木下昌明の映画の部屋・番外編〜「育てた」がん、その後 | |||||||
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●木下昌明の映画の部屋・番外編(2020/5/29) 「育てた」がん、その後〜志村けんの病院にて*抗がん剤点滴中の著者(2019年6月のとき) 4月27日朝、わたしは入院した。志村けんが亡くなった病院に。娘が重いナップサックを背負って付きそってくれた。わたしの場合、新型コロナウイルスではなく、抗がん剤の点滴を受けるためだ。 病院の玄関に「37度5分以上熱のある方は入らないで下さい」と大書した張り紙があった。受付には何人もの看護師がマスクを着用してずらりと並んでいた。外来患者の通路には看護師たちが入ってくる患者の一人一人に声をかけ、額に体温計をあて、「何科に行かれるんですか?」と問うていた。わたしは、「入院するんです」と応えると、「左手の入院受付に行って下さい」といわれた。院内には張りつめた空気が流れている。いまやこの病院だけでなく、世界は新型コロナ一色。生まれて長いが、こんな事態ははじめてだった。 では、こんな時期になぜわたしは入院などするのか。そこは家から最も近くにある、かかりつけの病院だったからで、わたし自身の体もニッチもサッチもいかなくなっていたからだ。 がんは限界まできていた。一つは2012年12月に、わたしのお尻にがん(直腸がん)がみつかり、もう一つはその検査の際に、前立腺にもあるとわかった。その二つが年月とともに肥大してきた。わたしは訳あってこの二つのがんを手術せずに「育て」てきた。 お尻の方は、おなかに穴をあけてストーマを装着して、そこから便を排出することにした。がんが下腹部にとぐろを巻いても、このバイパスさえあればふだんのように食事ができる――これが大いに助かった、その後、お尻のがん自体は放射線で治療して消えた。 しかし、時がたつにつれ、再びがんが発生し、それが大きくなり、出血するようになった。「このまま放置していては出血で命がない」と担当医にいわれた。やむなく出血を止めるために抗がん剤の治療をはじめた。初めに「イリノテカン」という植物の根から抽出された点滴を使った。これは新宿御苑にも植わっているそうだ。これによって出血が止まり、がんも小さくなった。ありがたや――と思った6回めの検査のとき、医師は「イリノテカンの副作用で間質性肺炎にかかっている」と警告した。「これ以上点滴はつづけられない」と。 後でがんの本など読んでわかったが、抗がん剤でがんは小さくなるが、間質性肺炎で亡くなる人も多いという。CTの検査でも肺炎の兆候がでていた。わたしは、しばらく弱い抗がん剤をのんで体の回復をはかった。体力を維持するために散歩もした。しかし時がたつにつれ、がんは大きくなり、出血もするようになり、ジーパンを真っ赤に染めることもあった。 一方、前立腺の方は、進行がゆっくりなので、泌尿器科の医師と相談して、何種類かの錠剤をとっかえひっかえして、がんを抑制してきた。 前立腺の腫瘍マーカーは、基準は「PSA」0・00〜3・99までが正常値なのだ。私の場合、いつも10以上と高く、現在は62・38だから相当高い。多くの患者は、4を超えるとすぐ「先生手術して下さい」と頼みこむのだ。が、わたしの場合、医師と葛藤しながら手術しないでやってきた。
ところが最近、医師は「骨がおかしい」といいだした。これは前立腺がんから転移したものだ。そこで骨のシンチグラフィー検査をすると、上半身の背骨から首にかけて骨が黒くなっているではないか。医師は画像をみて「骨全体ががん化していますね」と説明し、「頭骨の一部にも黒い斑点があります」と指摘した。その話を聞いて「こりゃダメだわ」と観念した。内臓ではないのだが、樹木希林のように「全身がん」ではないかと思った。脚の一部にも黒い斑点がみられたが、ふしぎと痛みはない。 最近、もう一つの問題が出てきた。それはお尻のがんが肥大するとともに、尿道のましたにもがんが膨らみ、頻尿とともに尿がつまってきたことである。これもがんが縮んでくれれば少しは出やすくなるのではないか――と、あらぬ希望を抱いている。 ともあれ、ここまできたら医師の話をよく聴き、自分で考え考えしながらやっていくしかない。そんな訳で、コロナ騒動にかかわらず、今回わたしは入院したしだいなのだ。 ところが病院の受付を通り抜けると、なかはがらんどう。テレビやネットの動画をみると、医療従事者が右往左往して戦場の雰囲気なのに、ここはがらんとしている。コロナに怖れをなして、患者がいっせいに逃げだしたかのようだ。いつも超満員の待合室にも人っ子ひとりいない。これでは完全隔離の病院の方が安全ではないか、といいたくなる。しかしその一方こんな話もある。 それは年長の友人が語った話。かれは認知症で入院している妻のもとに、毎日のように自転車で見舞っていた。それが日課だった。かれの妻はこのおじさんが気に入り、「結婚しよう」と話しかけたこともあったという。が、コロナ騒動があってからというもの、夫であっても面会禁止とされた。かれは力なく「生き別れです……」と。なんとかならないのか、と思ってもどうにもならなかったという。 わたしの治療は28日からはじまった。「オキサリプラチン」を点滴し、ゼローダ錠をのんで体調をみる。人によってはいろいろ副作用が出てくるが、わたしはまだない。オキサリプラチンはプラチナの粉末で毒性が強く、手足がしびれることもあるから、用心しなければならない。 入院して一番ショックを受けたことが一つ。それは治療上の問題ではなく、看護師から「身長、体重をはかりましょう」といわれたときのことだ。測定器は、全面ガラス張りのナースステーションがある、廊下をへだてた窓際におかれている。ここは10階なのだ。そこから、林立したビルの一角や車道が見下ろせる。 わたしは最初に体重をはかった。「58.5」と看護師がいった。やせたなぁ、と思いつつも納得した。がんになる前は74キロあった。それが徐々に減ってきたのを知って、家にある体重計で時折はかっていたからだ。しかし、なんとか60から63キロまでを維持しようと、ときには無理して食事をとったこともある。また、散歩したり鉄棒したりもした。わたしは、がんに対する最大の抵抗力は、たらふく食べ、運動をして筋力をつけることだと、励んだ。しかし、体重を維持するためだけの運動だと、すぐにいやけがさしてくる。 つぎに身長をはかった。看護師が「172センチ」といった。これにはぎょっとした。「そんなはずはない。もう一度はかってよ」というと、看護師も負けずに大声で「172センチですよ」といった。一瞬、この身長計おかしくないか、と思わず上を向いた。若いころ、いつも180センチに届く高さだった。それなのにこんなに縮んでしまったのか。ふと亡くなった母を思い浮かべた。母は老いて少しずつ縮んでいった――あれが老いの象徴だった。わたしはいま、その象徴を生きている。 病院は夜になると、救急車の音がひんぱんに聴こえてくる。ここは救急病院でもある。深夜、忙しげに働く人々の姿が映画のように浮かんでくる。志村けんもそういうさなかに運ばれてきたのだろう。 4月30日、外に出られないので、廊下のあちこちを歩き回った。病院は広くて気持ちいい。しかし、人々のいない院内は空虚でもある。誰もいない地下の、そこだけ明るいコンビニに寄り、プリンやビスケットやカルピスを買って、一人薄暗いフードコートで食べた。 病院にいて唯一明るいのは、若い看護師たちのはなやいだ笑いと、何でも「ありがとうございます」の声だった。車椅子の老人をトイレにつれていっても、「ありがとうございます」と声をかける。それがおかしく楽しかった。 5月1日の夜、看護師がわたしの体温をはかると「8度5分もある」ともらした。わたしは一瞬、さては感染したか、と覚悟した。感染したとなると、わたしは最も危険な状況におかれたことになる。抵抗力のない老人で、間質性肺炎の上に免疫力も落ちているから、いっぺんにあの世行きとなる。 翌朝体温をはかると36度7分になっていた。ほっとしたが、医師は「採血とレントゲンをとりましょう」といった。夜、体温をはかると今度は37度5分とあった。これではコロナ熱の基準と同じではないか。その夜はまんじりともしないですごした。 翌朝、熱をはかると36度4分に下がっていた。ところが夜になると、また37度5分になっていた。本来は、明日退院の予定だった。医師は「これでは退院は無理かもしれない」といった。 その夜、インターネットでとても古い映画をみた。1953年につくられた『ひまわり娘』という映画(写真)で、有馬稲子と三船敏郎が主演していて、有馬の第一回出演作。内容はサラリーマン同士のたわいない恋愛ものだったが、若かりし日の二人の姿が妙になつかしかった。二人は同じ会社で机を並べて先輩後輩として働いているが、なんとなくひかれあっていても、それ以上に進まないのだ。女には縁談の話がもち上がっていて、男は半ば諦めかけている。そんななか、二人ともう一人が一緒の帰り道、男は田舎からやってくる母を迎えるために、時間つぶしにパチンコ店に寄る。男がパチンコをしていると、後ろから女が近づいてくる。男は「どうしたの?」と尋ねると、女は「(同僚を)巻いてきちゃった」とだけいう。それだけなのに女の男に対する思いが伝わってくる。男は黙って彼女にパチンコ玉をひとつかみとって手渡す。 この映画、ラストに至っても手をにぎったりキスしたりするわけではない。わたしはこういうさりげない愛の交歓シーンが好きだ。 映画をみたあと、シャワーをあびた。シャワー室には鏡がない。その方がいい。少しも見とれる体じゃない。それでも、やせこけてしわだらけの体をしげしげとながめた。お尻をさわると、クルミの実のようにがんがぶらさがっている。 4日朝、体温は36度4分だった。よし、これで帰れるぞ。医師は「何かあればすぐ連絡して下さい」といった。あの能登の海で、また広い空をながめられるかもしれない。わたしは志村けんとは反対口から出られた。外は雨が上がっていた。 〔追記〕これは『月刊東京』6月号より転載したものです。5月号には「いま起きていること」と題して、コロナウィルス発生の原因を追究しています。 *『月刊東京』連絡先 TEL03-5976-2571 FAX03-5976-2573 一冊=450円 Created by staff01. Last modified on 2020-05-29 08:26:16 Copyright: Default |