太田昌国のコラム : 茨木のり子長編詩「りゅうりぇんれんの物語」の朗読を聴いた | |||||||
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茨木のり子長編詩「りゅうりぇんれんの物語」の朗読を聴いた私が住む町で、つい先日「茨木のり子没後15年の集い」が開かれた。かの女の詩「六月」の一節から採った「どこかに美しい人と人との力はないか」が、集いの名称である。その生年と没年は、それぞれ、1926年/2006年だが、かの女は後半生の48年間をこの町で過ごした。そのことに「縁」をおぼえる町の人びとが集まって、かの女が遺した詩、エッセイ、そしてその生涯をめぐって、会報を出したり、詩の朗読会や講演会を開いたりしている。今回は、没後15年ということで規模の大きな集いだったが、折からのコロナ状況下で、入場できたのは会場定員の半数である百数十人に留まった。台風が近づき、風雨の強い日だった。会場は、交通の便が決してよくはない立地だ。来場者も、ご多分に漏れず、中年から高齢者が多い。それでも、予定席は埋まった。個人ができること、主催者が気をつけるべきこと――こうして、コロナ対策を講じた上で、講演・公演・上映・コンサートなどを続けてきている人びと、そして明らかに減ったとはいえその場へ赴く人びとが、このコロナ禍の一年半の間、絶えることはなかった。人間の本来的な在り方として、ひとが集う機会を失いたくないと思う人びとが存在していることは貴重なことだと思う。(*写真=茨木のり子)当日のプログラムは盛りだくさんだった。茨木のり子の詩に曲をつけて、ソプラノ独唱・ピアノソロ・合唱・ピアノ弾き語りなどの、音楽表現が多かった。私がとりわけ注目したのは、茨木のり子の詩の朗読だった。「りゅうりぇんれんの物語」と題する長編詩である。すべてを読み上げるのには、優に30分以上はかかり、ひとつの物語をなしている。 「りゅうりぇんれん」とは中国人の名前で、「劉連仁」と書く。山東省に住んでいた彼が、大日本帝国が立案した「華人労務者移入方針」に基づいて、結婚したばかりの妻と暮らす「日常の場」である生活圏から突如狩り出され、他の800人くらいの中国人とともに青島を経由して日本へ強制連行されたのは、1944年9月のことだった。日本の無条件降伏のわずか11ヵ月前のことである。2ヵ月後、劉連仁たちは、北海道は雨竜郡沼田町の明治鉱業昭和鉱業所の炭鉱労働者として強制労働に使役された。(雨竜郡沼田町といえば、山谷をはじめ各地の日雇い労働者の運動に力を尽くした故・山岡強一さんの故郷である。1980年代前半、山谷では、組織暴力団・ヤクザ・右翼が一体となった者たちが、日雇い労働者に敵対する行動を日々繰り返していたが、1986年1月13日、そのうちの一人が山岡さんを射殺した。) 45年7月――あとで思えば、日本が敗戦を受け入れる1ヵ月前ということになるが――劉連仁は仲間と、過酷労働を強いられる炭鉱からの脱走を図った。以後13年間、「終戦」を知ることもなく、途中からひとりになりながらも、山中での逃避行を続けた。そして1958年2月8日、石狩平野の一角に在る当別町で穴ぐらに潜んでいるところを地元民に発見されて、大騒ぎになるのである。札幌市、北海道庁、警察、中央政府が責任の所在を明確にせず、たらい回しを続ける中で、民間の日本人・中国人の努力で、「りゅうりぇんれん」の身元は判明した。だが、東京では、劉連仁が故郷から狩り出された「華人労務者移入方針」を練った旧大日本帝国の元商工大臣が、責任を取るどころか、首相の座にあった。こんな摩訶「不思議な首都」(茨木)に立ち寄ってから、同年4月、劉連仁は故国へと向かう船の中にいた。故郷には、妻と、14歳になった、まだ見ぬ息子が居ることがわかっていた。 劉連仁は帰国してすぐ『穴にかくれて14年――中国人俘虜流連仁の記録』を出版している(新読書社、1959年)。その後は、野添憲治や早乙女勝元が書いたノンフィクションもあるが、茨木のこの長編詩の初出は1961年1月号の詩誌『ユリイカ』だから、反応がきわめて早い。しかも、すぐれた作品だ。ところで、個人的なことだが、私には問題が残る。りゅうりぇんれんが西北海道の札幌近くで「発見」された時、私は、東北海道の釧路市で中学2年だった。後年、当人の手になる「記録」や茨木の詩、野添・早乙女らの作品を通して得ることになる知識と、当時の地元紙・北海道新聞で読んでいた記事との区別が判然としない。否、新聞記事の様子が、まったく思い出せない。一年後の59年1月、「カリブ海の島国、キューバで政変(革命?)」の記事は、見出しがどこまで正確かはともかく、ぼんやりとでも視覚の裡にあるのに。それだけに情けない。茨木のり子の、忘れ難い長編詩の朗読に初めて耳を傾けながら、私はしきりにそのことを思っていた。山岡さんと劉連仁の話をしたことはあったか? それもまた、薄明の彼方だ。 因みに、朗読したのは、元フジテレビ・アナウンサー、山川建夫氏だった。朗読活動をしているが、この長編詩の朗読を依頼されることはほぼなかったようだ。 Created by staff01. Last modified on 2021-08-10 19:16:16 Copyright: Default |