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100年前と「同じ」女性労働者の話を聞いて下さい[3・8 100周年]闘争して幸せな彼女たちの話
イ・コンマム記者
iliberty@jinbo.net / 2008年03月06日14時34分
100年前、40年前、30年前そして現在「われわれは労働者だ」 100年たった。1908年、米国の紡織工場の女性たちが「賃金を上げろ」、「労働 組合を結成する自由をくれ」と叫びながら街頭に出てちょうど100年たった。 1976年、トンイル紡績で働いていた女性労働者たちが「労働組合活動を保証し ろ」と叫んで街に出てから40年が過ぎた。そして1985年、九老で働いていた女 性たちが、連帯の名で「労働三権保証しろ」、「労働組合活動を保証しろ」と 叫び、ストライキをして30年が過ぎた。 時間はさまざまに流れたが、2008年、女性たちは再び「労働組合活動を保証し ろ」、「賃金を上げろ」、「安定した雇用を保証しろ」というシュプレヒコー ルをあげ、通りへ、通りへと出ている。何も変わっていない。 彼女たちはただ、100年前にはなかった『非正規職』という新しい服を着て働い ているだけだ。彼女たちは相変らずトイレにも行くことができず、昼休みにゆっ くり食事を食べることもできない労働条件で働いている。3月5日午後に開かれた 『非正規職女性労働者と一緒にする話の広場』で彼女たちの話を聞いた。
トイレも行けないで、ご飯も食べられずに働く彼女たちの話 「一週間で5万ウォンを受け取ります。それで毎日昼食を買って食べるとお金が 残りませんよね。ですから出勤するときは一週間分のご飯を紙コップに分けて 入れていきます。それを冷凍室に入れて毎日一つずつ暖めます。すぐ行って患 者を世話しなければならないので、おかずもありません。ただキムチだけで食 べるんです。食べる場所もよくありません。配膳室というのですが患者保護者 たちもきて休む所があります。そこに座って食べます。ところがすぐに患者の 保護者から苦情が入ってきます。介護人が席をあけてくれないというのです。 問題提起ですか? 毎年契約するのに苦情が多いと、病院は再契約をしません。 患者の保護者たちの顔色を見るほかはありません」
介護人として働くチョン・グムジャ氏は、今日も患者の保護者からの苦情で 大変だった。 それでも座ってご飯を食べられるというのは「私よりちょっといいじゃないで すか」と保育労働者のイ・スル氏が口を開く。 「子供たちは12時から昼食を食べるのですが、私たちも子供たちと共にご飯を 食べます。突然ウンウンしたいという子供たちがいて、食べたくないおかずが 出てきたと投げてしまう子供たち、その上吐いてしまう子供たちもいます。初 めて仕事を始めた時はこうした状況でご飯が食べられませんでした。今はいつ また食べられるかと思って、口にぎっしり食べ物を入れてかみながら、子供た ちの便も拭いてやり、吐いたものも片づけます。院長先生は、先生の昼食費が 千ウォンに決っているので、それだけ食べればいいと言います」 トイレの問題といえば、ニューコア-イーランド女性非正規職労働者の話は欠 かせない。 「初めて販売スタンドに立った時は、トイレに行きたければそのまま閉めて行 きました。幸い運良く問題になりませんでした。私の横にいた先輩は、膀胱が 良くありませんでした。女たちは子供を産んで年を取れば、膀胱が悪くなりま すよね。その先輩の顔を思うと、今でも涙が出てきます。その先輩は、とても つらくてトイレに行ったところ、そばにいた正職員がお客さんたちがいるとこ ろで、なぜ今トイレに行くのか、少し我慢しろと面と向かって非難したのです。 先輩はとても恥ずかしくて、そのまま出て行ってしまいました。一日中トイレ にも行けず、脚には血筋が浮いて...」ニューコア江南店で働いたイ・インスク 氏の目には静かに涙が溜まった。 「私は、子供用の便器があるでしょう。それを利用します」イ・スル氏がまた 話し始める。「保育教師たちはまだ若いからか、出勤する時、一度、退勤する 時、一度、トイレに行って終わらせます」。大人用のトイレがある保育施設は 30%に過ぎないという。 「私はお金だけ皆持って、近くにあるトイレに行きます」。瑞草区で露店をし ているというパク・トゥソン氏が口を開いた。「露天商が露店を出す時、一番 最初に見るのはどこにトイレがあるかだと思いますよ」。誰が物を持って行く のではないかという心配に、パク・トゥソン氏は「それでも暮せる世の中なん です。私がいない時、お客さんがくれば勝手に取って行って、必ずお金を置い て行ってくれました」と口元に微笑みを見せる。 男子を補助するために金を稼ぐ? トイレにも自由に行けず、空腹は日常茶飯事なのになぜ彼女たちは働くために 街に出るのだろうか。ある人は、最近はとても物価が高く、男一人が稼ぐ金で は暮せないので、女がおかず代程は稼がなければならないのではないかと言い、 子供たちの塾の費用を稼ぎにくるのではないかとも話す。だが彼女たちの話は 違う。
「最初は息子が野球をしていて、夫の月給では子供を教育させられなかったん です。それでお金を稼ぎ始めたのですが、お父さんが突然大きな病に罹り、私 がすべての責任を負わなければならなくなりました」イ・インスク氏の場合だ。 「夫が病気で働けなくなりました。それで働き始めました。最初は、ドイツに 看護婦に行こうとしました。前にそんなことがあったじゃないですか。それで 看護の勉強をしたのですが結局行けなかったんです。とにかく夫が病気なので、 以前勉強したので介護人になりました」チョン・グムジャ氏の話だ。 「私の家には娘だけ五人です。私が自分で稼いで暮さなくてはいけなかったん です」。キリュン電子で働いたチェ・ウミ氏だ。 彼女たちはおかず代を稼ぎに出てきたのでもなかったし、子供たち塾の費用だ け稼ぐために出てきたのでもなかった。ところが世の中は女性が働くのはただ 夫を『補助』するためで、賃金が低いのは当然と感じる。だが彼女たちは全て 自分の人生に、家族の人生に責任を負う労働者だった。これを政府は『仕事・ 家族の両立』という素晴らしい言葉で装っている。ただ女性を低賃金で、非正 規職に追い出すことなのに。 「声も出せなかった彼女たち」が世の中と戦う 彼女たちは戦う労働者だ。低い賃金を当然と思い、非正規職でも雇用があるこ とに感謝しなければならない世の中に対抗して、安定した雇用を要求して、働 いただけの金を受け取り、不合理な労働条件には「これは違う」と怒鳴る女性 労働者たちだ。 「管理所長は軍人出身でした。そのためか毎日集合をさせます。あいつの集合。 きっちり列を作って立たなければなりませんでした。そうして3年働いて、これ ではだめだと思いました。それで労働組合をと考えました。一人ずつ出て行き ました。労働組合を作ると学校が知ると大変なことになるでしょう。それで口 が一番固い人から一人ずつ会いました。雨の降る日に傘をさして、道端で会っ て... 管理所長に組織の苦い味を見せてあげたかったです(笑い)。総学生会と も会い、民主労総とも会い、印刷物も回して、集会もしていたら、私が学校で 一番の有名人になっていました。そして3日後に管理所長が出て行きました。わ れわれは完勝続きです。今は集合もなく、契約書の通り、時間もきっちり合わ せて働いて、昼休みもきちんと取り...」徳星女子大で清掃員労組を作ったハン・ ウォンスン氏の武勇談だ。 話を聞いていた人から拍手と歓呼が出てきた。
「同じラインにいた先輩が、ちょっと廊下に出ろと。私は何か間違ったかと思っ てもじもじと出て行ったら、その先輩が労組を作ってみないかと言いしました。 前、一緒に働いていた先輩たちは、出産休暇も使えず、子供の卒業式にも行け ず、法事にも行けないと言っていました。それで私は一緒にやりますといいま した。2005年7月5日、分会長がラインに上がって扇動し、私は門の前で管理者 が入るのを防ぐ役でした。とても震えて... 幸い管理者たちは入ってきません でした」。3年以上闘っていても、チェ・ウミ氏の声では力と意志に満ちていた。 彼女たちが戦いに出て変わったのは、労働条件だけではなかった。彼女たちは 堂々とした女性、お母さん、妻になった。間違いは間違いだと言える勇気が彼 女たちに与えられた。そして彼女たちは子供たちもそんな気持を持って世の中 を生きていくように願う。 「私が嫁ぎ先のおじいさん、おばあさんに舅姑をすべて見守って生きてきまし た。家に問題が起きれば女は静かにしているのが当然のことでした。でも労組 活動を始めてから、悪いことはしていないと怒鳴れるようになりました。黙っ ているのではなく、私が言いたいことを言い始めたのでしょう。前と比べれば、 心に凝りがありません。とても気楽です。昨年5月5日、子供に贈り物も買えず にとても申し訳なくて、労組の事務室に連れてきました。人々の動きや話を聞 いて、子供が自分の学校でも学級会議をするときにいろんな意見が出てくれば、 その話をよく集めて、良い方向にしようとしますが、イーランドはそうしない みたいだと言って、お母さんが最後まで戦ってぜひ勝ってほしいといいました。 どれほど窮屈だったのか...」 イ・インスク氏が今は好きなように「怒鳴る」という言葉にチョン・グムジャ 氏が相槌を打つ。「女は声も出せず、家では子どもでも育てて婚家暮らしでも して暮すものだと思っていました。家庭が苦しくなって私が金を稼ぎ始めると、 むしろ今は夫が声も出せません(笑い)。そして始めた労組活動、労働運動は、 私の一生で一番貴重なことです。とても楽しくなって、生活に張りがあるとす れば、これではないかと思います。女と家にだけいてはいけません。ばりばり 飛び回らなければなりません」 「闘争ができて幸せです」 武勇談を打ち明けたハン・ウォンスン氏も「労組活動をして、外部の会議にも 行ってみて、今では自分の問題だけでないと思います。いくつかの事業場で戦 うのでなく、政府を相手に戦わなければならないようです。そしてこの仕事は 私だけの仕事ではなく、子供たちの仕事、子供たちの未来のためでです。今、 子供たちは非正規職でなければ就職できないでしょう。だから私が戦うことが もっと意味があるのだと思います」と付け加えた。 女性たちが働き、労組を作り、闘争をするのは、男たちのそれとは大いに違う。 『補助』から『主体』になる過程だからだろうか。世の中の人々が最良の女性 像という『賢母良妻』を破り、言うことを言い、やりたくないことはいやだと 言う『気が強い女』に変わる過程だからだろうか。だがこのすべての過程は、 彼女たちが『堂々と』するための過程だ。全て自身の人生を自ら責任を持ち、 作っていくための苦闘である。 彼女たちは口を揃えて言う。「私は闘争して、とても幸せです」 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2008-03-08 02:02:26 / Last modified on 2008-03-08 02:02:27 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ |