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毎木曜掲載・第139回(2019/12/26)

もう一つの国境政策の可能性

森千香子、エレン・ルバイ編『国境政策のパラドクス』(勁草書房、2014)/評者:菊池恵介

21世紀は、国際移民の時代だと言われる。たしかに世界を見渡すと、国際移動はいたるところで簡素化され、先進国のパスポートを持っていれば、世界の大半の国々に自由に渡航することができる。ただ問題は、このように移動の自由を保障されているのが、世界の一部の人々に限られていることだ。「地球人口の三分の一が世界中をすばやく自由に行き来する手段を持っているのに対して、残りの三分の二には自由に移動する権利が認められていない。このようなパラドクスを体現するのが、海や砂漠を横断して放浪を続ける非正規移民の姿である」(49頁)。国境政策をめぐる日仏の共同研究の成果として2014年に刊行された本書は、ヨーロッパと日本の国境政策の矛盾を明らかにすることで、もう一つの国境政策の可能性を探る。以下では、ヨーロッパの国境政策の現状を論じた5つの章に即して、本書の問題提起を確認していく。

 第二次大戦後のヨーロッパは、旧植民地から大量の移民労働者を導入し、戦後復興を図ってきた。ところが、オイルショックを契機に高度成長期が終焉し、慢性的な不況と失業の時代に突入すると、一転して移民の受け入れを停止し、国境警備の強化や不法移民の取り締まりに力を注ぐようになった。こうして1990年代以降、東欧や北アフリカへの国境管理のアウトソーシングが進むとともに、「非正規滞在者の再入国に関する協定」の締結により、欧州で検挙された非正規滞在者を大量に送還するシステムが整備された(第3章「再入国協定とは何か」)。また、2000年代には「欧州域外国境管理協力機構(FRONTEX)」が発足し、トランスナショナルな国境警備のシステムが構築されると同時に、国境管理のハイテク化、壁や収容所の建設などが進められていった(第5章「国境概念の変化と監視体制の進化」)。その結果、国境地帯の「軍事化」が進行し、EUの玄関口である地中海では毎年大勢の密航者が命を落とすようになった。2015年にはシリア内戦を背景に3000人以上の人々が溺死したが、それも世界規模で展開されている「対移民戦争」の一端に過ぎない(第1章「現在おきているのは構造的な《対移民戦争》である)。

 これらの膨大な犠牲にも拘わらず、現在の閉鎖的な国境政策が人々に広く支持されているのはなぜか。その背景には、国境政策に関する一連の「通説」があると本書は指摘する。すなわち、南北間に大きな経済格差がある以上、国境管理を緩和すれば、「津波」のように途上国の人々が押し寄せてくる。そうなれば、失業率は爆発し、社会保障制度が破綻するなど、先進国は大混乱に陥るだろう。したがって、移民に門戸を開くよりも、むしろ開発援助を優先するべきだ――このような「通説」が、政治やメディアを通じて世論に浸透することで、厳しい国境管理が「必要悪」として正当化されているのだ。だが問題は、これらの言説にどれだけ妥当性があるのかが検証されていない点である。

 一般に途上国からの移民の動機は、貧困などの経済的要因に還元されがちである。だが、実際の移住プロセスは、生活環境、将来への展望、移民ネットワークの存在など、非経済的な要因にも大きく依存しており、地域間に経済格差があれば、自動的に生じるわけではない。たとえば、1980年代にギリシャ、スペイン、ポルトガルが欧州経済共同体(EEC)に加盟した際や、2004年に東欧10か国が一挙にEUに加盟した際、大規模な人口移動の発生が懸念されたが、実際、そのような事態には至らなかった。逆に、1973年のオイルショック後、欧州諸国が新規移民の受け入れを停止したことで、出稼ぎ労働者の定住化と家族の呼び寄せに拍車がかかり、むしろ移民が増大したケースもある。いずれにせよ、国境政策を緩和すれば、ただちに移民が津波のように押し寄せてくるとは考えられない。

 また、「移民は財政的に負担だ」とする見解に関しても、近年数多くの反証が行われている。たとえば、政治やメディアにおいては、移民の失業率や社会保障の給付額ばかりがクローズアップされるが、「近年ヨーロッパで行われている調査によれば、移民が支払う保険料の総額は彼らが受け取る給付額を大きく上回っている」との結果が示されている。むしろ、少子高齢化の進展により、もはや移民の導入なしには社会保障が維持できなくなりつつあるのがヨーロッパの実情である。

 さらに、「移民の受け入れよりも開発援助を優先するべきだ」という主張も、じつはあまり整合性をもたない。なぜなら、開発援助によって途上国の近代化が進むと、移民の流れは(少なくとも短期的・中期的には)増大する傾向があるからである。実際、IMFや世界銀行の構造調整プログラムを通じて貿易自由化が進められた結果、途上国の農村経済は解体し、大都市のスラムを経由して、北米やヨーロッパへと移住する人びとが大幅に増えた。これらの事例からも、開発援助を移民の防止策として位置づけることはナンセンスであることが伺えるだろう。むしろ、現代の移民研究では「人口移動はある国の発展をうながす要因だとの考え方が主流」になってきている。実際、移民たちは家族への仕送りを通じて出身国の経済発展を後押しするだけではなく、外国で多くの知識や技能を身に付けることにより、出身国の文化や政治の近代化を促すこともある。いずれにせよ、人口移動と経済発展は二律背反の関係ではなく、むしろ随伴する関係にあると考えられるのである。

 現代の国境政策を憂慮する難民支援団体や人権団体に対して、しばしば厳格な国境管理を「必要悪」とする現実主義の認識が対置されてきた。だがその拠り所となる「通説」を検討していくと、必ずしも根拠のない不安や恐れに基づいていることが少なくない。そこで、もしそれらを取り除くことができれば、人道主義の理想と現実を両立させる、もう一つの国境政策を定立する可能性が拓けてくるだろう。果たして「国境閉鎖は現実的な選択か?」(第二章)。現代の国境政策の土台をラディカルに問い直す本書は、移動の自由を保障する新たな人権レジームへの筋道を示している。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。


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