当たり前に存在している同じ仲間。なのに、いない。どんなに探しても会うことができない。どんなにメールを送っても二人から返事がくることはない。決して返ってはこないのだ。

 死者をどんなに悼んでも、その思いが本人に届くことはないだろう。それよりも生き残った人の心をどう慰めるのか。ぽっかりと空いた心の穴をどう埋めるのか。二人の死をどう受け止めたらいいのだろう。まったくわからないのだ。

 辺見庸の『純粋な幸福』をそんな思いで読んでみた。
「いまここに在り、在りつづけるだろうものでなはく、かすみ、かすれ、消えゆくものだけが慕わしいのは、そのものではなく、消えゆくうつろいを、いとおしんでいるのだ。うすれゆくときを。たぶん。消失をおしむおのれの感情とあそんでいるのじゃないか」。
 そんなことはないのだよ。悲しみはもっと深い。(写真=辺見庸)

 辺見庸の作品に最初に出会ったのは、90年の中ごろに読んだ『もの食う人びと』(共同通信社 1994年)。ノンフィクションでありながら、随筆のような柔らかな言葉でつづられていた。時代の背景や情勢についてはあまり触れないで、ただ辺見が旅した各地で出会った人々のことを食べ物を通して描いている。食を通して見えてくる人々の暮らしは、やはり社会の現実を暗に伝えている。ルポルタージュが書くことを書かないで表現している辺見はすごいなと当時思った。

 『純粋な幸福』は「夜がひかる街」「あの黒い森でミミズ焼く」「骨」「純粋な幸福」の4章からなり、それぞれにこの本のために書き下ろしたもの、新聞などに掲載された短編などを集めた。そこに描かれているのは、老いと死への辺見ならではの慟哭である。しかも、それは声を立てず、いつもの辺見の婉曲に婉曲にかさね真実を隠し、恐ろしいまでに現実を突きつけられる書き方である。それは辺見の主観によって書かれ、それがカフカ的境地というか、いやいやこれは宮沢賢治的に言えば、彼の心象風景の描写であるのだろう。つまり言葉を紡いでゆくという作業を、辺見の心象をあからさまに並べたてかような不思議な文章の羅列なのである。人間の老いゆく姿、それは辺見自身であり、やがては死にゆく人間の避けがたい恐怖をピュアな幸福だと考える辺見の的確な人生の受け止め方をそこに見ることができる。

 まず冒頭の「おばあさん」に老いの悲哀を描く。
「なにか臭った。おしめか。ダイコンのぬか漬け。おばあさんの左手にさわってみた。おばあさんは動かなかった…ぬか漬けが濃く臭った」「あなたはどなたですか」「だれでもない」「おばあさん、貧しく寂しく、ぬか漬け臭いあなた、いじめられているのですか?やさしい口調(笑顔)のひとびとに、とってもやさしく朗らかにいじめられているのですか?」

 辺見自身老いとは身体的によって認識されるべきものだが、意識がそれを認識することはないと考える。「老いる、または老いたということを、知っているつもりで知らなかった。たぶん、老いとは主観と身体の無自覚的な乖離に始まる」と述べている通り。

 亡くなった二人の友人は老人になることはない。彼らが老いの苦悩を感じることはない。都バスの窓から、手押し車をやっと押しながら歩く腰の曲がったおばあさんや、バス停のベンチに座ってしわだらけの顔でこの世の不幸をすべて背負っていると思っているおじいさんを見ながら悲しくなることはないのだ。

 人の人生というのは、生まれてから死を迎えるまでの一直線上の物語を辿るようなものではなく、その連続する瞬間の現実的な情景とその瞬間の心状が織り成す糸の絡み合いになのではないか。そしてそれには起承転結というような筋書きがあるわけでもなく、それはあたかも芝居の途中で突然緞帳が下りてしまうように幕が閉じてしまうようなものだ。二人の友人は、そうやって逝ってしまった。

 すべてが「かのように」流れていく現実か夢なのかわからない世界で、あえいでも仕方がない。しかし誰もがあえぎながら自分の生を自覚している。もう死んでしまったあの二人には感じることはないあえぎを。そして二人は「純粋な幸福」を手に入れたのだ。辺見さん、そういうことでしょう。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。


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