本文の先頭へ
LNJ Logo 韓国:ある未登録移住労働者の話(2)
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 1220110358636St...
Status: published
View


16年間留まった韓国を離れながら:移住労働者運動に出る [寄稿]ある未登録移住労働者の話(2)

セケル アフメド、シャキル(移住労組)/ 2008年08月28日10時35分

ソウル京仁移住労組(MTU)前委員長職務代行だった移住労働者のシャキル氏が、 16年間の韓国生活を終わらせて8月26日、バングラデシュに帰った。

1992年に韓国に来て以来、とても苦労して1998年に労働災害を受け、長期間の 治療を受けた。労災療養の後、2006年に勤労福祉公団に職業訓練費用を申請し たが、勤労福祉公団は外国人は対象ではないと棄却した。そのため彼は訴訟を 提起、大法院で今年の3月に訴訟が棄却されると、憲法訴訟も起こしている。

韓国で移住労働者として困難な暮らしをし、自然に移住労働者全体の境遇に目 が向いた。移住労働者運動に参加して、次第に活動家になったシャキル氏は、 2005年に移住労組設立直後に初代アヌワル委員長が標的摘発された時、職務代 行を担当し、委員長の釈放と労組死守活動に献身した。今も移住労組組合員と して、活動家としての役割を果たしてきた。

しかし民主労総をはじめとする移住運動陣営が法務部との面談もして、各界の 要人による数百通の嘆願書も、法務部では憲法訴訟期間の滞留を保証しないと して出国を命令、シャキル氏は熟慮の末、帰国を決定した。20代の青年が40代 の中年になって帰る心境をすべて盛り込むことはできないが、移住労働者運動 で重要な役割を担った活動家についての最低限の記録でも残したいという思い で、緊急にインタビューを行った。

この文は二回目の文だ。

整理:チョン・ヨンソプ(ソウル京仁移住労組事務次長)

3. 移住労働者運動を始める

悩みは以前からあったが、どこから始めればいいのかよくわからない。韓国に きて、多くの抑圧も受け、会社でも無視され、殴られ、非難され、賃金もきち んと受け取れなかった。君の国に家はあるのか、飯はあるのか、眠らせて食べ させてやるのになぜ賃金が必要か... とてもひどい状況で、1週間か1か月後に 帰る友人もいた。バスに乗って行くと乗せたくない、おりろという運転手もい たし、地下鉄に乗ると臭いと言われ、横に座ろうとしない人々もいた。

当時、バングラの食べ物や店が梨泰院にあって、1か月一回程行った。そこには バングラやパキスタンの人が集まる。そこには、指がなかったり、手首がなかっ たり、腕がない人もいて、労災や補償も受けられなかった。休むこともできず、 あまりにもつらいとき、韓国の同僚の職員からタバコを押し付けられた人もい た。移住労働者が入ってきた草創期で、産業研修生として入ってきた人々とも よく会った。食事もきちんと食べられず、賃金18万ウォン程度で午前1-2時まで 働いた。光明ソンエ病院に一度行ったところ、移住労働者の患者は30%を越えて いた。

そんな状況でじっとしていてはいけないと考えた。初めはセンターを通じて参 加した。外労協の集会にも参加した。95年にはネパールやバングラの人が明洞 聖堂で座り込みをした時、座込み場を訪問したりもした。

平等労組移住支部を準備する前に活動家と知りあった。その時あるバングラの 労働者が、指を切断したが会社は何もしなかった。その人が私に連絡し、相談 のためにシャロームの家に一緒に行ってソニャと会った。そして議政府にある 相談所に行って治療を受け、労災を申請することになった。議政府勤労福祉公 団では、担当者がうまく処理をしてくれて、労災を受けることができた。外労 協とは違う運動を準備しているという話をソニャから聞き、一緒にやろうと提 案された。できる部分は一緒にやるといった。

その後、移住支部が結成されてイ・ユンジュ支部長、マヤ、ソニャなどとよく 通話をした。加入しろという勧誘もよく受けたが、加入せず地域で活動すると いった。その時は安養にいたが、組織を始め、安山にきても準備をした。明洞 聖堂の座り込み闘争に入る時も、一緒に座り込みをしようと提案されたが、体 調が悪く、寒くて、腰が再発するかもしれず、一緒にはできなかったが時々訪 問して、主に集会に参加した。ウズベキスタンの仲間1人が捕まった時、集会も よくやった。その仲間は体調が悪く解放された。

座り込みをしながら移住労組の議論を始め、南部-安山、安養、水原、烏山な ど-、北部、ソウル、仁川郡の地域に分かれて企画団を設け、私が南部企画団 の代表を引き受けた。

初め移住支部に若干の拒否感があった。非組合員たちは集会や闘争には参加し ても、移住支部内部の対立が激しく、加入が憚かられるといった。特に韓国の 仲間たちが会議の時に主に話し、意見が対立するのが残念だった。

移住労組ができれば移住の仲間たちが主体になって、自ら活動できるようにな るかもしれないので加入しようと決心し、多くの仲間たちもそうだった。労組 を作った時、委員長に立候補しろと多くの勧誘があった。キム・ヒョク同志、 アヌワル同志が訪ねてきて話した。移住支部活動をよくやっていたのでもなく、 座り込みに深く参加したわけでもないので難しいと言ったが、アヌワル同志が やるのなら他の職責を引き受けてもいいと言った。

2004年に母が亡くなり、家に帰る準備もしたのだが、座り込み団から2台のワゴ ン車に乗って仲間たちがきて、行かないでくれと言った。結局、委員長に立候 補せず、首席副委員長に立候補しろと提案され、そうすることになった。

アヌワル同志が捕まるかもしれないと思うことはあった。以前、シャマル同志 も捕まり、多くの仲間たちが目の前で捕まったので。それでもこんなに早く捕 まえられるとは思わなかった。職務代行を引き受けなければならなかった時は とても負担になった。

創立総会をしたが、実際には地域体系は何もなく、組織事業をしなければなら なかった。地域の仲間たちもたくさん捕った。アヌワルが捕まっても連絡もき ちんと受けられなかった。その当時、ソウル本部講堂などで生活していた。何 をすべきか、何ができるのか、とても悩んだ。誰かがちょっと力を貸してくれ なければならないが、あまりなかった。イ・サンフン組織次長がとても力を貸 してくれた。2005年5月から担当し、2006年6月2日総会の時まで職務代行をした。 その総会でアヌワル委員長、カジマン首席副委員長、マスム事務局長が選出さ れた。2007年2月にまた総会を開き、カジマン委員長、トルノ首席副委員長、ラ ジュ副委員長、マスム事務局長が選出された。

職務代行の時にはとても気が動転した。アヌワル釈放闘争もしなければならず、 雇用許可制反対闘争もしなければならなかった、支部、分会の組織化事業もし なければならなかった。よく地域に通い、人々が自分で何ができるのか、とて も悩んだ。組合員が恐がって、出てこられないので、最初の出発として明洞聖 堂の前で1人デモをしようといった。そして地域から支持訪問しようといった。 1か月少しやって、その成果を集めて集会をした。

アヌワル同志が捕まった後、明洞聖堂で初めての集会をしたのだ。それから強 制追放中断、未登録移住労働者全面合法化、アヌワル委員長釈放のための闘争 を進め、よく外部での集会もして、地域巡回もやった。ソウル、中部、南部、 北部支部を建設した。分会建設も始めた。安山、安養、烏山、議政府、東大門、 聖水など。ある程度、組織体系を備えて街頭に出たのだ。

雇用許可制1年集会を国会前でやった。国家人員委でアヌワル連行を合法と判定 され、調査が終るまで出国を禁止させろと言ったが、これを糾弾して長期拘禁 に反対して釈放を要求し、国家人権委前で1人デモを始めた。その後、占拠座り 込みに入った。2005年12月5日に占拠座り込みを始めて2006年1月20日頃に座り 込みを解いた。人権委に移住労働者問題をもっとよく考えさせる成果をあげた と思う。職務代行が終って、主に安山地域で活動を続けた。

4. 韓国政府の移住労働者政策に対して

92年に私が来たが、その後、私が見るに移住労働者に対するきちんとした政策 はなかった。6か月ずつのビザ延長、海外投資企業研修生制度、産業研修生制度、 雇用許可制しかないが、すべての制度が雇い主にあらゆる権限を与え、移住労 働者には何の権利も与えられなかった。

例えば産業研修生制度でも、海外投資企業研修生制度には、事業場変更の自由 がなかったし、職業を選択する権利もなかったが、雇用許可制度も全く同じだ。 事業場の移動の自由がなく、すべての権限を雇い主が持ち、1年ごとの契約延長 で3年間働けるが、雇い主が移住労働者を雇うと決定しなければ働けず、雇い主 に言われるまま働かなければならず、支払われるままの金を受け取る。

これまで、雇用許可制や研修生の相談をして感じたことは、ほとんどの事業場 が勤労基準法も守らず、最低賃金水準の金しか払わない。1年過ぎても2年過ぎ ても、最低賃金しか払わない。能力により、技術により賃金を多く払うわけで もなく、手当てもほとんど受け取れない。賞与金もなく、年数の差もない。残 業手当てを払うときも、夜間の仕事は夜間手当て払わなければならないが、き ちんと払われない。よくとてもくやしいという話を聞く。事業場移動の自由が なければ、そうした問題を雇い主に問い詰められない。

雇用許可制では3年間働き、1か月出て行けば、さらに2年間働けるというが、そ れも雇い主の必要による。労働者が労働したいからといって受け入れられるの ではない。これでは話にならない。だから人々が夜11時12時まで死ぬほど働く。 からだが悪くても休めず、土曜、日曜にも休まず、奴隷のように働く。こうし たことは制度的な問題から発生する。

新しく入ってくる労働者たちは、うまくコミュニケーションもできず、機械も よく知ずに、多くの労働災害にあう。韓国にきて、8日後で左腕を切断した人も 見た。3か月で右足の太股を切断した人も見た。韓国にきてからいくらも経たな い人々がよく怪我をするのだ。新しい制度が導入されれば労働環境や生活が良 くなるはずだが、全く良くなったものはない。片方では未登録移住労働者を無 慈悲に追い出し、他方では今年だけでも13万2千人も雇用許可制人材を入れると いう。政府は移住労働者が韓国労働者の雇用を奪うので摘発するというが、な ぜこれほど多く新しく入れるのか? 言葉と行動が合わない。

93年から私の知人たちが捕った。一般的には2003年11月から合同摘発が始まっ たと言われるが、初めから摘発は多かった。まだ23万の未登録移住労働者がい る。摘発だけでこの問題は解決できない。むしろ摘発により、多くの移住労働 者が摘発から逃れようとして怪我をしたり命を失ったり保護所の火災で死ぬ。 それで国内、国際的に批判が激しく、韓国のイメージが悪くなるだけだ。

摘発追放は移住労働者政策ではない。変えなければならない。多くの問題があ る雇用許可制度を早いうちに直すことで、移住労働者が労働者として認められ て人間らしく働いて暮せる。

政権が変わり、時間が過ぎ、移住労働者の歴史も20年になるが、まともな政策 がないのはとても残念だ。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳)に従います。


Created byStaff. Created on 2008-08-31 00:32:38 / Last modified on 2008-08-31 00:32:39 Copyright: Default

関連記事キーワード



このフォルダのファイル一覧上の階層へ
このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について