9年前、2000年10月11日に大田産業大学で韓国通信正規職労組(今のKT労働組合)の
臨時代議員大会が開かれた。この日、韓国通信労組は非正規職を組合加入対象
から除外するという規約改正案を通過させた。これで複数労組禁止条項によっ
て法外労組だった韓国通信契約職(韓通契約職)労組が合法労組になる道が開か
れた。解約通知を受けた非正規契約職労働者7千人は規約にある加入対象だが、
正規職労組は加入を拒否してきた。皮肉にも正規職労組が非正規職労働者を投
げ出して出したことで非正規職労組が生まれることができた。こうした韓国通
信契約職労組の誕生の過程は、近付く非正規職労働組合の運命を予告した。
2002年5月12日、大田の儒城ユースホステル講堂。517日間粘り強い闘争をした
韓国通信契約職組合員約160人は、涙で労組解散を決める総会をした。そこは韓
通契約職労組がホン・ジュンピョ委員長を選出して労働組合設立総会をした所
でもあった。
この日の総会で契約職労組は、517日間のストライキ闘争の結果として、最初で
最後の「労使合意書」を承認した。合意書には、請負業者就職斡旋とできるだ
け早いうちに法的手続きによる組合自主解散が含まれていた。517日間の木洞電
話局占拠闘争から非正規職闘争の全てを見せた韓国通信契約職労組は、韓国社
会に非正規職問題を話題に投じて解散した。
ホン・ジュンピョ前韓通契約職労組委員長は、相変らず正規職労組は本気で非
正規職の組織化をしていないと断固として話した。民主労総非正規職担当副委
員長をしたりもしたが、それで民主労総の限界を身に凍みて感じた。
1981年、ホン前委員長が初めての職場に選んだのは韓国電気通信公社(現KT)の
協力業者(請負業者)だった。彼が入社からおよそ3-4年ほどの83年頃は、電話加
入の絶頂期であった。電話機が電子式に変わる過程で途方もない物量が入り、
毎日夜明けに出て行って夜10時か11時に帰ってきた。電話一本開通すると、1件
当たり2200ウォン程度稼げるが、一日4-50件開通して歩いた。毎月およそ300万
ウォン金が手に入ってきた。
当時、公社の新規正規職の基本給が本当にいくらにもならなかった時で、あえ
て正規職になる必要はない時期だという。しかしそれから10年間、公社が韓国
通信に変わり、半分の民営化による構造調整で請負会社職員たちを直接雇用契
約職に変える。そして経済危機が来ると契約職労働者たちは賃金を96年頃には
88万ウォンまで削られる。処遇は悪くなり続けた。契約職労働者の不満は極に
達した。その不満は2000年度、契約職の集団的な労組組織につながった。しか
し正規職は彼らを組合員に受け入れなかった。そして契約職は全員解約通知を
受けとった。
当時、正規職労組が契約職を受け入れていればどうだったろうか? ホン前委員
長は「その時はADSLというインターネット網が初めてブームになった時だが、
それができる人員がいなかった」とし、「そんなことを担保にして正規職が契
約職人員と連帯していれば、その後多くの正規職名誉退職と整理解雇、アウト
ソーシングを労働組合の力で十分に防げた」と評価した。
正規職労組から疎外され、韓通契約職は517日間のストライキをするが、その結
果は労組の解散と請負業者への就業斡旋だった。すさまじい戦いだったが、ホ
ン前委員長はその闘争について「一言でタマゴで岩を打つような無謀な闘争だっ
たが、全力をつくしたかったし、自分も死ぬ覚悟をした」とし「もう負ける闘
いはしたくない」と述べた。彼は民主労総副委員長をして感じた非正規職組織
化の失敗に対する問題意識を率直に打ち明けた。
ホン前委員長は非正規職運動の展望を、現場組織活動家の養成と労働組合幹部
の現場復帰による非正規職の組織化に求めた。彼は「組織化する非正規職の現
場に対する詳しい内容を知り、打撃点を探し、彼らを組織する方式を作るべき
だが、民主労総はただ座ってスローガンだけ叫んでいる」と指摘し、「意識を
備えた組織活動家が、働く労働者とともにその業種で一つの塊になって動かな
ければ組織化はできない」と強調した。
彼は現代自動車労組を例にあげて「現代自動車は組織化の内容だけをみれば本
当に組織化しやすい」とし「一工場で別のユニフォームを着て1つのラインで働
くような組織だが、韓通契約職は全国の500近い電話局に配置される話すことも
できないような人々だった」と強い語調で話した。ホン前委員長は「民主労総
の柱というべき現代自動車の強硬路線労組が各地域の工場で一緒に働く非正規
職を受けとめ、非正規職撤廃を叫べば本当に不可能だっただろうか? 私はそう
は思わない」と反問した。
ホン前委員長は「既得権を持つ労働組合幹部がいくら机上の空論をして、集会
に参加し、旗を振って叫んでも、一歩も前に進めないのが今の民主労総の現実」
とし「実践的に民主労総が担保しなければ、非正規職の組織化は永遠にスロー
ガンとして残るほかはない。勝手に組織化できるようなものではない」と忠告
した。
インタビュー全文
今また電話局協力業者で働いていると聞きました。現場でしている仕事は?
有線開通、インターネット、IPTV開通、インターネット電話などKTが販売する
商品をすべて取り扱います。
現場に行く時、恐くはありませんでしたか?
81年に社会に出た第一歩が通信の仕事です。ほとんど19年働いて、契約職闘争
をすることになりました。また現場に来る恐れはありません。上級団体の役員
になって、現場に行きたいという思いは切実でした。
81年当時の雇用形態はどうだったのですか?
請負業者として働いていました。当時はインターネットがなく、全部一般回線
でした。機械式が電子式固定電話に変わり、洪水のように契約がありました。
韓国電気通信公社(韓国通信を経た今のKT)職員だけでは受け入れが難かったで
す。
韓国通信契約職(韓通契約職)労組を作った契機は何ですか?
賃金と処遇とも現実的な問題になりました。初めて請負をした時は、1件当たり
で受け取っていました。1件当たりだと83年や84年には毎月の月給で300万ウォ
ン余りを稼ぎました。当時、白電話と言って、電話自体が財産だった時期でした。
電話が電子式に変わる過程で途方もない物量が入り、毎日夜明けに出かけ、夜の
10時か11時に帰ってきました。電話一本開通すると2200ウォンでしたが、一日
に4-50件開通しに歩きました。一日で10万ウォン稼いでいたのです。当時、
公社の新規正規職基本給が私たちの請負職よりもはるかに少なかった時でした。
給与の差が大きく、正規職になる必要がない時期でした。米国のように非正規職
でも専門的な技術があれば労働時間と処遇に違いがあっても賃金になりました。
朝7時に出かけ、真夏には上着を脱いでまっ暗になるまで働きました。しかし
正規職は9時に出勤して、6時に退勤しました。
[出処:チャムセサン資料写真]
どんな過程で契約職になったのですか?
公社が半民営化されて韓国通信になり、請負業者を直営化し始めました。契約
職として採用しました。たぶん92年、93年頃でした。当時の条件が特別技量と
言って、特別技術者という表現ですが同じ契約職でもそんな等級を付けました。
特別、中、普通技量で給与の違いがありました。私の場合、経験があったので
特別技量で採用されて、200万ウォン程度稼ぎました。当時、正規職5-6年目と
同じ程度でした。そのうち韓国通信が経済危機になり、そんな賃金の差異をな
くしました。正規職職員の賞与も全部凍結され、ベルトをきつくしめる意味で
契約職賃金削減として掲げた金額は94万ウォンでした。
賃金半分削減はひどすぎますね
その時まで特に賞与はありませんでした。正規職が賞与を返却するのに君たち
も何か見せるべきではないかという、とんでもない説得の後、50%を越える入金
が一挙に削減されてしまいました。当時それを決め、全部印鑑を貰ったし外国
為替危機が解けて正規職の賃金問題や賞与金問題が円滑に回るようになれば、
また元通りにするといいました。その時は96年10月頃でした。そして5か月過ぎ
れば、また94万ウォンが88万ウォンに削減される。経済危機が爆発し始め、そ
の後で88万ウォンを受ける状態が2年になります。
そんな状態で労組を組織するようになったのですね
労組を組織する前に何回も会社に問い、担当者と会って話しましたが、ちょっ
とだけ待てと言って2年がたちました。99年下半期から近隣の電話局からソウル
市内で働く契約職と静かに会い始めました。当時私が東大門電話局にいたので
すが、この電話局の考えから合わせれば近隣も同意できそうで、そこから理解
させました。
当時契約職と会って、労組への反応はどうでしたか?
契約職はすでに不満が積もっていたのに、あえて労組を考えていない時でした。
何よりも当時、ユ・ドクサン委員長が闘っていた時期なので、正規職が民主労
組を作り、正規職労組の成果を横で見ながら、個人や一部の電話局だけの力で
は変えることができないと思い、組織化を始めたのです。
その時の正規職労組の反応はどうでしたか?
私たちが正規職労組の規約内容をじっくり調べたところ、日雇いや韓国通信内
で働く契約職でも、働く人はいつでも正規職労組に個人加入できるという条項
が明示されていました。個人が正規職組合に加入するのは大変だと思い、組織
して団体加入をしようと言いました。500人程度の契約職が組合加入願書を持っ
て労組を訪ねて行ったのですが、拒否されました。その時はイ・ドンゴル委員
長の時でした。(イ・ドンゴル前韓国通信正規職労組委員長は現在、労働部長官
の補佐官である。)
当時、イ・ドンゴル委員長は何と言って拒否したのですか?
始めての言葉は、あなた方は組合員の資格で解約されれば犠牲者基金を払うこ
とになるが、それには耐えることができないということでした。二番目は正規
職と非正規職の情緒が違っていて受け入れることができないといいました。最
初は率直なことで、二番目は本当に間違ったことでした、1つの電話局の中でほ
とんど同じ兄弟のように生活してきて、違う仕事をしているわけでもなく、情
緒は違いませんでした。
その時どんな気がしましたか?
とても失望しました。私も感じられなかった現場組合員と中央執行部が持って
いる考えが違うということを感じました。この労働組合は果たして本当に働く
人のために、賃金と処遇を考える労働者の集団かという気がし始めました。
結局正規職組織対象から抜いてくれと言ったのですか?
2000年9月だと思いますが、私たちがその問題でずっとでかけて行ってしつこく
要求し、規約のとおりにしようと言うと、代議員大会の案件にするといいまし
た。ところが最初の代議員大会では私たちを受け入れると決定されてしまいま
す。するとイ・ドンゴル委員長が逃げてしまいました。受け入れたくなかった
のです。それで独自労組設立申告をしたのですが、複数労組のために法外労組
になった。また1週間後に代議員大会を開き、契約職を抜く形に労組の規約を変
更しました。
韓通契約職闘争は、正規職との連帯がうまくいっていればどんな結果になったでしょうか?
その時、私たちが正規職労組の組合員になっていれば、ずいぶん違っていたで
しょう。ADSLというインターネット網が初めて登場した時ですが、それができ
る人材がいなかったのです。そんなことを担保にして契約職と連帯していれば、
その後、労働組合の力で正規職の名誉退職と整理解雇、アウトソーシングを防
げたでしょう。KT労組はその時から見掛けだけの労組に転落しました。
契約職労組ストライキの時、正規職労組の反応はどうでしたか?
大晦日の日の解止を前に、2000年12月13日に全面ストライキ闘争を宣布して、
12日に上京ストライキ指針を出し、13日に韓国通信の本社に組合員を集めまし
た。一緒に働いていた正規職の同僚はとても助けてくれました。『お前たちが
やるべきだ。しなければならない』、ところがいわゆる労組の幹部らはとても
あわてました。おまけに私に水面下の作業もしました。当時、韓国通信の民主
同志会が大きな力を集めました。組合員たちの情緒も本当によくやったという
ものでした。しかし幹部や代議員は違う考えでした。
結局労組が解散する痛みを体験しなければなりませんでした。
2002年5月12日に解散通知を受け取りました。あらかじめ私に交渉の結果が伝え
られ、私は仲間たちの決定に従うと手紙を送りました。一人で旗を持って行け
る状況でもなく、監獄の中では限界があるので、組合員の意見に従いました。
会社は最終合意書に一種の請負形態を提示しました。請負から直接雇用契約職にして、また請負を提案したのはどんな意味があったのでしょう?また労組解散を使用者側が合意書で要求したのはどんな理由があると思いますか?
当時は非正規職という用語自体がなじみが薄かった時だと記憶しています。と
ころが非正規職が私たちの闘争でマスコミで伝えられ、非正規職の権利を法制
度内で変えようとする動きを使用者が知らないわけがありません。使用者の立
場では、2年以上直接雇用して正規職にすることへの負担感が大きかったです。
会社が請負を提示したのは前を見たようですが
民営化前は通信の仕事は、ほぼ韓国通信の独占でした。そのうち金泳三大統領
の時、PCSが出てきてSKやハナロが入り、今は有線網に対する直・間接的な競争
会社ができ始めました。彼らができてから、通信市場でもっと良い既得権を得
るためには、新しく出発するインターネット事業が韓国通信の未来が決定する
という時期でした。ADSLが出てきた時、契約職も教育してす早く動きました。
ところがそんな状況で、私たちの動きに危険を感じてその人材をそっくり外注
化に転換したのです。
正規職にも外注化に対する流れがありましたか?
実際、最後の正規職採用が私が知っている限り、97年です。そのうちKTに残っ
た正規職の平均年齢は46歳程度です。
その時、韓国通信の正規職が連帯しなかった理由をどう思いますか?
2000年12月19日、3次上京闘争がありました。正規職労組が明洞聖堂でストライ
キをしたのですが、地方から契約職がたくさんきました。すでに首都圏契約職
の労働者約500人が正規職と共に闘争するために参加していました。地方は千人
ほどが参加しました。正規職と同じようにストライキをして、工場の門を閉め
れば私たちの問題が解決できるという希望を抱きました。契約職が連帯すれば、
正規職労組が掲げた闘争の争奪や契約職問題を共に解決できるという希望でし
た。ところが正規職労組は、お前たちとは連帯できないと契約職執行部に通知
しました。
それでどうしたのですか?
その話をすれば涙が出そうで... その時、イ・ドンゴル執行部がデイコムとも
連帯をしたのですが、私たちは家族なのに本当に一緒にやろうとなんとかやっ
てきたのに、みんな決定した内容だからと、数時間前にできないと通知してき
ました。あなたたちがどんな理由でストライキをしても、私たちと一緒にすれ
ば倍の力で私たちの問題も一緒しやって、あなた方が望む問題も解決する契機
ではないかと言いましたが、その問題で使用者が大騷ぎになったといいます。
初めて上級団体の連盟加入にも困難があったと聞きました。
▲韓通契約職解散総会[出処:チャムセサン資料写真]
労働者組織は今でも非正規労働者の切実な立場を自分なりに受けとめて、共に
行く準備ができているのかと訊ねたいです。民主労総は10年以上、非正規職問
題をスローガンに掲げ、私も副委員長をしましたが、内部的な対立が多かった
です。
総連盟に非正規職の問題が多かったというのですか?
本当に中でずいぶん戦いました。実際、民主労総は正規職労働組合の団体です。
非正規職の組織率は、その時2%にもなりませんでした。そんな組織化で非正規
職権利探しのスローガンで先頭に立とうとしたのですが、大企業労組がある事
業場にも非正規職を組織する力はとても弱かったのです。そんなことを引き出
すために、独自に予算も作れる制度を作り、いわゆる組織家たちも集めて活性
化に努力したのですが、それが続かない傾向が見えました。そんな条件は続く
と思います。
具体的な事例がありますか?
私が民主労総の役員だった時、現代自動車(現代車)のアン・ギホ非正規職委員
長がずいぶん努力しました。それでも意識が高い現代自動車でしたが、正規職
と非正規職を一つにまとめるのはとても大変でした。私の目には、正規職労働
組合が既得権を放棄するのが現実的に難しい状況が表れたのではないかと思い
ます。現代車の組合員はみんな知っています。非正規職が崩れれば直ちに自分
たちに刃が向かうということも分かるのですが、現実的にそれを理解させてい
くには、現代車中央執行部さえ、それをまとめていく力が民主労総という枠組
みの中では足りませんでした。
率直に本当に現代自動車のような場合は、組織化の内容だけをみれば組織化し
やすいのです。一つの工場で違うユニフォームを着て1つのラインで働くような
組織です。韓通の契約職は全国の500個所近い電話局にいて、コミュニケーショ
ンもできないような人を組織化するのですが、各工場内で一緒に働く非正規職
を本当に民主労総の柱だという現代車強固路線労組が受けとめて、非正規職撤
廃叫んでいれば、本当に不可能だったでしょうか? 私はそうは思いません。
正規職労組は切実でもなく、スローガンだけ押し出したと思いますか?
私はそう判断します。現代車非正規職闘争問題が発生して、当時ソン・ソッキ
の視線集中からインタビューの提案を受けました。当時、非正規担当副委員長
で、交渉が入ってきたのですが、労労葛藤について聞くのです、現代自動車正
規職と、いわゆる下請け業者労働者との関係に対してなぜ同じ労働者なのに正
規職労働者が非正規職労働者を受けとめられないかという質問でした。その番
組で私があわてました。顔が青くなって恥ずかしかったです。
民主労総で最も強盛だという現代車正規職と非正規職の労労葛藤を聞かれて私
が何とこたえたか分かりますか? 全国空中波放送なのに、それでも遠慮なく
「正規職は気持がありません。組織化する気持が。彼らはいくら強固路線労組
だと言っても、既得権しか考えない、私が具体的内容をよく知っています」こ
うは言えないでしょう。民主労総副委員長なのに。
何と言ったのですか?
『正規職労働者内で、今非正規労組が誕生して、これまでの既得権を分けあう
には時間が必要だろう。それが一部に見られて、そうしたことが少しずつ集ま
れば、遠からず共にできるような時がくるのではないか』と話しました。私が
言える最善の言葉だったと思いますが、そう話して胸の中がずいぶん重かった
です。そうして10数年過ぎて今見れば、何も良くなっていません。そんな状況
が現実なのです。
契約職闘争を評価すると?
一言で無謀な闘争でした。タマゴで岩を打つような闘争でした。振り返ってみ
ればそうです。しかし最善を尽くす闘争をしたかったし、私自身、死ぬ覚悟を
しました。同志愛というものの中で常に勝てるという信念があった時期でした。
連帯闘争にも私たちは一番先で率先垂範でした。連帯しなければ私たちだけの
戦いでは勝てないと思いました。構造調整、民営化は、私たちの問題だと思い
ました。負けることがわかっていても、やらざるを得ない闘争ではなかったか
と思います。
今後の非正規職運動の課題は?
全労働者のうち正規職労働組合もとても低い労組組織率の中で、非正規職の組
織化は本当に難しい課題です。その中で組織化の底辺を広げるには、今の方式
では絶対に組織化できないと判断します。現在活動している組織活動家の姿も
ずいぶん色あせたようです。連帯もとても退色している状況で、社会的連帯や
非正規職の組織化の問題を、スローガンや、ただ会議の案件にするだけのとこ
ろから一歩踏み出せないでしょう。実際、組織化に対する激しい内容を含ま
なければなりません。言い換えれば非正規事業場に組織活動家が直接入り、
彼らが持っている考えを団体に集めて持っていける体系的な準備をすべきです。
民主労総は全くそのような準備をしていないのですか?
非正規の組織化というのは、スローガンや言葉ではできません。彼らとの生活
の中で、彼らの不満を自分の胸に抱いて連帯しようと訴える時、彼らの怒りは
爆発するでしょう。共同の経験とそんなビジョンを提示して、そんな組織化の
内容を担保できる組織活動家がまず前提にならなければ先に進めません。
二つ目は、それが担保されれば法のような制度的問題でも、週5日などの公平性
が外れる制度的問題を教育的な次元で世論化させ、組織化できない多くの業種
の非正規労働者たちが、制度圏で自分の権利を求めるように世論化の作業をし
ていかなければなりません。
正規職の態度問題も重要だと思いますか
私たちも人間ですから、自分の茶碗を他人が刺激すると思えば、誰がじっとし
ているでしょう。意識がそんなように行っています。自分の茶碗だと考えます。
自分の茶碗を他人が刺激すると思う意識を変えていく教育が徹底的になされな
ければなりません。組合員たちの姿を直間接的に変える幹部の役割をきちんと
すれば変わります。最近、複数労組と専従者賃金が台頭していますが、私はお
かしいと思います。労組専任者賃金に対して、彼らの権利を守るには、彼らが
専従者らしく重大な組織内の非正規問題や組合員の意識高揚に努力したのかと
聞きたいです。労組の幹部なら、労働者の権利のために幹部の任期を終えれば
本来の労働者の姿に戻るべきなのに、そんな準備ができていません。それで既
得権の声があがります。そんな問題を解決しなければ、そうしたことが既得権
の戦いになってしまいます。
例えば現代車労組の幹部なら、いつでも任期が終わればラインに行って組み立
ての仕事を組合員たちと共にできる技術的な力量があって、組合員が幹部を信
頼できると思います。それができなければ、果たして労働組合の闘争目標を使
用者はどう見るでしょうか? あいつさえこちらに引き込めば、組合員はいつで
も統制できると思うようになります。KTがそうでした。
最後に非正規職運動の展望をどう見ますか?
正規職よりさらに多くなっている非正規職闘争は、明るいところにでるしかあ
りません。その時、それをどのようにきちんと整え、少なくとも卵で岩を打つ
のではなく、ハンマーで打つ力の対決構図に行くことができるかを悩まなけれ
ばなりません。そんな役割が民主労総の力であればと思います。
意識が一歩先んじた人も、本当に非正規職問題や労働組合を一度経験した人な
ら、労働者の姿でいつでも換骨奪胎できる自分の意識を備えなければなりませ
ん。それが今の労働組合の姿を変える近道だと思います。幹部が現場に入り、
率先垂範しなければなりません。
土台を作るには、集中的に根気強く行ける誰かがいなければなりません。そん
なことができるインフラを作らなければなりません。
私たちが損をする戦いには限界があると思います。負ける戦いでなく、きちん
と勝てる闘いをするには、労働者の最大の武器である工場を掌握しなければな
りません。どんな業種でも、労働者がいなければ自分のポケットに金が入って
こない、そんな力を育てれば対等な闘いができます。タマゴで岩を打つような
戦いはもうしたくありません。大きな塊りの戦いもあるでしょうが、小さな事
業場の中でもその事業場の中の戦い事に勝てる力を作る役割を民主労総がしな
ければなりません。その次に戦いをしなければなりません。負ける戦いをただ
希望だけで戦わせ、皆死なせるような闘いをしてはいけません。
連盟に所属する業種の非正規組織化をするには、非正規職の現場について本当
に詳しく内容を知らなければなりません。そして打撃点を探し、彼らを組織し
なければならないようにするべきですが、みんな座ってただスローガンだけ叫
んで、それでできますか? 既得権を持つ労働組合の幹部がいくら机上の空論を
して集会に行って旗を振って叫んでも、一歩も踏み出せないのが今の民主労総
の現実です。実践的に民主労総が担保しなければ、非正規職の組織化は永遠に
スローガンでしかありません。勝手に組織化ができるようなものではないのです。