安倍首相の「戦後70年談話」(14日閣議決定)。「真意が不明」という論評もありますが、私はきわめて明瞭だと思います。「侵略」も「植民地支配」も
「おわび」も、安倍氏は何一つ自分の言葉で認めてはいません。次世代の歴史継承に歯止めをかけたいというむき出しの願望も含め、いかにも歴史修正主義者・
強権主義者の「談話」です。
ただ、私ははじめから「安倍談話」にさほど興味はありませんでした。人間は、とくに政治家は、何を言うかで
はなく、何をするかで真価が問われるからです。安倍氏がどんな談話を出そうが、彼がいま、再び戦争とアメリカに加担した侵略への道を突き進む戦争法案を強
行しようとしているのが現実であり、それこそが安倍氏の正体であり、それを阻止することがまさに現下の最大問題だからです。
70年目の「8・15」にあたって必要なのは、「安倍談話」などではなく、私たち一人ひとりが歴史の教訓からいま何を学ぶべきなのかを自分に問い直す、いわば「自分の70年談話」ではないでしょうか。
憲法学者の樋口陽一氏は『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫)の中で、「非常に有名な小説家」が、1945年8月15日に「私はだまされていた」という文章を書いたことを取り上げ、その対極として映画作家の伊丹万作(1946年没)が、敗戦直後、「だまされた者の罪」を告発したことを強調しています。伊丹万作は伊丹十三氏の父、大江健三郎氏の義父です。
伊丹万作の文章の一部を紹介します。
「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。・・・多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようである
が、それが実は錯覚らしいのである。・・・このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣
組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである」
「だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。・・・だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである」
「だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重
の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。・・・あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけがない。・・・現在の日本に必要なことは、まず国民全体
がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである」
(1946年8月『映画春秋』創刊号。ちくま文庫『伊丹万作エッセイ集』より)
現在を見通したような、69年前の警鐘です。
「だまされた」という弁解とともに、「わかっていたけれど言えなかった」という自己弁護もあるでしょう。長崎大学名誉教授で「岡まさはる記念長崎平和資料館」理事長の高實康稔さんは、戦前戦中「口ごもった人」も「戦争に加担したことになる」として、こう言います。
「戦後になって、自分はこんな戦争の被害者だ、二度と戦争はだめだ、核兵器はもちろんだめだと言うわけです。それは正しいのですが、その前に、戦争のとき
に自分はどうしていたのか、そのことをみんな忘れてしまっている、あるいは考えなくてもいいことになっているのではないか。現在の原発再稼働に向けた動きの中にも似たものを感じます。それではだめだと思っています」(「アジェンダ」2015年夏号)
個人一人ひとりが「歴史に責任を負う」こと。それを高實さんは「歴史倫理」だと言います。
いま問われているのは、私たち一人ひとりの「歴史倫理」です。