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LNJ Logo 12月1日は「学徒出陣」の学生たちが「陸軍」へ入営した日から80年目です
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投稿者: 小野政美

「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)事務局の小野です。

◆本日、2023年12月1日は、1943年(昭和18年)12月1日の朝、「学徒出陣」の学生たちが
「陸軍」へ入営した日から80年目です。12月9日・10日には、「海軍」へ入営しました。

◆現在「一時休戦」中ですが、この間、イスラエルによるガザへのジェノサイド(大量殺
戮)が続けられ、ガザでは1万4000人以上の人々が亡くなり、乳幼児を含む子どもたちは5
千人を超えています。世界各地、日本各地で抗議行動が行われています。私の住む名古屋
でも、毎週日曜日夜に抗議行動・デモが続けられています。参加者の多くは東海地方で働
く10か国以上のイスラム圏の人々と家族で、多くの国々の子どもたちと一緒に、「ガザ虐
殺やめろ!」「子どもを殺すな!」と叫びながら歩いています。
現在、岸田政権は、閣議決定で決めた「敵基地攻撃」を含む「安保3文書」により、日米
韓軍事同盟拡大、沖縄・琉球列島での軍事基地建設、軍事費拡大、武器油輸出など「新し
い戦時体制」を着々と進めています。

このような厳しい状況の下で開催される<「わだつみ会」不戦の集い>にぜひご参加くだ
さい。

◆「わだつみ会」2023年<不戦のつどい>にご参加ください!

今年2023年は『学徒出陣』から80周年を迎えます。1943年の勅令によって『学徒出
陣』が決定され、10万人を越える学生・生徒が戦地に動員されました。『学徒出陣』は
日本の占領下にある朝鮮半島でも、台湾でも実施されました。そして多くの学生・生徒た
ちが戦場で命を失いました。

日本戦没学生記念会は、戦死した学徒たちの遺念を継承し、不戦と反戦、平和を求めて、
遺族、戦場から戻った学生たち、大学生、高校生、教員を中心に、1950年4月に結成され
ました。

「わだつみ会」は、1988年に規約を改定し、1995年の「敗戦50年目の決意」で
「再び戦争の悲劇を繰り返さないため、戦争責任を問い続け、平和に寄与する」との姿勢
を明らかにしました。

ウクライナ戦争が続き、イスラエルによるパレスチナ・ガザ攻撃も続き、戦争が現実のも
のとなり、欧米諸国だけでなく日本も戦争に関与しています。アジアでは米国によって「
台湾有事」などの中国との対決、戦争準備が煽られ、岸田内閣は大軍拡と敵基地攻撃など
の戦争準備を進め、沖縄へのミサイル基地の増強と戦争準備を行い、日本でも戦争の危険
性が拡大しています。

そうした情勢のなかで、私たちは「『学徒出陣』80周年のわだつみ会の声明」を発表し
、戦争準備行為を止めさせ、「絶対不戦」を守りぬくことを訴えたいと思います。12月
16日の「不戦のつどい」では、「わだつみ会」理事として、「侵略戦争を支えた教育を
問う」「国民の戦争責任論」など教育者の、そして国家の戦争責任を追及されてきた安川
寿之輔さん(名古屋大学名誉教授、「わだつみ会」理事)を講師として、「いま、なぜ、
『学徒出陣』なのか~『学徒出陣』80年の歴史的意味を考える~」を講演していただき
ます。ぜひご参加ください。

<<「わだつみ会」2023年<不戦のつどい>>

◆日時:2023年12月16日(土曜日)

◆会場:全水道会館(小会議室)東京都文京区本郷1-4-1(JR中央線・都営三田線水道橋
下車5分;白山通り)

◆開場:18:00 開会18:30~20:30

◆資料代:800円

発表:「わだつみ会『学徒出陣』80周年声明」の発表

講演:いま、なぜ、「学徒出陣」なのか~「学徒出陣」80年の歴史的意味を考える

講師:安川寿之輔さん(本会理事・元事務局長・名古屋大学名誉教授)

主催・日本戦没学生記念会(わだつみ会) 共催:不戦兵士を語り継ぐ会

 

◆ZOOM参加:ZOOMを使用しての参加をご希望される方は12月14日までに下記アドレスに、
お名前と住所をご連絡ください。

申し込みEメール gorillaono@gmail.com 小野政美(先着100名まで)。

参加申し込みされた方には、ZOOM URLとパスワード、資料を送ります。

◆ZOOM参加者の参加費は無料ですが、①『わだつみのこえ』(送料込み1000円)の購読申
込(gorillaono@gmail.com 小野政美)や�ヘ②「わだつみ会」へのカンパをぜひお願い
します!

◆郵便振替口座:00170-0-161293   日本戦没学生記念会

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「学徒出陣」について

「学徒出陣」とは、「アジア・太平洋戦争」終局の1943年(「昭和」18年)に兵力不足を
補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系〈および
農学部農業経済学科などの一部の理系学部の〉学生を在学途中で徴兵し出征させたことで
す。日本国内の学生だけでなく、当時日本の統治・占領下の台湾や朝鮮、「満洲国」や日
本軍占領地、日系二世の学生も対象にされました。

日本は、1931年(「昭和」6年)の「盧溝橋事件」、1937年(「昭和」12年)の「支那事
変」)の中国侵略戦争、続いて1941年(昭和16年)からは「太平洋戦争」(「大東亜戦争
」)を続け、「アジア・太平洋戦争」によるアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持
や1942年(「昭和」17年)以降の「戦局悪化」で戦死者数が増加したため、次第に兵力不
足が顕著になりました。

それまで、「兵役法」などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)など
の学生は26歳まで徴兵を猶予されていましたが、兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の
対象は狭くされていきました。

◆当時の文部省の資料によれば、当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・旧制高等
学校などの総計)は5%以下で、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の
実数は多くありませんでした。その前段階ともいえる旧制中等教育学校でさえも進学率は
13%前後に過ぎず、特に、中学入学者についてみると進学率は8%くらいでした。1943年(
「昭和」18年)2月現在の『文部省年報』によると、大学生(予科を含めて)が103,579名
、旧制高等学校生が28,491名、旧制専門学校生が16,373名とし、総数290,443名(内女子
が31,944名)となっています。

1943年(「昭和」18年)の徴兵対象者拡大の際、学徒出陣の対象となったのは主に帝国大
学令および大学令による大学(旧制大学)・高等学校令による高等学校(旧制高等学校)
・専門学校令による専門学校(旧制専門学校)などの高等教育機関に在籍する文科系学生
であった。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、徴兵検査を受け入隊した。

これに対して理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶予が継続され、
陸軍・海軍の研究所などに勤労動員されました。ただ、農学部の一部学科(農業経済学科
や農学科)の学生には、他の理科系学生のような徴兵猶予(召集延期)が存在しませんで
した。また、教員養成系学校(師範学校)の理系学科(数学、理科)に在籍する者も猶予
の制度が継続されました。

1943年10月20日、陸軍省令第48号「陸軍特別志願兵臨時採用規則」が公布され、朝鮮人・
台湾人学生を対象として特別志願兵が募集されました。表向きは志願兵でしたが、文部省
は、各大学に、志願しない学生に対する休学・退学措置を命じました。このうち朝鮮人の
学生たちは、4,300人以上と言われています。

「出陣学徒壮行会」第1回は東京・台北で同時開催され、国外、その他国内各地方でも開
催されました。1943年11月以降は開催されず、出陣学徒の人数は伏せられました。

◆1943年(昭和18年)10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会
」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施され、全国各地の大学などでも「出陣学徒壮行
会」が行われました。その後、全国で、「徴兵検査」が行われ、1943年(昭和18年)12月
1日、陸軍へ入営し、12月9日・10日に海軍へ入営しました。

1943年(昭和18年)10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」
が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施されました。壮行会の様子は社団法人日本放送協
会(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い、映画「学徒出
陣」が製作されるなど、「学徒出陣」が劇場化され軍部の民衆扇動に使われました。

1943年(昭和18年)10月21日は、強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵
猶予された理工系学部生、中等学校(旧制)生徒、女学徒などが計96校、約5万名が学校
ごとに集められた)の前で、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・高校・専門学
校からの「出陣学徒」(東京帝国大学以下計77校)は、学校ごとに大隊を編成し、大隊名
を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い整列
しました。

明治神宮外苑競技場では、入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍
戸山学校軍楽隊)、「宮城(皇居)遙拝」、岡部長景文部大臣による「開戦詔書の奉読」
、東條英機首相による「訓辞」、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による「答辞」(
本人のものではなく、大学当局が準備したもの)、「海行かば」の斉唱などが行われ、最
後に競技場から「宮城(皇居)」まで行進して終わりました。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(「昭和」18年)12月1日、陸軍へ入営し
、12月9日・10日に海軍へ入営しました。

入営時に幹部候補生試験などを受け将校・士官として出征した者が多かったが、戦況が悪
化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化
した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出しました。

1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化して
くると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れました。

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されず、大
学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるために未だに不明
な点が多く、出征者は約10万人、11万人という説もありますが、いずれも推定数で死者数
に関しても正確な数は分かっていません。

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