黒対黄:香港の雨傘運動と階級敵対(2)歴史編2 | |
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[香港雨傘運動]ポスト天安門、反中国感情と階級運動の屈曲黒対黄:香港の雨傘運動と階級敵対(2)歴史編2
米国のある過激派と匿名の友人ら(Ultra-com) 2014.10.22 17:58
[チャムセサン編集者 注]本文の筆者は「米国のある過激派と匿名の友人」がUltra-com.orgに最初に掲載した文を〈リブコム(libcom)〉のブログ「ナオ(Nao、閙)」が再掲載したものであることを明らかにします。Ultra-com.orgは2011年以来、世界のオキュパイ、ストライキと反乱に参加している自称「ウルトラ(過激派)」が、この危機の過程で形成された他の「ウルトラ」との出会い、地域での討論、調査と協力のために作ったウェブサイトだと紹介しています。筆者陣はこの文を伝えるにあたり「直接調査で作成された情報と写真を提供した香港のすべての友人に感謝する」と記録しました。
一方、この文を再掲載した〈リブコム〉は世界的反資本主義社会運動を紹介するオンラインメディアで、この文を香港の「雨傘運動」についての直接調査に基づき、背景と限界、そしてマルクス主義的展望を分析した文だと伝えました。「ナオ」は〈リブコム〉で中国での階級闘争を伝えており「没収、搾取と排除に抵抗する小農、労働者と失業者の反乱のためのプロレタリア問題児を擁護する」と紹介します。
1編:[香港雨傘運動]未来ない世代の登場 最初の直接的な効果は「香港市民支援愛国民主運動連合会」の結成として現れた。 司徒華、李柱銘、李卓人といった人物がここに合流し始めると、すぐに彼らは本土の政府による攻撃を受けた。 2年後の1991年、香港は初めての直接選挙を実施した。この選挙では香港民主同盟[中道、1990年創党、1994年民主党に合併]と自由主義的な匯點(ミーティングポイント)[中道左派、1983年創党、1994年に民主党に統合]の選挙連合が、小さなリベラル政党の連合と共に地滑り的大勝利をおさめた。 1991年の選挙を契機として「汎民主化」陣営が誕生し、彼らはその後20年間、何回も集合離散を繰り返した。 現在、これらの選挙政党や、知識人、活動家とNGOの緩い連合とともに、「汎民主派」と呼ばれる。 [司徒華(市民運動家、九龍東立法議会議員)、李柱銘(弁護士、香港民主党-中道/中道左派、1994年統合民主党、匯點、さらに前線(フロンティア)が共同で結成-初代党首)、李卓人(香港労総元事務総長、香港市民支援愛国民主運動連合会元会長)] 汎民主派活動家陣営の中心的な構成員の中には、中国政府の「政治的教育」のための教育課程に抵抗して形成された学民思潮のような中高生の組織と香港の7つの代表的な大学の学生連合が結成した香港大学生連合会(学連、HKFS)がある。 これらの組織は理屈では非常に幅広い基盤を持っていることになっているが、代表はたいてい汎民主派と同じ方針を持ち、改革に対しては合法的かつ紳士的な方式を追求する。 不確かな状況で学生組織がしばしば制度化された汎民主派のグループに行動するよう強制するが、学生の多くはやはり「香港市民」という自負心を持ち、警察がデモ隊を攻撃した時に反撃する人々を非難したりもする。 最近の香港の政治状況に関しても、学連や学民思潮のようなグループは先頭的な役割と共に、最終的には抑圧的な役割をした。 新界の開発に反対するデモから今年の7月1日主権返還記念日に毎年行われるデモの後、少しの間行われた占拠まで、学生グループは抗議を進めるために欠かせなかったが、実際の警察の弾圧に直面すると完全に怖気づいてしまった。 この過程で香港の若い抗議者たちは、イデオロギー的には弱いが資金は十分な汎民主派のリベラル派と、その最右派側の人民力量(ピープルパワー)とその追従者の熱血公民(Civic Passion)周辺の緩やかな集団にまで拡大した。 熱血公民は、公式的には移住問題についてはいかなる立場も持たないが、香港の極右民族主義者を広く受け入れている。 集会で彼らの黄色いTシャツを着たメンバーが移住民(特に本土からの中国人)は出て行けと話している姿はたびたび眼に触れる。 ▲右派、熱血公民グループの指導者、黄洋達、背景は中国共産党反対の横断幕[出処:Ultra] あちこちの民族主義政治とともに、熱血公民は所属国家の言語で階級対立を曖昧にする傾向がある。 政治分析的には、多くの人は、はっきりした左派よりも、むしろロン・ポール[米国共和党の政治家]やアレックス・ジョーンズ[米国のジャーナリスト]のような人々と似ている。 彼らは香港の未来を収奪する国際資本家階級の本当の役割よりも、この過程で本土の資本家らが演じた役割だけを強調する。 さらに危険なことに、彼らは香港に移住した貧しい多くの本土の中国人(またはあまり豊かではない旅行者)をこの都市のすべての資源を食い尽くそうとするイナゴの群だと表現する。 反中国感情は香港社会の日常生活で可視的に現れるほど、広く認められた非常に大衆的な人種主義の一つの形だ。 北京の直間接的な検閲を受けない少数のメディアの一つである蘋果日報は2012年、香港に近付く巨大なイナゴを描き、「香港のために、本土の親から生まれる子供の世話をするために18分ごとに100香港ドルを払いますか?」という全面広告を掲載した。 今年の初め、100人以上が「反イナゴ」キャンペーンに参加して広東道をデモ行進した。 裕福な本土の観光客が好む高価な宝石店がある一帯で、彼らは「中国に帰れ」、「香港を取り戻せ」と書かれたプラカードを持ち、北京語を話す野次馬を怒鳴りつけた。 社会的な緊張が悪化した時には、こうした日常的なレイシズムは便利なガス抜きの方法であり、 これは抗議者を分裂させると同時に、珠江デルタ[中国の珠江河口の広州、香港、マカオを結ぶ三角地帯]からの移民の暴動に彼らが自然に連帯することを防ぐように構造化されている。 ▲香港最大の新聞社の一つの反中国人広告[出処]Ultra しかし、人々が汎民主派連合の保守主義に幻滅を感じた時、最初の可視的な代案は、戦闘的な行動を厭わない人民力量や熱血公民のような一部の少数グループだった。 若い人たちは、汎民主派の儀式のような集会や政党迎合主義を見ながら、数年でこうしたグループの大衆性は明確に高まった。 最もよく言及される事例にはこのようなものがある。 毎年6月4日、主流の民主党は1989年の天安門広場運動を記念するキャンドル・デモを行う。 熱血公民は例年のキャンドルデモの代案として、さらに戦闘的で、民族主義者(彼らは「地域主義者」と称する)や人種主義スローガンも散見される集会を始めた。 2013年、彼らの代案集会には200人しか参加しなかったが、今年は7000人が集まった。 公式のキャンドルデモははるかに大規模ではあるが、参加者はこの間、数万にまで減っている。 現在の「雨傘革命」では、反中国グループはまた主流から外れたように見える。 だが過去の経験から言えば、汎民主派が行動しないことで動揺し始めた時、戦闘的な青年世代を集めて戦術的な前進を可能にするのは、極右しかなかった。 香港の政治はこれまで数年間、この壁に向かって突き進んできた。 ▲雨傘運動の過程で最近、香港全域の壁に貼られたステッカー:「植民主義反対! 新香港人(中国本土からの移民)反対」[出処:Ultra] OGオキュパイと港ストライキ現在の「オキュパイ・セントラル(Occupy Central)」グループは―厳密に言えば「愛と平和のオキュパイ・セントラル(Occupy Central with Love and Peace)」―、香港で最初のオキュパイ・セントラルの存在を曖昧にする傾向がある。 米国のオキュパイと同時に、香港でも2011年のオキュパイ運動は市内の金融センターを目標として、香港の金融街の心臓部にあるHSBCビルのまわりにテントを張ってデモをした。 オキュパイ・セントラルが2011年の一番古いオキュパイ運動の一つだったとしても(2011年10月に始まり、2012年9月に終わる)、この運動は全盛期でさえ100人程度しか参加せず、他のデモと比べれば小規模なものだった。 それにもかかわらず、これは小さな都市国家における市民蜂起の新しい時代を開くもので、最初のオキュパイ運動の参加者の多くは新界開発に反対したり「雨傘運動」に火をつけた学生休業組織を支援するなど、現在の運動の基礎を作る方向に進んだ。 ▲香港の最初のオキュパイ運動[出処]Ultra だが最初のオキュパイは、他の多くの運動のように、政治的に混乱していた。 この運動は新しいアナーキストばかりでなく、例のごとくさまざまな陰謀論、短絡的な活動家、そしてもちろんリベラルの一部が混ざり合って激しく揺れ動いた。 政治的にはオキュパイ・ウォールストリートに参加したリベラルが掲げた「政治から金を取り上げろ」という皮相的な批判と基本的に通じる部分はあるが、香港のこうしたリベラルは汎民主派の一種といえる。 これらのリベラルと最初のオキュパイをした人々―若い学者、学生、失業者と家のない人々―は異なる種類のものだったが、最初のオキュパイ運動が撤去された後にマスコミとのコネクションを利用して効果的に再オキュパイの計画を国際的に伝えたのは、オキュパイ・セントラルにほとんど参加しなかった年上のリベラルたちだった。 トーキング・ヘッド3人衆の戴耀廷(Benny Tai)教授、陳健民(Chan Kin-man)教授、朱耀明(Chu Yiu-ming)牧師は一般投票で選出する政府を要求し、一連の集団審議の計画を作り、立法会に提案した。 国内移住労働者などが排除されているにもかかわらず、香港ではこれが「普通選挙権」と見なされた。 3人の指導者たちは、この改革案が受け入れられなければセントラルで大衆的な市民不服従を行うと威嚇し、「非暴力的」で、香港の大多数の人々に反対するものではないことを強調して「愛と平和のオキュパイ・セントラル」という新しい運動を提案した。 ▲新しい「愛と平和のオキュパイ」のロゴ[出処]Ultra
だが新しいオキュパイ・セントラルのグループがオンライン選挙を実施すると(最終的に香港人の10人中1人しか参加しなかった)、オキュパイ反対勢力は都市全域の請願と署名運動を支援に動き、世論調査の結果、多くの人が再占拠を支持していないことが明らかになった。 その後、戴耀廷は実際にオキュパイを行えば、汎民主派に対する「現実的」な市民の露骨な反対が拡大することを恐れ、この運動は「失敗した」と宣言した。 この頃、公共バスの放送広告には流行に敏感な若い香港人から年を取った企業家までが出てきてオキュパイ・セントラル計画は小規模商店の営業と週末のショッピングを破壊するという宣伝が溢れた。 香港の政治家たちは抗議行動で市民社会の支持を失うことを恐れ、ほとんどの運動は事実上、秩序の名で始まる前に抑え込まれてしまった。 また改めてオキュパイというブランドを使ったことは、オリジナルのオキュパイの急進的な視点を新しいリベラルの主張で覆い隠すのに便利でもあった。 外部から見ると、この意味は明確ではないかもしれないが、オリジナルのオキュパイ運動は「未来なき世代」の一部が汎民主派を含む香港の政治全体と秩序を集団で批判する数少ない空間の一つだった。 このオキュパイ運動の中心的なメンバーの一部は、リベラル民主主義に対する明快な批判、つまり香港の「聖牛(資本市場の象徴)」を解体することを主張しさえした ― こうしたことは89年以来、この都市の歴史ではほとんど考えられなかったことだった。 学生や若者の急進的な部分が愛と平和のオキュパイ・セントラルではなく、結局学生ストライキを発議してセントラルばかりでなく、アドミラルティ、コーズウェイ・ベイやモンコクの通りのオキュパイは、このような環境で行われたのだった。 若い民衆が汎民主派の保守派と衝突したのはこれが初めてではない。 2012年に最初のオキュパイが撤去されて緊張が香港で高まり始めた時、新しい敵対が外部に広がり始めた。 2013年3月、香港の葵青コンテナターミナルの労働者の間で大規模なストライキが始まり、これはこの数十年間、香港で最大の労働争議になった。 オリジナルのオキュパイとストライキ、そして現在のデモに直接の関連はないが、それぞれは同じ経済的沈滞と深まる階級敵対によって発生したのは明らかだ。 さらに重要なことは、こうした運動が民衆の一般的な政治意識を変化させ、この新しい認識はこれに続く運動の基盤になったということである。 このストライキは当初、港湾内のクレーン技術者が独立に始めたが、汎民主派の保守派に率いられる香港職工会連盟(HKCTU)と労働党の傘下の香港碼頭業職工会(UHKD、港湾労組)が素早く目をつけた。 交渉を主導する労働組合の代表団により、ストライキ労働者の初期のエネルギーは急速に分散し、多くの労働者へのストライキの拡散は防がれた。 李嘉誠の旗艦会社であるハチソン・ワンポア(和記黄埔)が所有するこの港は、香港のイメージと経済の両方にとって重要だ。 この港が閉鎖されれば、香港と中国本土の最も裕福な資本家の金脈は干上がり、地域経済全体に影響しただろう。 しかし労働組合と労働党はストライキが始まってわずか数日後に、実際に港が閉鎖されるとマスコミ―そして「市民社会」を構成する金持ち―が労働者を攻撃するだろうとし、裁判所の禁止命令を受け入れるようストライキ労働者を説得した。 その後、労働者たちは港湾そのものの占拠ではなく、港外の歩道の片隅にテントを張り、港への進入路の一つの正面で象徴的な封鎖を行った。 世界中のマスコミは「ストライキ」を報道したが、このショーの裏で港は普段よりやや緩慢ではあったが稼動していたのだ。 ストライキの絶頂期にも、この港は相変らず80%の稼働率を示していた。 組合員は港湾労働者のごく一部しかいなかったが、組織された労働者の間で経済的な打撃を強化しようという主張は押しのけられたり無視された。 若い支持者たちは、さらに多くの労働者と接触しようとしたが、労働組合で働くリベラル保守派はやはり彼らを脇に追いやってしまった。 労働組合は道路周辺の占拠によるささいな妨害でも、市民社会(つまりスト基金の主な出資者である)の好みに合わないかもしれないと心配し、すぐにこのテントを片付けてハチソン・ワンポア本社がある市内の長江センター(アドミラルティにある高層ビル)の下に小さな座込場を作った。 その時から「ストライキ参加者」たちは港から遠く離れた市内のビルの前でプラカードを持つ少数の人々になった。 結局、ストライキ労働者の要求は一部分しか勝ち取れず、労働者の多くはストライキを損失だったと考えた[iii]。 その後、多くの報道機関は今回のストライキについて前例がないと描写したが、ストライキに参加した労働者に対してどう感じているかと質問したところ、高齢の労働者たちは1997年の返還以前、労働党が存在せず多くの労組が不法だった時にはこの港で二回のストライキが起きたことを指摘した。 年を取った労働者たちは、他の何よりも優先して市民社会の好みに合わせて訴えるよう押し付ける労働組合や政党代表がいなかった時のストライキの方が、実際にはるかに成功的だったと主張した。 だから彼らはただ山猫ストに参加して実際に港の機能をマヒさせ、そうして主要な要求を勝ち取った。 それと較べ、最近のストライキは惨めな負けだった。 [原文]Ultra-com.org
翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2014-10-27 03:14:40 / Last modified on 2014-11-21 05:26:35 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |