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牧子嘉丸のショート・ワールド(46) : 「ライネケの狐」に見る悪党哲学
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    第46回 2017年11月1日

「ライネケの狐」に見る悪党哲学―現代ニッポンの戯画として読む

 ドイツの文豪ゲーテ(写真)に「ライネケの狐」という作品がある。これはヨーロッパで広く語り伝えられてきた民間伝承を基にした悪がしこい狐の物語である。
 ライネケというのは、その主人公の狐の名前で、登場するさまざまな動物たちもそれ自身の名前をもっている。たとえば、ライオンはノーベルといい、百獣の王として動物どもに君臨している。
 その御前会議に集まった、狼のイーゼグリム、うさぎのランペ、にわとりのヘニングらが口々にライネケの悪行・非道を訴えるところから物語ははじまる。
 怒った獅子王ノーベルは法廷を開き、残虐な被害にあった動物たちは、その悪事を弾劾するのだが、ライネケは巧みな弁舌と王への卑しい追従によって絞首刑を免れる。それどころかかえって王から大変な栄誉を授かるというストーリーである。

 「さるかに合戦」や「かちかち山」などの勧善懲悪の昔話に慣れ親しんだ日本の読者には、こんなあくどい狐が罰せらないままに終わる結末になんとも割り切れない思いを抱くことだろう。かくいうわたし自身がそうで、正直いやな読後感であった。
 しかし、「これほど世の中の実相を活写した作品はない。ライネケはいつの時代にも、どこの国でもいたし、今もいる」というドイツ文学者の批評があり、また芥川龍之介などは「悪の底まで見きわめようとした」ものとして高く評価したといわれる。

 そういえば、たしかに、ライネケは存在する。
 たとえば、若い女性を酒で昏睡させ、性的暴行を加えた自称ジャーナリストの場合はどうだ。ライネケ同様、その犯罪が罰せられないどころか、女性に責任転嫁し、あろうことか自身被害者面する始末である。まさに虎の威を借る狐のごとく、警察権力を背景にして居直っている。アメリカ・ハリウッドの女優陣は大物プロデューサーをセクハラで訴えて立ち上がり、この悪党を世論も許さなかった。わが国となんという違いであろう。

 政治の世界はどうだろう。小悪党から大悪党までライネケの巣窟でもあることはいうまでもない。たとえば、党首自らが、奇計・奸計を巡らして党を売り、仲間を裏切りながら、自分だけは身の保全を図って、ちゃっかり逃げ道はつくって平然としてニヤけている。 ライネケは雄ばかりではない。女狐もいる。雄どもをたらし込み、さんざん踊らせ、使いまわした挙げ句、「これからは都政に邁進します」とは。
 こんな変わり身の早さは、さすが狡智にたけたライネケでも思いつくまい。

 なかでも哀れを誘うのは、今になって「だまされた」とか「利用された」とかガチョウみたに騒いでいる人たち。なかにはドジョウのようなひげまで剃ってまで尽くしたのに選挙で討ち死にしたのもいる。狐にいいようにしてやられた動物たちもかくあらん。
 この雌雄の狐(あるいは狸というべきか)は互いにだましたり、だまされたりしながらも、保身だけはしっかり忘れないのは、やはりそこらの小悪党とは違うところである。味方のような顔をして潜り込んだ、獅子身中の虫ともダニというべき輩である。

 さて、この作品のなかで、ライネケがおのが所行を甥の狸グリムバートに懺悔しながら、その独特な悪党哲学を披瀝する場面がある。
 「当節はいかにも危険な時代の連続で、何しろ、上に立つ者の遣り口は目にあまる。うっかり口にはできないが、われわれ下じもはそれに思いを致したうえで、自分のことに目をむける。
 とにかく大王自身さえ、知ってのとおり、下じも同様略奪をして、自身で手がけないものは、熊や狼どもに命じて盗らせ、至極正当なこととする始末」と語りだす。

 つづけて「かの高貴の王とても、特別に寵愛する対象は、贈り物の持参者や、かれ自らの歌の調子のまま踊れるもので、これ、あまりに明々白々なる事実。
 狼と熊とがまた顧問官に戻るなら、被害者もずいぶん多くなる。彼らは盗み略奪するが、また大王のお気に入り。誰でも事実を知って黙っているが、それは自分の順番への期待から」ここまでくると、思わずこの大王やら熊やら狼どもを、アーベやオーギュダ、またカーケとかサーガワなどと命名したくなりませんか。

 これらの悪党にくらべて「このライネケのような哀れな者が、小さな鳩の一羽でも捕らえようなら、すぐにでも襲いかかり、見つけて掴まえ、大声はりあげ、一斉に死刑を宣告する。こそ泥は縛り首になるのに、屈強の大盗人は優遇されて、国も城もほしいまま」と、その哲学を展開する。そのきわめつけはこうである。
 「だがわたしが最悪だと思うのは、人にとりつくうぬぼれの妄執。つまり、自らのはげしい欲に酔いしれて、世界を支配し裁きもできると思い上がる大戯(たわ)け」

 この思い上がった戯けも、やがて来日する世界の戯けの大親分を前に幇間のようにへつらう姿が映し出されることだろう。「世間とはかような成り立ちで、また永久に、かくあろうゆえに」という最後の一節どおりに。
 先にも紹介した芥川龍之介は「ゲーテは『ライネケ狐』を書いただけでも偉大だ」と述べたとのこと。さてさて、世の中はこんなもの、いつの時代でも変わりはない、とゲーテは結んだが、それは諦念や絶望からではない。そこから人間が立ち上がることを期待し、切望し、確信していたからに違いない。そして、それは芥川もまた。
(引用・参照は潮出版社「ゲーテ全集2」藤井啓行氏訳・「岩波少年文庫」上田真而子氏訳)


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