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[香港雨傘運動]未来ない世代の登場黒対黄:香港の雨傘運動と階級敵対(1) 歴史編1
米国のある過激派と匿名の友人(Ultra-com) 2014.10.21 19:22
[チャムセサン編集者 注]本文の筆者は「米国のある過激派と匿名の友人」がUltra-com.orgに最初に掲載した文を〈リブコム(libcom)〉のブログ「ナオ(Nao、閙)」が再掲載したものであることを明らかにします。Ultra-com.orgは2011年以来、世界のオキュパイ、ストライキと反乱に参加している自称「ウルトラ(過激派)」が、この危機の過程で形成された他の「ウルトラ」との出会い、地域での討論、調査と協力のために作ったウェブサイトだと紹介しています。筆者陣はこの文を伝えるにあたり「直接調査で作成された情報と写真を提供した香港のすべての友人に感謝する」と記録しました。
一方、この文を再掲載した〈リブコム〉は世界的反資本主義社会運動を紹介するオンラインメディアで、この文を香港の「雨傘運動」についての直接調査に基づき、背景と限界、そしてマルクス主義的展望を分析した文だと伝えました。「ナオ」は〈リブコム〉で中国での階級闘争を伝えており「没収、搾取と排除に抵抗する小農、労働者と失業者の反乱のためのプロレタリア問題児を擁護する」と紹介します。
1編:[香港雨傘運動]未来ない世代の登場 [出処:Ultra] PART 1 歴史 グローバルシティさまようショッピング客は湾の反対側の金融街のスカイラインが緑と黄色に光る万華鏡の中に沈む時、セルフカメラでポーズを取る。 その下で、ビクトリア港の海水は台風の前兆を見せながら静かに揺れる。 水は波打っているが遊覧船は東アジアで最も華麗なショッピングモールの一つであるチムシャツイの埠頭に停泊し、ほとんど動かないようだ。 遊覧船は世界随所の裕福な訪問客が冷暖房施設を備えた安全な環境の中で移動の便を提供する。 ひとまず船から降りると、彼らは日本式バーベキューを食べたり、 20世紀スタイルの植民情緒を売る旧時代の英国風のブティックの磨き上げられた床をすべるように動きながら、 この都市で最も洗練された商店とレストランで免税で金を使う。 埠頭の外では、雨がしとしとと降り始める。 雨のしずくはセルフ写真を撮る彼らのiPhoneにも落ちる。 最近は皆がKポップを聞いているが、若い少女はボーイフレンドの下手くそなギターにあわせて古い広東語の流行歌を歌っている。 人々はぎざぎざの形の香港のコインをカンパ箱に入れる。 風は強くなり始め、マイクで流れる広東語なまりの雑音をかき消す。 彼女の後には遊覧船が白く、そして静かに泊まっている。 これが香港の闘いだ。その香港では広東語の古いラブソングは台風に吹き飛ばされ、 死んだようなクルーズ遊覧船と金融街のあかりの下、 ショッピングモールが現れる前に消えていく。 ここの光景は、快適なエアコンと警戒線の中で安全を脅かされることなく、資本が 港や銀行、不動産市場を通じてアジア本土を略奪できるように考案された原型的な 「グローバルシティ」で暮らすしたたかな人間と対面する。 長い間、香港はアジアにおける他の西欧の活動拠点とほとんど同じ貧しい植民地の残滓以上ではなかった。 中国本土で革命が起き、産業開発と農業改革のための外国からの支援が革命の防壁としてのこの都市に注ぎ込まれたが、生活水準と福祉はすぐに改善されたわけではなかった。 この植民政権は不安定な社会を統治し、殺到する移民を受け入れるために全力を尽くすやはり暴力的な政権だった。 本土の革命後、数十年間、しばしば暴動が起きた。 1956年の反乱は、大英帝国に対する継続的な衝突の始まりになった。 別の暴動の波は1966年の春に始まり、1年後の1967年の香港蜂起で幕を下ろした。 これは香港の歴史で最大の内部紛争で、警察との間で政府庁舎の爆破や右派メディアへの標的攻撃など、全市的な市街戦を伴う大衆ストライキが起きた。 結局、5千人が投獄され、2千人が有罪判決を受け、多くの共産主義者が中国本土に追放された。 1967年の暴動の後、香港政府は百万人に低価格な国営アパートを提供する植民地改革計画などの福祉事業を始めた。 1950年代以来の製造業の大々的な発展は結局穏やかな賃上げをもたらし、香港は初期の「アジアの虎」経済国の一つとしての地位を確保した。 1980年代になるまで、中国の初の特別経済区域である海の向こうの深センとの地理的な近さ、そして中国本土との歴史的な関係により、香港は新しい開放中国につながる重要なリンクだった。 こうした基礎は文字通り「グローバルシティ」の基盤となった: 世界で最も裕福な人の1人である李嘉誠は、1967年の暴動後に暴落した不動産を買って財産を形成した。 現在も彼らの資産はこの都市の根幹を形成し、李嘉誠は金融街の主な摩天楼だけでなく、港までを所有する世界で最も忙しい人の1人になった。 港と、それを取り巻く金融構造の下で、香港は製造業から1980年代のグローバル資本主義の管理センターとしての役割を果たし始めた。 製造業が中国本土の港町に移転し、香港はこれらの新しい産業ハブを管理し、アジア本土への逆輸出の鍵としての理想的な場所になった。 香港、シンガポールと台湾、そして中国系移民の資本により、多くの新しい中国の工場地帯が作られていった。 現在、アジア系外国人による中国への直接投資は ―日本とパートナー関係にあるか日本資本の代理の[i]― 米国やヨーロッパからの投資を超えている。 今の中国本土と香港との境界の様子は、こうした分断を如実に描きだしている。 深セン側では開発団地が川に沿って急速に延びている: そこには汚染された霧の下の正体不明の、半分は空のアパート群がある。 香港側は、川に沿った緑の木の葉、森に入るだけでも特別許可が必要で、軍隊により守られた境界地域全体がグリーンベルトと農業地域だ。 一見すると、2つの世界は敵対的に見える: 深センは「ポスト産業的な」隣の牧歌的な緑地に対抗して統制や環境とは無関係のように無秩序に拡大している。 だが事実、この敵対は最も深い相互依存を象徴している。 分割された両側は相互に共同で構成される。 深センは香港資本なしでは建設できなかっただろう。 そして香港は深センの工場なしでは決してショッピングモールとオフィス タワーの世界、そして注意深く作られた牧歌的農地を持つことはできなかっただろう。 ▲深センと香港の境界[出処]Ultra 未来なき世代香港の復興期はベビーブーム世代によって形成された。 彼らの多くは最初は日中戦争の時に、そしてその次は1940年代の後半に国民党と共産党の軍による内戦の時にこの島に避難して来た移住民の子孫だ。 米国とヨーロッパ、そして逆説的には中国本土でのように、この世代は1960年代と1970年代初期にいくつかの反乱を主導した。 しかしベビーブーム世代の運動は、一部の人々が再構造化されたグローバル経済内での安全な地位を代価として、反乱に参加した人々に背を向け、結局は敗北したと定義される。 香港で、これは自由放任的資本主義の世界で最も貴重な実験の一つとなり、今もしばしば保守系の論評家の賞賛を受ける。 だがこれはまたベビーブーム世代の子どもたちへの圧力となる効果をあげた。 深センの全盛期、李嘉誠のように他人の助けを受けずに成り上がった百万長者の例は別として、当時規制されていなかった産業的な食肉処理場で働いていた親に育てられた香港の若い人たちの多くは、魂のないサービス雇用や1997年そして2007年の経済危機に直面している。 最高の大学に入るための過熱競争が強要され、その上、この体制で成功した大学生さえ異常なほどの長時間労働、所得の平均40%を住居費として支出しなければならない惨憺とした雇用を得るために戦わなければならなかった。 今日、香港家計の8.5%は年間100万ドルかそれ以上を稼いでいる。 この都市には世界最大のスーパープライム住宅市場の一つがあるが、 同時に住宅不足は深刻で、住宅価格は天井知らずで金持ちが投資目的で購入した数万軒のアパートは空の状態だ。 またこの都市は世界で一番人口密度が高い地域の一つで、住宅価格はとても高く、多くの若者は30代になっても両親と一緒に暮らさなければならない。 貧しい多くの人々は彼らがモンコックやワンチャイに出勤しなければならない「新都市」にある公共住宅に追い出される。 他の人々はビルの屋上や路地の隅に建てられた危険で苦るしい小さなスラムを探さなければならない。 50万人以上が文字通り、鳥篭の中で暮らしている。 ▲公共住宅の分布:香港の公共住宅の多くは主要都心から遠いニューテリトリーにある新都市にある。[出処:Ultra] この都市のジニ係数は0.537で先進国で一番不公平な水準であり、人口の20%以上は貧困線以下で暮らしている。 移住労働者は日常的に虐待され、団体交渉は不法で、2010年になるまで最低賃金がなかった。 1時間28香港ドル(約390円)の最低賃金が導入されたが、これはモンコクから空港までの地下鉄運賃にもならない水準だ。 一方、裕福な外国の事業家は、植民地時代に伝染病が流行した時に英国の官僚が逃避するために建設された高級アパートを買える程の金を稼ぐ。 香港はギリシャで起きたような「アノミー的崩壊」ではないが、香港の過剰労働と過消費、そして過度に都市に密集する青年たちは、失業と低賃金などでアテネを離れる青年たちと多くの共通点を持っている。 先が見えない未来の前で、多くの青年は単に出て行くことを決心する。 香港での移住は今、1990年代初めの返還前の大量移民事態[ii]以来、最も速い割合で増加している。 相変らず東アジアでの優越的な地位による相対的に低い失業率(4-5%)にもかかわらず、危機は微妙な信号を送っている: 精神健康サービスのための要求はこの十年間で2倍以上増加した。 香港の文化的な「死」やそして政府の政策に反対するありふれたデモと雪だるまのように強まる本土政府の統制について、人々が普通に話しているのを聞くことも珍しくない。 最近の学生ストライキとセントラル(そして今はアドミラルティ、モンコク、コーズウェイ・ベイとその他多くの主要地点)での(再)占拠は、こうした一連の出来事の中で現れた最近の現象でしかない。 香港の若年層は労働の分野で特権的な位置にあるが、それにもかかわらず、2007/2008年に始まった金融危機に続き、世界で若い民衆が先頭に立った反乱という同じグローバルなダイナミックスに明確に参加している。 それらの事件に参加する民衆は、正確には彼らの周辺のすべてにぼんやりと現れた経済的、環境的そして社会的な運命を感じ取り、反撃のために選ばれた「未来なき世代」の構成員の「ウルトラ(過激派)」だ。 世界でこうした活動に参加する人々の起源と経験には大きな差異がある。 一部は学生で、一部はストリートチルドレン、サッカーのフーリガンだったりサービス労働者だったりする。 このように異なる背景から出てきたこれらの暴動は、共産主義者の理論集団エンドノーツ(Endnotes)が「典型的に互いに距離を取ってきた階級分派は、別の分派を認めたり、時には共に暮らすことを強制される」という「構成問題(composition problem)」と呼ぶものだ。 問題は、どうすれば運動が「彼らの闘争過程でプロレタリア分派を」、「構成」、「協力」または「団結」させられるのかという問いの中にある。 特に、成長し始めた運動の社会的基盤として多様な経験に直面する時の質問でもある。 多くの人々からの広範囲な共鳴があったとはいえ、最終的に現場ではすでに開始段階にある運動を生産したという結論につながる。 汎民主派と情熱的市民これらの反乱は、エジプトでも、ギリシャでも、ミズーリでも、潜在的な可能性は大きなものだったが、政治的矛盾と実践経験の不足により力を失った。 ギリシャやスペインのようないくつかの地域には、若者たちが再発見し復活した凝集力のある左派政治の伝統がある。 しかし、それ以外の地域では急速に保守化し、ウクライナやタイのような地域では運動を防御し、拡張し、まとめ上げる能力を持つ極右が圧倒し、不満を抱える世代を引き込んだ。 残念ながら香港は、多くの面で前者より後者に近い。 1967年以後、共産主義指向の左派は大衆的基盤のほとんどを失い、警察により容赦なく解体された。 一方、この国家は労働者、学生などの人々が経済再構造化プロジェクトに参加することの代価として譲歩し始めた。 中国に関し、香港内での冷戦の雰囲気は、中国経済が外国資本に開放された後も続いた。 香港政府は新しく誕生するすべての急進的な小グループに中国問題についての立場を表明することを強制することで、どんな形の共産主義であれ、その蘇生を防いだ。 抗議行動における「暴力」は、今でも必ず本土の中国共産党(CCP)による扇動だと説明される。 結果的に香港のいわゆる「左派」は数十年間、主に本土の「権威主義」に対する「民主主義」というナイーブな談論に支配されてきた。 北京の天安門広場での蜂起により鼓舞され、そして無慈悲な粉砕への恐れにより、香港の急進的学生の多くは1989年以来、「民主主義」のための学生主導運動として主流メディアが描いた天安門を額面通り受け止めた。 北京では、非学生の幅広い参加、北京工人自治連合会の結成、そして学生よりも労働者を重い犯罪として長期間の刑を課すという国家の決定にもかかわらず、運動のメッセージの主導権を握り、政治・経済体制の自由化に向けた要求を西欧のリベラル層に呼び掛けたのは学生たちだった。 イメージは歪められ、その影響はただ香港で増幅された。 [原文]Ultra-com.org
Created byStaff. Created on 2014-10-27 03:13:27 / Last modified on 2014-11-21 05:26:51 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ |