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毎木曜掲載・第206回(2021/5/27)

今、やらなければならない仕事

『時務の研究者 姜徳相―在日として日本の植民地史を考える』(姜徳相聞き書き刊行委員会編、三一書房、2021年4月刊、2200円)評者:佐々木有美

  まず、本のタイトルの「時務」がわからない。姜徳相(カンドクサン)という人も知らない。でも、なぜか惹きつけられて本書を手にした。一気に読み了えた。本書は、在日の朝鮮史研究者・姜徳相のライフヒストリーである。簡潔で淡々とした語り口の中に、氏の人生の容易ならざる葛藤が浮かびあがる。姜は1932年、当時日本の植民地だった朝鮮に生まれた。二歳の時、両親と共に日本へ。だから朝鮮語はまったく話すことができない。日本人の子どもたちからは、こんな囃子言葉を浴びせられた。「同ジ飯食ッテトコチガウ、朝鮮、朝鮮、パカニスルナ」。弁当はキムチの匂いがするので持っていかない。母親を町で見かけると逃げる。そして創氏改名で日本名を持つことになった。姜は日本人になろうと努力し、模範的な皇国少年に育っていった。

 1944年に、都立多摩中学に入学したが、本籍が朝鮮だとわかると合格を取り消されそうになる。私立はもっとひどく、朝鮮人の子どもに高等教育の門は閉ざされていた。そして日本の敗戦。姜少年は、少しずつ朝鮮人としての意識を取り戻していく。しかし、自分の出自はずっと隠し続けた。本書には、その過酷さが随所に出てくる。日本人に隠しただけではなかった。高校のとき隣の席の生徒は朝鮮人だったが、互いに最後まで自分が朝鮮人だと明かせなかったという。戦前の日本で日本人になり切ろうとした在日は、戦後は、自分が何者であるのかを探し求めた。

 姜の人生に決定的な影響を与えた二人の人物が本書に出てくる。一人は、在野の朝鮮史研究者、『日本統治下の朝鮮』などの著作で知られる山辺健太郎だ(写真右)。山辺宅を訪ねた姜の第一印象は「ものを片付けない人」というものだった。部屋の一角に穴をあけてそこにゴミを捨てていたというエピソードも山辺の豪傑ぶりをうかがわせる。高校の教員の影響で、中国近代史をテーマにしていた大学生の姜に、山辺は「朝鮮人なら朝鮮の勉強をせよ」「朝鮮史は日本史の歪みをただす鏡だ」と語った。山辺の言葉は大きかった。姜は、朝鮮人としての自分を隠して来た過去と決別し、「朝鮮人宣言」をする。そして朝鮮の勉強をして自分を取り戻そうと決意する。

 もう一人は、『朝鮮人強制連行の記録』を著した朴慶植である。タイトルの「時務」は朴の言葉だ。「時務」とは、「今、やらなければならない仕事」という意味。朴は日本に朝鮮人を連れてきた日本の責任を問うのが自分の「時務の歴史」だと言った。朴の言葉を受け止めた姜は、「時務の歴史」として、その頃手つかずの分野だった関東大震災時の朝鮮人虐殺の研究へと突き進んでいく。

 本書を読んで驚いたことがある。姜は、朝鮮総督府の元役人たちが作った「友邦協会」のゼミ「朝鮮近代史料研究会」に参加していた。ゼミは1958年から10年間続き500回を数えた。元総督府のメンバーは、植民地時代、自分たちのやったことを率直に語り、学生の反論は反論として受け止めたという。誰にでも開かれた自主ゼミは、戦後日本の朝鮮近代史研究の揺籃の地となった。在日、日本人、韓国の留学生らがここに集った。その頃、どこの大学にも朝鮮史、朝鮮近代史研究の講座はなかったという。日本の植民地支配の真相・深層は、大学ではなく民間の自主ゼミの中で明らかにされていったのだ。そこには、歴史に背を向ける日本と、自らの歴史に向き合おうとする人々との鮮やかなコントラストがある。

 姜は、「歴史を体の芯にきちんと捉えていくことが大切だ」という。「歴史意識は人の心をつくる。風が吹けば砂は飛ぶだろう。だけど石は飛ばない。自分の考えを持っていれば飛ばない。風で飛ぶな!」。植民地支配も、侵略の歴史にもフタをしてきた戦後の日本。

 被害に対し謝罪も補償もしようとしない姿勢はますます強まっている。つい最近も、「従軍慰安婦」を「慰安婦」とし、「強制連行」を「徴用」とする閣議決定がまかり通った。歴史に目を閉じる日本人は、どこまで飛ばされていくのだろう。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、ほかです。


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