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LNJ Logo 太田昌国のコラム : 論理と倫理のタガが外れた現代社会を象徴することには……
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 ●第93回 2024年8月10日(毎月10日)

論理と倫理のタガが外れた現代社会を象徴することには……

 オリンピックの実況中継は、アナウンサーと解説者の興奮した声が暑苦しく、また国旗を掲げて声援を送る観客の姿も見苦しいから、見ない。でも、定時ニュースにもオリンピック報道は紛れ込んでくるから、まったく目に触れないというわけにもいかない。開会式も見なかった。ところが、ネット上で、開会式ではダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をパロディー化した演出があって、それはキリスト者を愚弄し嘲笑するものだという、いきり立った意見が出ていたり、マリー・アントワネットと思しき人物が斬首された自分の生首をもって登場したとのニュースも流れたりしたので、関心を持った。ネット上ではその画像をすぐ検索できた(写真)。見ると、前者は明らかに「最後の晩餐」ではなく、ギリシャ神話の「オリュンポス山の神々」あるいは「バッカス(ディオニュソス)の宴」の引用だ。豊穣、祝祭、饗宴を表現しているのだから、テーブル中央の大皿の上で肌を青く塗った裸体の男が歌い踊るのも不思議ではない。フランス文学者の石田英敬氏もX上で、ル・モンド紙の記事を引用しながら、それをいち早く指摘していた。ところが、キリスト教世界保守派の怒りは収まらない。女装のドラッグクイーンやトランスジェンダーのモデルも登場していることで、反LGBTQ感情を煽られているのだとの解釈も目にした。

 開会式の芸術監督を務めたトーマス・ジョリーは式典の後、AP通信にこう語った、という。「私の願いは、破壊的になることでも、嘲笑うことでも、ショックを与えることでもない。何よりも、分断ではなく、愛のメッセージ、多様性を受け入れるメッセージを送りたかった」。パリ五輪の公式Xページでは、このシーンの写真を掲載し、「ギリシャ神話の神ディオニュソスの解釈は、人間同士の暴力の不条理さを私たちに認識させる」と説明しているとの報道もあった。それでも、キリスト教世界からの非難が押し寄せたせいか、国際オリンピック委員会(IOC)はこの件に関する公式声明を発表し、「いかなる宗教団体や信条に対しても無礼な意図はまったくなかったというパリ2024組織委員会の説明をIOCは受け止め、歓迎する」と記した。また、「特定のシーンで気分を害した人がいたとしても、それはまったく意図的なものではなく、彼ら(組織委員会)は申し訳なく思っている」と結んでいる。

 不思議な対応だなと思う。公式Xページでも、「ギリシャ神話の神ディオニュソス」と明快に記しているのだから、もともと「最後の晩餐」とはまったく無関係にこの構図が選ばれていることは一目瞭然だ。横長のテーブルを囲むように、12人の「使徒」らしき人物が配置されていると、「最後の晩餐」しか思い浮かばず、「ギリシャ」も「バッカス」も「饗宴」も視野に入らぬほど、キリスト教徒たちは自己中心の狭い世界に安住しきって生きているのか。「外」の世界での表現に対して無知なのか、関心もないのか。伝統長きキリスト教世界といえども、「知的伝統」はどうなっているのか、はなはだ心許ないことだ。

 因みに、マリー・アントワネットの首については、すぐ次の指摘があった。29年前の萩本欽一の仮装コンクールで、今回のパリでの開会式で見られたような芸が、「落ちちゃった」というタイトルで披露されたことがあったという。世の中は広い、29年前のアーカイブ映像をすぐ取り出してくるひとの存在に、つくづく感心した。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2407/27/news073.html

 前々回の当コラムで触れたトヨタ会長の「ブルータス、お前もか」という名台詞の誤用といい、作品を取り違えて手前勝手に怒り出す今回の一部のキリスト者の在り方といい、これらはいったい何を象徴しているのだろうか。同じようなことは、8月9日、長崎で開かれた「平和祈念式典」をめぐるいくつかのエピソードからもうかがわれる。この日、誰が投稿したのか、ツイッター(現X)に、安倍・菅・岸田の歴代首相が、広島か長崎での「平和祈念式典」で語る一場面の様子がアップされた。懐から取り出した巻紙を読み上げる三人は、異口同音に次のように語っていた。「この地がこのように美しく復興を遂げたことに、 私たちは改めて乗り越えられない試練はないこと、そして、平和の尊さを強く感じる次第であります 」。

 「式典」そのものに孕まれる形骸化の極致とでも言うべきことを、これらの首相たちは、怠惰なスピーチライター(演説原稿執筆者)ともども毎年繰り返し行っているのである。さらに今年は、新たなエピソードが生まれた。広島市は例年通りに「式典」にイスラエル代表(駐日大使)を招待し、長崎市は招待を取り止めたのである。それを知った駐日米国大使は、未だに世界を支配していると錯誤している「G7」の、日本以外の国々を誘って、大使が長崎の「式典」に参加することを取り止めた。「侵略されたイスラエルが、侵略したロシアと同じ理由で、長崎の式典に招待されないのは受け入れられない」という理由である。これとて、歴史上、民間人が住まう地域に2度にわたって原爆投下を行ない、大量虐殺を実行した世界で唯一の国である米国が、それから79年後の現在に至るまで、一度もその行為を謝罪することもないままに、核兵器廃絶を願う式典に招待され、それを率先して実現する気もないくせに2010年以降は億面もなく参加していたこと自体が、おかしなことだったのだと言わなければならない。式典行事の主催者である広島市と長崎市に心ある市長がいたとして、米国にも変わることなく式典への招待状を送っていたとすれば、何事も一足飛びには行かない国際的政治状況のただ中にあって、せめても誠意ある大使に出会うことができるならばという一縷の望みを託したからだろう。しかし、2016年にG7会議のために来日した当時のオバマ米大統領が、岩国米軍基地にまず降りて戦時に備えて日々訓練を行っている米軍兵士たちを「激励」し、その後に広島平和公園にヘリで降り立って、「 71年前、ある晴れた雲一つない朝、死が空から落ち、世界が変わりました。一つの閃光と火の海が街を破壊し、人類が自らを破壊する手段を手に入れたことがはっきりと示されたのです」を冒頭の文句とする演説をした以上、米国の政治的指導層が自らの歴史的な罪状に気づくことは困難を極めることだということを誰もが改めて自覚したのだ。行為の主体が明確な事柄に関して、敢えて主語を不明確にして、あたかも自然現象であるかのごとく「死が空から落ち」などと表現して恥じない人びとがいることに、私たちは今さらのように驚いたのだ。

 パリ・オリンピックと、「被爆地」での平和祈念式典――性格を異にするふたつの行事から透けて見えてくるのは、論理と倫理のタガが外れた現代社会の地金が至る所で噴出しているという、そぞろ侘しい現実なのだろう。


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