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直接民主主義? 何の話かわからない[企画:キャンドルに狂う]キャンドルと民主主義
ユ・ヨンジュ記者
www.yyjoo.net / 2008年07月22日10時28分
キャンドルはまだ進行形。いつどのようにして終わるのか。清渓広場が開かれ た初日から今まで、誰も断定できない。一方ではどうにか鎮火しようとする。 無視したり怖がらせたり攻撃したりもする。一方ではどうにか進化させようと する。診断したり企画したり水が流れるようにまかせたりもする。このように してキャンドルは続いている。 今、『キャンドルと民主主義』に対する定義は可能だろうか。この大騒ぎにな り躍動的な局面が、どんな形で一段落するのかが確認されない限り、推定と予 測に、主観的な診断にならざるを得ない。それでも定義不可能というわけでも ない。民主主義の内容と形式の問題は、キャンドル以前から、そしてキャンド ルの後も、常に関心外のことでなかった。政治への市民の関心ほどに、キャン ドルと民主主義に対する関心は続いた。この主題をめぐって関心を表明した活 動家と研究者の発言を追ってみた。定義というよりは整理に近い。 ▲出処/チャムセサン資料写真 『キャンドル宣言』(市民人権宣言)作ろう? 「広場と通りでは直接民主主義の萌芽が熱心に花を咲かせている。私の考えで は新しい市民革命が進行しているようだ。この市民革命は権利の革命でもある。 代議制民主主義では収斂できない新しい主権者が広場で誕生している。」 パク・レグン人権活動家の言葉だ。『直接民主主義の萌芽』という言葉の中に は、代議制民主主義に対する一定の不信と、これを補完、または代替する何か の希望事項が含まれている。とにかく『新しい主権者』の登場から目を離さな い。 パク・レグン活動家はこれらの主権者が『市民人権宣言』を作れと主張する。 パク・レグン活動家は「まさに制度政治に収斂しない急進的な権利の内容を、 広場で互いに提案し、討論し、合意し、どの誰も侵害できない人権として確か に宣言しよう」と主張する。人権活動家らしい悩みと実践だ。 キャンドルで確認された民主主義をめぐる争点と議論、要求を急進的に整理し、 大衆の同意と感性が息づく『宣言』を作れるのなら、それ自体で大きな意味が ある。市民がするする覚えられる、覚えなくても自然に歌われるような短くて 簡明な、その一方で人民主権と人民権力の意志が真っすぐに生きている宣言な ら申し分ない。 不幸にも大韓民国の市民はまだ6.29宣言を代える宣言を持っていない。6.29宣 言には、20年前の6月10日から18日間、『直接選挙制』を叫んだ市民の政治的な 熱望がものさびしく反映されている。宣言の主体は支配者であり、支配者の口 を通した宣言だったが、支配者は大衆の要求をおさめないわけにはいかなかっ た。だから革命だったし、同時に未完の革命だった。 今、キャンドルは6.29宣言を代える『キャンドル宣言』誕生の可能性を見せる。 ただし、『キャンドル宣言』ができるとしても、6.29宣言を画期的に越えると 大言壮語することは難しい。さらに6.29宣言と同じ形で整理されるのではなさ そうだ。予想するに、『キャンドル宣言』ができれば、それは代議制民主主義 の外で、広場の実践と精神を含蓄する形になる公算が高い。 ではこれをどこで使われるのか。まともに作られれば、つまりちょうど憲法第 1条のように簡単に覚えられる、広場で実践で意味が共有されるような『キャン ドル宣言』が作られるのなら、代議制民主主義の限界と空白を掘り起こし、窮 極的に指向すべき民主主義の絵を描くために役立つように作用するだろう。 だから2年以内に、つまり、改憲が推進されれば1文字も押込むのが難しい状況 になる。そんな時、『市民人権宣言』を押しこむ戦いで、力比べをするテコに 使うこともできるだろう。また新自由主義権力が市民の生に威嚇を加える要所 要所でこの宣言を根幹に、粘り強い抵抗を繰り広げられればいい。 『絶望の民主主義』に代わる『直接民主主義』はまだ... 『市民権利宣言』と類似の問題意識はペク・スンウク教授の文でも確認される。 ペク・スンウク教授は「憲政的な危機の要素と、生活の現場での闘争を結合す る方法」について悩むが、少なくとも3つの要素を盛り込むべきで「法イデオロ ギーを疑問視する効果を持つべきだという点、『労働者市民』という契機を活 性化するものでなければならないという点、思想的自己検閲の壁を崩す効果を 持たらすものでなければならないという点」をあげた。 ペク・スンウク教授はこの3つの要素と結合して「一つのスローガンがこのすべ ての効果を盛り込めると期待することはできない。互いに異なる運動が結びつ くべきだが、われわれは〈『私はこうした世の中に生きたい』宣言者大会〉の ような運動が下から組織され、全国的な影響力を持ち、それが『民衆の権利宣 言』に続く過程」が必要だと主張した。 これと共に、「生活の空間での変革の努力は、それを可能にする政治的条件が なければ難航する。それでもこうした生活の空間の中での変革の試みがなけれ ば、大衆を政治の主体にしようとする人民主権の試みの内容を備えるのは不可 能だろう」と強調した。 そのためペク・スンウク教授は「誰が執権しようとも、後退しない大衆の民主 主義の最低線を確保すること、それからさらに多くの民主主義を作動させて行 くこと」に関心を集中した。 ではパク・レグン活動家の悩みが立ち止まった点はどこか。『世の中をたたく 人』7.8月号でパク・レグン活動家は、「人権運動陣営がもはや談論で押されず、 積極的に市民の変化の熱望を権利宣言や権利憲章などに盛り込む過程を踏むべ きではないでしょうか? 道路で警察の暴力を監視する活動を越え、積極的に直 接民主主義、主権者による直接政治のモデルを作る事を始めるべきではないで しょうか?」と話す。 『キャンドル宣言』を作り、主権者の直接政治モデルを作らなければならない というが、まだこの実体は確認できない。パク・レグン人権活動家が突き当たっ ている部分だ。直接政治のモデル、それはまだ抽象だ。市民が広場にあふれ出 して、街頭の政治が開かれても、直接民主主義や直接政治にはならない。だか らキャンドルの主導者は、直接民主主義の具体的な何かを渇望しても、制度権 力と代議制民主主義の外側で形成される急進的な認識と実践が遭遇する現実は、 簡単に捕えることはできない。 たとえば『民主主義は障壁を越える』という実践は、つまり『障壁を越えた後 の民主主義』という質問の前でためらうことになる。街頭の政治内部の障壁と いう非暴力の議論を越え、新自由主義権力の象徴である明博山城を占領したが、 『絶望の民主主義』に代わる『直接民主主義』の実体が確認されたわけではな い。はっきり言えば、『街頭の政治』で市民参加の直接性が制度権力と代議制 民主主義の中での直接性と連結しておらず、また連結しないことに由来する。 政党政治と街頭の政治の当然で暇な結合 6月10日を経過し、『キャンドル以後』の代案に対する多くの討論があった。政 党政治と街頭の政治を主題とする意見が、洪水のようにあった。政党政治の限 界だの、政党政治を強化する方案を模索すべきだの、政党政治と街頭の政治が 併行発展しなければならないなどの主張が提起された。予想できない大衆行動 (街頭の政治)を目撃して、過去に街頭の政治がどのように政党政治へ、または 制度権力構造に吸収されたかと較べながら、展望論争が繰り広げられた。 たとえばイ・ナムジュ教授は、政党政治の反省と街頭の政治の『政党』化をめ ぐり、好循環関係を発展させる必要を提起した。 イ・ナムジュ教授は「街頭の政治が政治の発展に肯定的な役割を果たすために は、既に私たちが持っている権力の構図内に吸収するのではなく制度政治、政 党政治と併行させて、政治と民主主義に新しい活力を吹き込む源泉としての機 能に注目する必要」を話し「街頭の政治が持つ解放的機能をさらに積極的に発 展させるために政治行為の新しい形式と内容を作る必要がある」と主張した。 一方「街頭の政治を生活政治で説明することは多いが、現在の街頭の政治が具 体的な生活空間と結合している程度は非常に低い」と診断した。そしてイ・ナ ムジュ教授は「現在街頭の政治に参加している多様な単位の間の議題と主体の 特性に合った水平的交流の活性化が可能でないか」という質問を投げる。 こうした文脈なら、『不買運動』を契機とする言消株(言論消費者主権国民キャ ンペーン)の活躍や、消費者主権運動に注目することもできる。言消株は言論 NGO非営利団体(法人)化を推進する段階に発展している。江南の父兄が地域でキャ ンドルを灯し、教育問題を討論してネットワークを作ったり、果川の住民が BSE牛肉反対横断幕をかける運動をして地域住民の生活と連結する活動のように、 キャンドルの効果は明らかに小さくない。だがキャンドルデモで噴出した要求 を5つの議題に圧縮すれば、各議題に対する代案的な議論と実践を展開してきた 『水平的交流』、すなわち、議題別の連帯活動はキャンドル以前から存在して いたし、キャンドルの過程でも役割を果たしているという点で、『民主主義』 に新しい課題を提起したと言うわけでもない。説得力を持つ『活性化』プロジェ クトが提示されれば、わからなくても結合しなければならないという当然の事 程度では、今後の実践動力に影響を及ぼせない。 ▲出処/チャムセサン資料写真 リコール制、直接民主主義希求過剰の産物 代議民主主義の限界を指摘して直接民主主義を実行するために提起された一つ の方案として、『リコール制』が注目されている。2004年の総選挙の時に、 『もっと多くの民主主義』をめぐり運動陣営内部で論争があった。すでに住民 リコール制は法で導入されているが、今回のキャンドルの局面で積極的な代案 として議論される雰囲気ではない。 ただしウ・ソクン教授が「住民リコールを国民リコールに、住民投票を国民投 票に強化しよう」という主張を展開して、一部のブロガーとネチズンがオンラ イン討論を続け、耳目が集まった。 ウ・ソクン教授はソウル市の呉世勲(オ・セフン)市長を軸にソウル市ハンナラ 党区庁長と広域議員を一つの名簿でリコール署名を集めることを提案した。キャ ンドル妄言をしたキム・ムンスを軸として京畿地域のハンナラ党市長と京畿広 域議員も一つの軸で推進できるという判断だった。 機構としては、扶安の住民投票の時の機構と似た形態で、各地域別に住民カフェ のようなものが結びつくようにして... ウ・ソクン教授は「これを発議するこ とだけでもハンナラ党の力の半分を押し倒す効果がある」と見た。 すでに導入されている住民リコール制と住民投票を、国民リコール制と国民投 票に強化し、国会と大統領もリコールの対象としようというのが骨子だった。
このシナリオのとおりなら、少なくとも最近、ソウル市議会議員による最悪の わいろ事件が起きたことに対して即刻リコール運動が広まらなければならない。 呉世勲市長とハンナラ党全体に対する政治的で象徴的なリコールよりも、明ら かな犯罪であるソウル市議会議員の即刻リコールは、名分と正当性ともに比較 にならない。しかし民主労働党ソウル市党が住民リコールの意志を多少政治的 に宣言した以外は、これといった顕著な動きは捉えられなかった。 断定は難しいが、キャンドル集会に出てきた市民や推進主体は共に『リコール 制』が多くの費用をかけても過程と結論を予測しにくいという負担を持ってい るからではないかと思う。 しかしダウムカフェなどで国民リコール制推進の署名運動を展開しているキム・ オクソン対外協力チーム長は、「市長はソウル市民の10%、市会議員は20%が発 議しなければならず、容易ではないが、法的な手続きに従ってじわじわと準備 している」と話した。法的要件を備える準備と国民リコール制を推進しても、 図体が大きいだけに実際に成功することを目標としているという。キム・オク ソン・チーム長は「今年中には発議できるだろう」という自信を付け加えた。 必ずそうなればと思って、誰でも力をのせるだけのことだ。 住民リコール制であれ国民リコール制であれ、リコール制は、住民(国民)が参 加する直接行動、直接民主主義の要素を持っているが、それ自体が民主主義の 内容ではない。国民リコール制が、5年単任直選大統領制という87年憲政体制の 権力制度の一部を補完する意味を持つことは明らかだ。しかしこの形式に誰が どんな内容を入れるのかは次元が違う問題だ。だからさげすむことではないが、 国民リコール制がそのまま直接民主主義であるかのように認知されるのも危険 な要素がある。 ▲出処/チャムセサン資料写真 直接民主主義? 何の話かわからん 以前に若いブロガーとともに座談をしたことがある。彼らは直接民主主義への 過大な期待を一発で吹き飛ばす討論をしているようだった。 ハン・ユニョン: 論点を変える必要があるが、支持率が落ちれば何かが変わるのが正常だが、 選挙もなくて、することがない。 キム・ヒョンジン: 教育委員長選挙! ハン・ユニョン: 物価上昇率7%、経済成長率4%、支持率7%、それで747だという。 ノ・ジョンテ: 7.4%支持率を7月中に達成したという解釈もある。 ハン・ユニョン: これほどなら、何か手を打つべきだが大統領府だけ防ぐ、 あとは君たちが勝手にやれ。 キム・ヒョンジン: 世宗路はお前らが、とか。 ハン・ユニョン: それでも革命をするような政局でもないから、人々に何か要求することもそう だ。制度的にどうするという方法はなく、それで直接民主主義というけれど、 直接民主主義という言葉が良い言葉なのかわからない。 キム・ヒョンジン: 私も何の話かわからないよ。 ハン・ユニョン: とてもかすかな ノ・ジョンテ: 夢の中にある ハン・ユニョン: 一生の理想のような。誰なのか知らない、その子が二重まぶたなのかどう か、ぼんやりとしていて。代議民主主義が回っていかないと言うのはその通り だが、どう補完するかを言わなきゃ。 ワングン: 直接民主主義に行くことか、国民リコール制か、代議民主主義かを言うが、 このエネルギーが果たして形質転換するようなエネルギーだろうか。 座談に参加したブロガーたちは、少なくともキャンドルデモ現場で提起される 『直接民主主義』のバブルを取り払うことに共感をよせる。直接民主主義のス ローガンだけでキャンドル集会に参加するより、いっそ大衆が『遊んで行くよ うに』するべきだという脈絡の『襲撃と遊び』に言及した。抽象的な直接民主 主義の議論の代わりに、市庁で非正規職のチラシ配りなどすぐにできる仕事を いくらでも数え上げられると自信を持っていた。 代替して自治する代案がない民主主義は何? 6月末頃、進歩新党のノ・フェチャン代表はある新聞とのインタビューで「直接 民主主義的要素を強化しなければならず、強化されるだろう。だがそれが代議 制を代替するのではなく補完するようになる。国民も自ら考え、自ら問題提起 をしなければならない。政治権力をどう選出するのか、政治権力をどう再編す るのかという悩みにまで到達しなければならない」と指摘した。民主労働党や 進歩新党は無力で信頼もされないという診断を付け加えた。 ノ・フェチャン代表は、李明博政権退陣のスローガンにも「『政権退陣』とい う表現を具体的な政治プログラムに持っていくには困難がある。状況が熟して いないとか、代案権力がないからではない。現状況を導く政治的な凝集力がな いという点が問題」とし懐疑的ながら、同時に比較的正確な意見を表明した。 李明博政権が10%内外の支持率で、山城を築き、大統領府で籠城(?)をするよう な形でありながら『退陣』させられないのは、5年単任権力の正統性を認められ ているからだ。この事実を誰よりもよく知る失われた10年の簒奪者たちは、行 政権力と議会権力掌握の威力により、キャンドル進化の各種の手段を広げてい くのだ。BSE交渉に続く放送通信審議委の時事番組の「公正性」審議、YTN落下 傘、KBS掌握、検察のMBC失脚など、一瞬理解が難しい、非常識でとんでもない とさえ感じられる言論私有化工作が示唆するところもここにある。 代替して自治する代案がない限り、『民主主義』は政治的修辞でしかない。ど れほど反動的でありえるのかは、現実で簡単に確認される。87年憲政体制の中 で溶け合っている民主主義支配主体が変わらない限り、87年憲政体制を変える 代案政治が出現しない限り、『街頭の政治』の直接民主主義の限界も克服され ないだろう。ソウル市教育委員長選挙が絶妙のタイミングで行われるが、今回 の選挙結果がすなわちキャンドルで作られた直接民主主義の熱望と実体が評価 されるバロメーターだと言うと果たしてオーバーだろうか。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2008-07-24 10:17:09 / Last modified on 2008-07-24 10:17:10 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ |