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太田昌国のコラム : 新しい「帝国」の時代の只中で | ||||||
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新しい「帝国」の時代の只中で「映像による帝国主義論」を構築しようと志していた映画集団があった。1960年代末から70年代後半にかけてのボリビアのウカマウ集団、監督はホルヘ・サンヒネスである。当時、ボリビアは世界的な焦点のひとつの場所だった。何よりも、あのチェ・ゲバラが同国に潜入し、民族解放ゲリラ軍の指揮を取っていたことが明らかになった。1967年10月、政府軍との戦闘で彼が負傷し、捕らえられ、裁判も経ずに即銃殺されてはじめて公にわかったことだ。ゲバラが所持していた野戦日記を含めて、ボリビア政府は価値ある遺留品を手にしていた。だが、政府内部で内紛が起こり、厳重保管されていたゲバラ日記の複写コピーを内相がキューバ政府に渡した。ゲバラの死からわずか9ヶ月後の1968年7月、キューバは『ゲバラ日記』を刊行した。世界各国でその翻訳がすぐ発行され、とりわけ日本ではその後ほぼ一年のうちに5種類の翻訳本が発行された。この「騒動」の中で、海への出口を持たないアンデスの小国・ボリビアは思いがけないことに、世界的な注目を浴びたのである。 すでに短編2作、長篇2作を作っていたボリビアのホルヘ・サンヒネス監督とウカマウ集団は、ゲバラの死後4年めの1971年に『人民の勇気』を制作した。反政府ゲリラがボリビア南東部で闘争を開始しているが、それを指揮しているのはあのゲバラらしい……という「噂」も飛び交い始めていた。それを知った鉱山労働者が鉱山内でゲリラへの連帯集会を開き、1日分の労賃と医薬品をゲリラ隊に送る決議をした。さらに都市の労働者や学生も加わって鉱山内で拡大労働者会議を開き、ゲリラ隊に参加する仲間を送るなどのさらなる支援を拡大しようとしていた。それを事前に察知した政府が鉱山住宅地に軍隊を派遣し、鉱山労働者組合の指導者など70人有余を虐殺した。ゲリラと外部の連帯は未然に絶たれてしまった。この一連の事の経緯を、現場に居合わせた人びとへのインタビューによって再構成したセミ・ドキュメンタリ―映画である。 その同じ年、サンヒネス監督はボリビアに軍事クーデタが起こったため、前年に社会主義政権が成立していたチリに亡命、だがそのチリでも1973年に米国CIAの支援を受けた軍事クーデタが起こり、アンデスを越えてペルーに亡命した。1974年そのペルーで、同国映画人の協働を得て『第一の敵』を制作。これは、地主の横暴に苦しむアンデスの先住民貧農の反地主運動と、都会からやってきた反政府ゲリラの共同闘争の過程と挫折を描く作品だった。フィクションではあるが、それは、7年前にボリビアで戦われたゲバラたちの闘争はもとより、1960年代ペルーでのゲリラ運動の敗北の理由をも対象化しようとする作品として成立した。これらの2作品は、当時のラテンアメリカ諸国にあっては、国内政府の政治路線は北の超大国=米国の思い通りに操られていること、その事実を米軍の軍事顧問団の存在を通して描いた。いわば、帝国主義の軍事の貌を暴いたといえる。 それらに先立つ『コンドルの血』(1969年)では、「低開発国援助」の名の下で行われている米国「平和部隊」の医療チームが、来たるべき地球規模の食糧危機を引き起こしかねない人口爆発を自己抑制する知恵を持たないとしてアンデス先住民を危険視し、若い女性たちに強制的な不妊手術を施している現実を描いた。帝国主義の医療援助なるものの本質を暴露したこの映画の反響の大きさゆえに、1970年前後のボリビア/ペルー両政府は、「平和部隊」を国外追放処分にせざるを得なかった。 『第一の敵』の制作後、ペルー政権の右傾化によってエクアドルへ逃れたサンヒネス監督は、同国の大学と映画人の協力を得て、『ここから出ていけ!』を制作した(1977年)。そこでは、医療援助の仮面を剥がされて国外追放された帝国の連中が、今度は新興宗教の布教者になりすましてアンデス農村部に入り込み、その宗教に帰依するか否かをめぐって先住民共同体内部に亀裂を持ち込み、その隙を縫って、鉱山開発を狙う多国籍企業が入り込む過程を描いた。宗教の外皮をまとって異世界に入り込んだ連中が、実は多国籍企業の尖兵であったという貌を描いたのである。 このように、1969年から1977年にかけての8年間、ウカマウ/ホルヘ・サンヒネスは、軍事クーデタに追われるようにしてアンデス各国を転々としながら、志通りに「映像による帝国主義論」を展開していた。その真只中の1975年、私はエクアドルで、彼らの映画および人物そのものに出会い、彼らの映画理論とその実践に大いに心を動かされた。それ以来50年、世界情勢も、ラテンアメリカの状況も、大きな変貌を遂げた。ウカマウの映画実践も、時代状況に呼応する形で、小さな、あるいは大きな変貌を経験しつつある。 ただひとつ言えることは、あの世界同時的な激動の時代であった1960年〜70年代に制作されたウカマウの上記4作品は、帝国主義の多面的な相貌を描いたものとして、時代の証言たり得ている、ということだろう。 「アメリカ・ファースト」を呼号する米国であれ、ヨーロッパ中心主義を決して手放すことのないEU圏諸国であれ、そしてアジア唯一の植民地帝国であった日本であれ、それらの内部に生きる者は、どんな表現形式を取ろうとも、内部からの「帝国主義論」を持たなければならないのだろう。大国の為政者たちから、信じがたい「帝国然」とした言葉が繰り出される時代状況の中で、改めてそのことを思う。 【追記】先月はまったく時間が取れず、本コラムを休みました。お詫びします。今回の記事は、来る4月、東京で開催する「ウカマウ集団60年の全軌跡」の企画に関わるものでもあります。東京以外でも、各地のミニシアターとの相談を重ねています。情報は、下記からお取り下さい。↓ https://www.jca.apc.org/gendai/ukamau/ Created by staff01. Last modified on 2025-03-11 19:20:21 Copyright: Default |