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つながれ、命と祈り〜横浜で「3.10東日本大震災かながわ追悼の夕べ」開催

                                 西中誠一郎

3.11東日本大震災の前日、横浜市関内駅前の公園で「3.10東日本大震災かながわ追悼の夕べ」が開催された。震災と原発事故により神奈川県内には2390人の避難者が在住している(復興庁2014年1月28日現在)。

3年の月日をへて、ようやくわたしたちは 失われたもの奪われたものたちに向き合おうと思います。そして3.11によって失われ奪われた あらゆる「いのち」と「ふるさと」に、祈りを捧げる場を開きます。神奈川に避難してきた方々と、とうほくにつながろうとするかながわの人々が ともに開く追悼の場です。(「3.10東日本大震災かながわ追悼の夕べ」チラシより)

3月10日の昼間には、神奈川県はじめ関東地方に避難している福島原発事故被害者12世帯27人が、国と東電を相手に損害賠償請求訴訟を横浜地裁に提訴した(第一次提訴17世帯44人 第二次提訴6世帯22人)。裁判の原告や支援会、神奈川県内で震災や原発事故による避難者の支援活動に関わる市民団体、福島県内で放射能測定を続ける市民団体などが呼びかけ団体となり、「追悼の夕べ」実行委員会を立ち上げた。

夕方、横浜の海に程近い公園には寒風が吹きつけ凍えるようだったが、多くの市民が手にロウソクの灯火を掲げて祈りの場に参加した。

「私たちは震災、原発事故から3年目をむかえようとしています。轟音と一緒に流されてしまった多くの命、震災関連死、未だに収束していない福島原発。私たちはこの辛い現実に向き合い、前に向かって歩んで行かなくてはなりません。家族や仲間たちの会話、町並み、これまで積み上げてきた先祖からの歴史、色々な思い出、失ってもなお心に鮮明に故郷を忘れまいと今宵祈りを捧げる場を開きます」。福島県双葉町から横浜市に避難している山本敦子さんが司会をつとめ、開会を告げた。

実行委員長の坂本健さんは富岡町から家族で横浜市に避難した。避難生活が長引くにつれ、「強制避難」「自主避難」の区域別による原発事故被害者間の分断が、神奈川県下の避難者の間でも広がっていった。震災•原発事故から1年半が経った頃、皆でまとまって少しでも避難生活を改善していこうという目的で、坂本さんたちは「避難•支援ネットかながわ」を立ち上げた。

「3年の時間経過の中で、ひとりまたひとりという風に命が奪われていきます。原発事故がなければこのような状況にはなっていなかったはずです。原発事故による事実、今起きている事、避難者が置かれている状況、そういったものに皆さんが、私も含めて、向き合って、自分の家族が同じ状況におかれたらどうなるのだろう、そしてその時間を見過ごしてしまっている日本の形、日本社会の成り立ち、その根底に横たわっているもの、そこを直視してそれに思いを馳せて、はじめて亡くなった方々への追悼の思いというのが出来上がっていくのではないかと思います。

私たちは私たちのみではなくて、私たちの子ども、そして次の世代にこの日本を引き継いでいかなくてはならないと思います。私自身、避難者という立場で、何ができるのか考えていきたい。皆さんと一緒に追悼の思いを、そしてこれからの子ども達のこと、心の中で考える時間を共有したいと思います」。

坂本さんは一言一言噛み締めるように語り、横浜から東北に繋がる海に向かって黙祷を捧げた。

続いて、大玉村から母子で相模原市内に避難している鹿目(かのめ)久美さんが語った。

「震災前、私は普通の主婦でした。避難して最初の2年は人前で語るようなことや、反原発の集会に参加するようなこともありませんでした。デモに参加している人たちとの温度差をどうやって埋めようかと過ごしてきました。

 関内は転機を与えてくれた場所です。関内で始めて反原発のイベントに参加し、自分の体験を人前で話ました。それで私の考えも変わりました。もっと福島の声を聞きたいという人がいる。今福島にいるお母さんの思い、避難したくてもできない人たちの複雑な思い、それを語ってきたつもりです。それが残された人のためになっているのかどうか、私にも分かりません。3年目の節目に私たちが話すことで少しでも心を寄せてくれる人たちが増えたら、きっとこの先、何か大きな流れがくるのではないか、あきらめないで続けていこうと思います。

 私の娘は今小学校1年生です。当時4歳だった娘に大きなリスクを背負わせてしまったと考えています。私はこれから先の希望である子ども達の未来が少しでも明るくなるように、力を注いでいこうと思います。しかし私ひとりの力ではどうにもなりません。ここに集まったひとりひとりが手をつなぎ、それが大きな流れとなって、いつか皆が笑顔でいられる世の中になるように、強く強く願っています」。

鹿目さんは、現在、春・夏・冬休みに福島の親子を招いて、約1週間の保養キャンプを行う「母ちゃんず」の活動に精力的に関わっている。

追悼集会はウクライナ出身のカテリーナさんが演奏する民族楽器バンドウ―ラと歌声で、深い祈りの時に包まれた。カテリーナさんはチェルノブイリ原発の労働者の街、プリピャーチで1986年に生まれた。父親は原発事故後も原発労働者として働いたが、一昨年、放射能被曝が原因とみられる複数のガンで亡くなった。カテリーナさんは幼少からウクライナの民族楽器バンドウーラに触れ、演奏と歌唱法の手ほどきをうけてきた。チェルノブイリの子どもたちの音楽グループで活動し、10歳の時日本公演で初来日、16歳から声楽やバンドウーラを本格的に学んだ後、2008年に音楽活動の拠点を東京に移すため再来日した。現在、日本全国で精力的に演奏活動を続けている。日本で活躍するバンドウーラ奏者は2人しかいない。カテリーナさんと姉のナターシャさんだ。

 「私はチェルノブイリ原発から3.5キロしか離れていない街で生まれました。生まれてすぐに故郷から離れなくてはならなくなりました。残念ながら今、戻れない街になりました。キエフに避難して学校に通いました。学校の友達はキエフで生まれた子どもたちが多かったですが、私のように原発の街で生まれた子どもたちも沢山いました。残念ながら私たちは学校でずっといじめられました。なんとかそれを乗り越えて勉強して卒業して、あるきっかけで日本に来て、日本で音楽活動ができて、それは凄く嬉しかった。結婚して子どもも生まれました。故郷から遠く離れた日本に家族ができました。私のパパとママはずっと私たちの健康のことを心配していました。

 チェルノブイリ原発事故から25年以上が経ちましたが、日本でも同じ事故が起きてしまった。今度は私が、私のパパとママのように自分の子どもを守らないといけないですね。まさか自分の人生で2度も原発事故に遭うとは思いませんでした。私は原発で一番大切な人を失いました。そして今、同じウクライナで再び大変なことがおきています。昨年末から何も悪い事をしていない人が大勢亡くなりました。どうして世界で毎回こんな大変なことが起きるのか?
 私の人生で一番大切な人、私は音楽で歌で、平和のこと将来の子どもたちのこと、祈りたいです」。

 ウクライナ民謡「金色の花」「静かな水」や「アヴェマリア」、「ハナミズキ」「見上げてごらん夜の星を」計5曲が寒空の下で演奏された。63本の弦が奏でるバンドウ―ラの繊細なアルペジオの響きに導かれて、透明で優しい祈りの歌声があたり一面に広がり、夜空に吸い込まれていった。

【参照サイト】
「3.10東日本大震災かながわ追悼の夕べ」チラシ
http://kanagawagenpatsu.bengodan.jp/wp-content/uploads/2014/01/20140310.pdf
Hsink「避難•支援ネットかながわ」
http://hinansien-netkanagawa.org/
「福島原発被害者支援かながわ弁護団」
http://kanagawagenpatsu.bengodan.jp/
「母ちゃんず〜子どもの未来を守りたい」
http://karchanz.jimdo.com/
「KATERYNA」
http://www.kateryna-music.jp/profile.html


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