〔週刊 本の発見〕『教育は社会をどう変えたのか 個人化をもたらすリベラリズムの暴力』 | |||||||
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毎木曜掲載・第227回(2021/10/28) 根底にある頑とした能力主義『教育は社会をどう変えたのか 個人化をもたらすリベラリズムの暴力』(桜井智恵子著 明石書店)評者:志水博子衆院選終盤、相も変わらず言葉が踊っている。“既得権益打破” “身を切る改革” “新しい資本主義” “日本再生への新たな挑戦”・・。いつも思うのだが、言葉のイメージに惑わされたくはない。どういった文脈でどのような構造の中に置かれた言葉であるのか、吟味が必要だ。例えば、“既得権益打破”とは、いかにも改革のイメージがあるが、いったい何を狙いとし、どのような「改革」を目指しているかが問題である。結局、変わるには変わったが、以前より悪くなったというのはありがちのことだ。 本書の著者である桜井智恵子さんの講演を何度か聞いたことがある。関西弁の柔らかな口調ながら核心を突いた発言にこちらの既成概念や言葉のイメージが見事に覆される小気味良さがあった。その桜井智恵子さんの新刊である。ページをめくるごとに、私の中にあった教育を巡るもやもや感と言おうか、いらいら感が解消されていく爽快感があった。 ここ10年ぐらいであろうか、新自由主義的教育に対する批判が巻き起こっている。たしかに大阪の「教育改革」のありようを見ていると、すでに公教育の崩壊が始まっているといってもよい。しかし、では、新自由主義の狩場になるまでの以前の公教育は、そもそも普遍的であったのだろうか。 本書は、まず新自由主義の親ともいえる現代リベラリズムを俎上に載せる。近代公教育は能力原理に基づき、「ありのまま」であることを許さず、絶えず「指導」と「改良」を加えてきた。そこでは政治経済社会が生み出した環境や状況は問われることなく、「生きる上での困難」を乗り越えられないことは個人の問題に矮小化される。「個人化」は、暴力的なものであるにもかかわらず、多くの人々はそのことに無自覚であると著者は批判する。 なるほど、成長・向上・自立・支援、これらはプラス価値の言葉として、今なお疑われることのない「教育」的価値であり、人々を取り込んできた。そういう私もその1人であるが、その反面、違和感もまた感じてきた。人権を説きながら、自由を標榜しながら、学校における成長と競争の根底にあるのは頑とした能力主義である。それが自責他害を生み出す暴力的な構造であることを著者は戦後の経済的教育史によって明らかにしていく。つまり、いま大人も子どもも抱えている生きづらさは、学校すなわち教育に立脚点を置くだけでは見えてこない。資本主義経済の中で捉える必要があることがわかる。 道徳教育も然りである。戦後民主的社会が必要としたのは経済的愛国心であり、道徳が教科化した現在、資本制公教育の本質を踏まえた指摘が重要であると著者はいう。ここでも資本主義経済との関連における批判が必要ということか。「子どもの貧困」問題も然りである。それが何を隠蔽したか、そもそも貧困をつくりだす構造こそが問われなければならないのではないかと。 そして、マルクスやフーコーを参照軸としながら、個人化されない自由、「能力の共同性」を説く。それはそれで興味深かったのだが、私は、名前だけは知っていたもののこれまで読んだことのなかった岡村達雄の近代公教育法制批判に得心した。例えば、第5章の冒頭に示されている、「教育を受けることを権利として保障し、その保障を通して教育における国家支配を実現していくような体制である。いいかえれば、『保障』を通して『支配』を実現し、『支配』を実現するために『保障』を行う教育体制である。」と。さらに岡村達雄が指摘したという「普通学校の差別性」、まさに今の学校に通じるではないか。 そして、「個に応じて」多様に分けていく特別支援教育の時代、筆者は「能力の物差しで選別されることによって構造的貧困が再生産され、それは構造的暴力につながる」という。では、モンスターは誰か? 現代リベラリズムが育てた能力に基づき努力することをなんら疑おうとしない“優秀な”人々、つまり彼らは私たち社会が育てたモンスターである。 終章では、デヴィッド・グレーバーがマルクスの言葉を引用する件が紹介されている。その言葉が素敵である。 「『各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて』という原理から出発すると、個人的所有権又は私的所有権の問題、そしてより直接的かつ実践的である、誰がどのような条件でなにを入手しうるのかという問題を無視することが可能になる。」 そして、グレーバーを参照軸として、今、文科省が進めている「個別最適化」とは正反対の方向性が示される。個別最適化が個人化に基づく以上、競争を伴い、排除・疎外が必然的に生まれるのに対して、「能力の共同性」のもとでは競争は起こりえない。したがってそこでは「業積承認」は姿を消し「存在承認」が有効となる。ひいては、それが資本主義社会の価値観を揺さぶる。まさにその時、「各人はその能力に応じて」から「各人にはその必要に応じて」へのダイナミックな転換が可能になるのではないだろうか。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2021-10-28 10:04:22 Copyright: Default |