きょうは「文化の日」の振替休日。なぜ11月3日が「文化の日」という祝日になったのでしょうか。「祝日法」では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされており、それは日本国憲法が公布されたことによる、というのが一般的な説明です。ではなぜ憲法は11月3日に発布されたのでしょうか。
この日が天皇睦仁(明治天皇)の誕生日だったからです(他説もあります)。11月3日は1873年から「天長節」、昭和のはじめから敗戦までは「明治節」という名前の「祝日」でした。「文化の日」はそれを継承したもの、つまりルーツは明治天皇です。
天皇制との深い関係は由来だけではありません。「文化の日」には「秋の叙勲」が行われます。新聞は全国紙・地方紙の例外なく受章者を大きく報じ讃えますが、この叙勲こそ天皇制を支える有力な制度です。
叙勲は春と秋の2回行われます。春は4月29日の「昭和の日」、すなわち天皇裕仁の誕生日です。そして秋が11月3日の睦仁天皇の誕生日。いずれも「天皇誕生日」です。
もともと叙勲制度は、明治政府によって天皇制中央集権国家づくりのために作られた制度です。
「明治維新を受けて伊藤博文が近代国家の中央集権体制を確立するために『華族制度』とともに『栄典(叙勲)制度』を創設する。1875年(明治8年)に制度化され、翌年に大勲位菊花大綬章が生まれ、1890年までに…体制ができた」(大薗友和著『勲章の内幕』現代教養文庫)
こうした意味を持つ「叙勲制度」は、敗戦によって停止されました。それを復活させたのは、岸信介の後をうけ、日米安保体制下で天皇制の復活・強化、天皇の政治利用を図った池田勇人でした。
「池田はまた、占領中に停止された叙勲を復活させた。…1963年以降、自民党の首脳は年に2回叙勲者の名簿を作成して天皇に提出するようになった。…国民の自民党支持をうながす役割を持ち…天皇制の新しい利用法であった」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇 下』講談社学術文庫)
叙勲制度の中でも特別なのが文化勲章です。文化勲章が創設されたのは1937年。帝国日本が中国侵略戦争を起こした年で、裕仁天皇時代につくられた唯一の勲章です。それだけに裕仁の思い入れは強く、勲章のデザインも裕仁の意向で決められました。それは天皇家ゆかりの橘に「三種の神器」の1つ、勾玉(まがたま)を三つ巴にした図柄です。
ノーベル賞受賞者は文化勲章も受賞するのが通例です。しかし、大江健三郎(1994年文学賞受賞)は辞退しました。敬愛する「大岡昇平さんなら…」と。
そのことを知った作家の城山三郎はこう言って大江を支持しました。
「文化勲章は、政府、文部省といった国家権力による『査定機関』となっている。言論・表現の仕事に携わるものは、いつも権力に対して距離を置くべきだ」(1994年10月15日付朝日新聞夕刊)
作家の辻井喬(本名・堤清二)も褒章を断りました。「それが昭和天皇の国事行為として行われることが大きな理由」(栗原俊雄著『勲章』岩波新書)でした。
辻井はこう言っています。「戦争でいったいどれほど多くの人が亡くなったか。昭和は、敗戦とともに終わるべきだった。昭和天皇は退位すべきだった? そうです」(同)
天皇が代替わりしても褒章は受けないのかと聞かれた辻井は、「『うーん』とうなり、数秒考えて答えた。『自分の国でも、時には批判しなければならないこともあります。でも勲章をもらったらできない。批判する自由は持っていたいですから』」(同)。
こうした気骨ある、真の文化・知識人が、はたして今、どれほどいるでしょうか。
年中行事化し、メディアがこぞって賛美する叙勲・文化勲章が、”天皇の権威”を高め、それを政治利用するツールであることを銘記する必要があります。