本文の先頭へ
LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『「空気」の研究』(山本七平)
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item hon225
Status: published
View


毎木曜掲載・第225回(2021/10/14)

水を差すことができますか?

『「空気」の研究』(山本七平、文春文庫)評者:根岸恵子

 ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏が米国籍を取得した理由は、「周囲に同調して生きる能力がないから」だそうだ。“同調”とは日本人だけが持つ「空気」による拘束である。そういうことをこの本は述べている。例えば、コロナ禍で「マスク」が同調圧力となって、法的に強制されなくても日本人は自ら率先してマスクをする。そしてそれに異議や疑問を言葉に出すことは、それが事実であっても“不道徳行為”とみなされ、したがって「空気」に逆らって絶対に口にしてはいけないことになる。ということである。

 私がこの本を今月の題材に選んだ理由は、8月に書評を書いた『特攻と日本軍兵士』(広岩近広著 毎日新聞出版)の中で引用されていて、とても気になったからである。日本人は負け戦だとわかっていても、多くの犠牲者を出すとわかっていても戦争を止められなかった。「あの時の空気ではああせざるを得なかった」というのが理由だ。

 筆者はそれを戦艦ヤマトの出撃の愚かさにも例えて述べている。「それがいかに無謀であるか明確な根拠があるにしても、当然(出撃する)という方の主張はデータや根拠は全くなく、その正当性根拠は専ら「空気」なのである。よって、あらゆる議論は最後には『空気』で決められる」。

 結末がどんなにひどくても「とてもそういう空気ではなかった」と言ってうやむやにするのは、日本人の常套句である。そういわれてしまえば何も返す言葉がない。

 海外を放浪してわかったことは、日本以外の国では「『言葉』にして言わないと何も理解してもらえないから主張する」ということだ。「空気」がないからである。「主張してはいけない」と学んできた者にとって、これは自己矛盾をきたす。時として「空気」に抗い言いたいことを言ってしまうと、「抗空気罪」によって永遠に続く「村八分」刑に処される。そのあとで、必ず言われるのが「あなたの言う通りだと思うけど、あの場ではさあ、何も言えない『空気』だったから」。

 つまり、物事の決定を真理の中に求めず、採否は「空気」、自らの意思決定はこの「空気」に拘束されているのである。著者曰く「『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」。それは権力側だけでなく、日本人社会の隅々まで、深く染みついているのだ。

 山本七平さんといえば、『日本人とユダヤ人』が有名であるが、本書も独善的で恣意的な部分は否めない。変形三段論法みたいな文章の羅列で読みこなすのが難解で、何度も同じ個所を読み込んだ。しかし、1977年に文藝春秋から出版されてから、約半世紀も経つのに、内容は全く色褪せてはいない。かえって、「空気」の束縛は当時より、この安倍・菅路線でより窮屈なものになってはいないだろうか。若い子がKY(空気読めない)などと言って異質なものを蔑むのも、それを少しも批判せず肯定する世相の中に同調性を極端に求めるこの国の社会がある。もともと「あうん」の呼吸など言葉を交わさず「空気」汲み取って、自ずと動くことが良しとされてきた文化の中では、常に周りの空気を察することが要求されるのだ。だからこそ、「忖度」などと言う事が起こってしまう。そして「忖度」の責任はいったい誰がとるのであろうか。日本人というのは、そうやってすべてを曖昧にうやむやにして責任を取ってこなかったのではないか。いまだに過去の戦争を総括できずにいる日本人は「空気」によってそれを曖昧にしている。

 山本氏は戦後捕虜となるのだが、米兵から日本人は進化論など理解しないだろうと言われ、押し問答となる。米兵は現人神である天皇を崇拝する民族が進化論を肯定するはずがないと決め込んでいる。それに対して山本氏が「日本人は小学生から進化論を学び、みな理解しているのだ」と反論するわけである。ここで山本氏は日本人の持つ矛盾に気づく。つまり、人間が猿の子孫であるならば、天皇もまた猿の子孫になる。進化論と天皇制は相いれないものだが、日本人はこの矛盾を何も考えずに両方とも受け入れているということだ。

 そしてこの矛盾を突き詰めることなく、「空気」によってうやむやにすることは、空気が都合よく変幻自在に変化することを意味するのである。先月のこの書評欄で加瀬勉さんの本を取り上げたが、戦前天皇制のもとで暴力と思想教育を押し付けられた加瀬少年は、戦後すぐに民主主義者に転向した教師に向かって、「今まで言っていたことは何だったのだ」と「うそつき」と糾弾した。日本人は空気によって態度を変え、通常性がない。そこで、以前に読んだある帰国子女が書いた本を思い出した。彼女は外国の学校から日本の学校に転校し、日本人が相手によって意見をころころと変えるのを見て、日本人がいかに嘘つきであるかということを書いていた。日本人は自己の中に内在する矛盾を疑問に思わないどころか、当然のように受け入れているのだ。

 また、以前オーストラリアから日本の戦争責任について修士論文を書きたいという若い女性がしばらく日本に滞在していた。彼女は帰国してから論文を書いて送ってくれた。辛辣な文章であった。日本人を家に例えて、目に見える表はものすごくきれいにするが、中はぐちゃぐちゃであるというようなことを書いていた。そうして、戦争も同じようにぐちゃぐちゃにしたまま整理しようとしないというのだ。言い得て妙であるが、あの短い期間でよくもそこまで見抜いていたかと思った。

 この矛盾は、「うやむやにするな」と叫びながら、なぜ「うやむや」になるかの原因を「うやむや」にしていることに気づかない点にある。いわば「うやむや反対」の空気に拘束されているから「うやむや」の原因に追究を「うやむや」にし、それで平気でいられる自己の心的態度の追求も「うやむや」にしている。これがすなわち「空気の拘束」である。ということであるらしい。

 山本氏は、日本人は「情況に臨在的に把握し、それによって情況に逆に支配されることによって動き、これが起る以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的」だといい、それを中根千絵氏の言葉で要約した。「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、それが熱いといくら説明しても受け付けない。しかし、ジュッといったときの対応は実に巧みで、大けがはしない」と。そして、その言葉をかりて、「ジュっと熱く感じない限り理解しない人たちだから、そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどすればよい」という。なるほど。

 山本氏は「本書の主題は“空気”を研究してまずその実態をつかむこと」だと最後に述べている。そして私の興味は「空気」に拘束された状況からどうしたら抜け出せるかということだった。

 日本人は自分が異質であるかどうかを極端に心配する。同質であることが唯一の価値観であるかのように。日本人社会は、異質なものがいると常に個人対集団によってそれを排除しようとする。「抗空気罪」による断罪である。これは極端な四面楚歌の状態を生む。だから、誰も「空気」に逆らえないでいる。

 しかし、空気などというものは存在しない。皆が「私は私」と考えれば、空気に怯えることはない。この本を読んで留飲を下げた思いがした。

 本書は第2章「水=通常性の研究」で、「空気」に抵抗できるのは「水」だけであると述べている。つまり、「空気」に「『水』を差す」ということだ。これは勇気がいることだと山本氏は述べている。

 私たちがもし体制を変えたい、権力に抗いたいと思うならば、一人一人が水にならなければいけない。ブルース・リーが言うように。Be Water, 水になれ!だ。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。


Created by staff01. Last modified on 2021-10-14 21:19:34 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について