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映画『鶴彬―こころの軌跡』と第3回「高松歴史街道フェスティバル」 

             寺島隆吉「百々峰だより」より
総合文化(2014/10/09)
『鶴彬―こころの軌跡』ビデオ『鶴彬―こころの軌跡』映画制作の記録
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 体の調子が思わしくないのでカテーテル検査のため二泊三日の検査入院しました。幸いにも再びバイパス手術をしたりステントを入れたりしなければならない箇所は見つからなかったのですが、体重が激減して仕事をする気力体力が出てこない原因は不明のままです。
 それはともかく、それやこれやでなかなかブログを書く力が湧いてこないのですが、放置しておくと、どんどん記憶から消えて行くので、今回は、映画『鶴彬(つる あきら)こころの軌跡』と第3回「鶴彬のふる里、高松歴史街道フェスティバル」について書くことにします。

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 さて今年のお盆に帰省した折、第3回「鶴彬のふる里、高松歴史街道フェスティバル」に参加しました。というのは、かほく市高松町(旧河北郡高松町)は、私の父母の墓がある能登半島(旧羽咋郡志雄町)へ帰省する途中にある街だからです。
 鶴彬については、まだ母が生きていた頃、生家に帰る途上の有料道路(高松パーキングエリア)で食事をしていた時ぐうぜん目にした「高松案内」に簡単な紹介があり、「そんな天才的川柳人が高松にいたのか」と小さな衝撃を受けました。
  衝撃を受けた理由はいくつかありますが、そのひとつは川柳で反戦歌を綴っただけで刑務所に入れられ、29歳のという若い人生を閉じなければならなかったと いう事実でした。しかも「川柳界の小林多喜二」ともいうべき人物が生家のすぐ近くにいたのにそれを私は今まで知らなかったのです。
 その紹介文に は「彼の歌碑もすぐ近くにある」と書いてあったのですが、日本海側を走る有料道路ができてからは旧街道を通ることはほとんどなくなっていたので、歌碑を訪 ねることもなく生家に帰ってしまいました。こうして私の記憶から鶴彬(つる あきら)のことはしばらく消えてしまっていました。

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 ところがある日とつぜん金沢から便りが岐阜に届き、鶴彬(つる あきら)の記憶が再び呼び起こされることになりました。というのは、鶴彬の映画をつくる予定だから援助して欲しいというのです。
 便りの送り主は私が高校教師をしていた頃の友人でした。彼は私の初任地=富来高校の同僚であり、生活指導・学級経営の研究会に私を誘ってくれた先輩でもありました。私が竹内常一という理論家や大西忠治という実践家を知ったのも彼のおかげです。
 後に彼は高教組教文部長になり組合運動の指導者になっていきましたが、私は途中で岐阜大学に異動し独自に英語教育研究会「記号研」をつくるようになりましたので、彼との関係は次第に疎遠なものとなっていました。
  しかも私はそのとき自分の組織する英語教育研究会の活動で忙しかったので、気にはしながらもカンパするため銀行あるいは郵便局に行くゆとりがとれないまま 時間が過ぎてしまいました。ところがあるとき、映画『鶴彬―こころの軌跡』が完成したから見て欲しいという案内が届きました。
 会場は岐阜市繁華街から遠く離れた田舎の地にある老人保養センターの一室で、夕方から始まる上映会の集まりも閑散たるものでした。若者はほとんどいなくて老人や婦人が多かったように記憶しています。冬場も近かったせいか会場も寒々とした雰囲気が漂っていました。
  ところが映画を見終わったとき私はカンパの要請をしてきた板坂洋介氏に本当に申し訳ないという気持ちで一杯になりました。というのは、この映画で鶴彬(つ る あきら)という人物の生きざまに心を大きく揺り動かされたからです。そしてこの映画づくりに何の貢献もできなかった自分に大きな後悔の念を覚えました。

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 それから私はきちんと鶴彬(つる あきら)について勉強しようと思い始めました。読んだ本は以下の三冊です。
* 深井一郎(1998)『反戦川柳作家 鶴彬』日本機関紙出版センター
* 木村哲也(編、2008)『鶴彬全川柳―手と足をもいだ丸太として返し』邑書林
* 吉橋通夫 (2009)『小説 鶴彬―暁を抱いて』新日本出版社
 上記の深井一郎氏は金沢大学教育学部国文科の教授で、地元の研究者が鶴彬を取りあげて研究していることにとりわけ感慨深いものを感じました。
 また埋もれていた鶴彬を発掘するにあたって歌人・一叩人(いっこうじん)や作家・澤地久枝など多くの先人の血のにじむような努力があったことも知りました。
* 一叩人編『鶴彬全集』(初版:たいまつ社 1977年、増補改訂復刻版:復刻責任者=澤地久枝、1998年)
* 一叩人編『反戦川柳人・鶴彬―作品と時代』(たいまつ社 1978年)
 そして鶴彬(あきら)を知れば知るほど、たった五七五の十七文字で軍国主義政府を震え上がらせ鶴彬の生きざま、その川柳の凄さ・鋭さを、もっと世に知らせなくてはと思うようになりました。

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  作家・小林多喜二は『蟹工船』などの小説で当時の軍国主義日本を鋭く告発し、小説『一九二八年三月十五日』では当時の警察による過酷な拷問の実態を詳細に 描写しました。しかし彼は、最後には特高に逮捕され拷問のすえ小説で描いたそのままの姿で死体になって牢獄から出てきました。
 それと同じように 鶴彬も、何度も治安維持法違反で逮捕され、最後は豊多摩病院のベッドに縛り付けられたままその生涯を閉じました。赤痢にかかったからというのが理由だそう ですが、殺すために赤痢菌をうつされたのか詳細は不明です。まだ29歳の若さでしたが、まさに鬼才としての生涯でした。
 いずれにしても鶴彬は、多喜二と同じように、国家にとっては生かしておけない存在であったことは確かでしょう。それほど彼の川柳=風刺は、時の政府の胸を鋭くえぐり、鋭く射抜くものだったのです。
 たとえば次の句は、イラクやアフガニスタンの戦場に送られた兵士の実状、その妻や親の(どうこく)を表した句だと言われても、何ら違和感が感じられないほどです。
   万歳とあげていった行った手を大陸においてきた
   手と足をもいだ丸太にしてかえし
   胎内の動き知るころ骨がつき

 とくに「手と足をもいだ丸太にしてかえし」の句は、名画『ジョニーは戦場へ行った』で描かれた世界、監督ドルトン・トランボが言いたかったことを、たった十七字でみごとに描写していると言えないでしょうか。
 また次の句も、日本の民衆運動の過去・現在・未来を暗示しているようで、私にとっては、一度読んだだけで忘れがたい句となりました。
   暁を抱いて闇にゐる蕾
   枯芝よ団結をして春を待つ

  ですから、鶴彬の生涯と彼の句を知れば知るほど、映画『鶴彬(つる あきら)』が自主上映運動でしか見られないというのが残念でたまらなくなりました。「早く映画をDVD化してほしい」「この映画をもっと多くのひとに見て ほしい」と痛切に願っていたのは、たぶん私だけではなかったでしょう。
 ところが最近、やっと待望のDVD版が制作されたことを風の便りで知りま した。しかし残念ながら調べてみても一般の書店やアマゾンでは購入できません。いろいろ問い合わせてみたら、「鶴彬を顕彰する会」で受け付けていることや 下記サイトからも購入できることが分かりました。
「鶴彬―こころの軌跡」公式サイト

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<註1>  鶴彬を顕彰する会では、『鶴彬通信はばたき』を発行しています。「鶴よ、はばたけ!」という願いが込められているのでしょう。2014年5月現在、第16号まで発行されています。20頁だての実に充実した内容です。レイアウトも素人とは思えません。
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<註2> 名画『ジョニーは戦場へ行った』(原題: Johnny Got His Gun)は、ドルトン・トランボが1939年に発表した反戦小説で、ベトナム戦争最中の1971年、トランボ自身の脚本・監督により映画化されました。
 しかし鶴彬が「手と足をもいだ丸太にしてかえし」を発表したのは1937年、28歳の時でした。ここでも鶴彬の天才・鬼才ぶりがよく分かります。翌年1938年、鶴彬は官憲によって命を奪われましたが、これは国家総動員法が施行された年でもありました。
 ちなみに1933年、作家小林多喜二が築地署で拷問死させられたとき、奇しくも鶴彬と同じく29歳でした。軍国主義下の日本が才能ある若者の命を次々と奪っていったことを示す典型的事例ではないでしょうか。
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<註3> 実は、1953年のアカデミー授賞映画『ローマの休日』は、当時アメリカで吹き荒れた思想弾圧「赤狩り」で映画界を追放されたトランボが偽名で脚本したものでした。これもアメリカという国の実像を理解するために知っておいてよい事実だと思います。
 なお映画『ジョニーは戦場へ行った』は1971年のカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞しました。また小説『ジョニーは戦場へ行った』の一部はハワード・ジンが編集した『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(明石書店)上巻の十四章に収録されています。

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 ところで、ここでもうひとつどうしても書いておきたい事実があります。それは映画の制作過程についてです。これは私にとって非常に慚愧に堪えない過去でもあります。
 というのは映画が出来上がってから、ロケ現地では高松町の浄専寺が監督たちの寝泊まりの場になったこと、板坂洋介氏がロケ現地では縁の下の力持ちになって奮闘していたことを知ったからです。
 これらのことをもっと以前に知っていたら!という思いが何度も私の頭に去来しました。というのは、先述のとおり板坂氏は私の初任校=富来高校での同僚であり、浄専寺住職の平野道雄さんは私が母校=羽咋高校で教えていたときの同僚だったからです。
  また神山征二郎(こうやま せいじろう)監督が岐阜の出身であることも、この時点で改めて再認識したのでした。考えてみれば私が高校教師のころテレビで感動した映画『ふるさと』も神 山征二郎氏が監督したものであり、『ふるさと』の舞台はまさにダムで水没する岐阜県徳山村でした。
 ところが板坂氏から映画『鶴彬』の話があった とき、不思議なことに、私の頭ではこれらのことがひとつにまとまって明確に認識されていず、それらがバラバラに存在したようなのです。ところが映画が完成 してからいろいろ情報が増え、そして初めて上記のことが明瞭にひとつの糸でつながったのでした。
 そして「鶴彬を顕彰する会」が発行する『鶴彬通 信はばたき』第17号(2014/07/31)が届いて初めて、8月のお盆前後に「高松歴史街道フェスティバル」が開かれること、しかも今年は第3回目を 迎えることも初めて知ったのです。そこでいつもは7月のお盆に帰郷していたのですが今年の墓参りは旧盆にすることに決めました。
 というのは、こ の「高松歴史街道フェスティバル」に参加すれば、とくに8月16日(土)午後から催される行事に参加すれば、額神社境内でおこなわれる万燈会(まんとう え)を見ることもできるし、岐阜大学に赴任して以来ご無沙汰している板坂氏や平野さんにも会えると思ったからです。

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<註>  これも不思議なことですが、『鶴彬―こころの軌跡』が長らくDVDにならなかったのと同じように、映画『ふるさと』(1983年)も長い間DVD化が実 現しませんでした。文化庁優秀映画奨励賞など多数の賞を受賞し、主演の加藤嘉がモスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞した作品であるにもかかわら ず、これがDV化したのは、やっと30年後、2013年のことでした。

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 私が「高松歴史街道フェスティバル」のメイン行事のひとつ「鶴彬 かほく市民川柳」 入選作品発表会の会場=中町会館に着いたときは、雨が降り出しそうな気配で、夕方6時からおこなわれる万燈会(まんとうえ)が見れるかどうか不安な空模様でした。
 会場入口で車椅子の義母をどうやって会館内部に連れて行こうかと思案していたとき、すぐ駆けつけて援助してくれた人物がいました。なんとそれが「今日ここに来れば会えるはず」と思っていた平野道雄さんでした。
  話しているうちに、平野さんはすでに定年退職し、浄専寺住職の仕事も息子さんに譲っていることが分かりました。さらに驚いたことには、息子さんは地元の金 沢大学で博士号を取得し非常勤講師として数学を教えているだけでなく、大谷大学に入り直し僧職を継ぐ勉強をしたうえで浄専寺を切り盛りしているとのことで した。
 しかし、「鶴彬 かほく市民川柳」 入選作品発表会が終わり、そのあとに続くアトラクションが修了しても雨は強くなる一方で止みそうにありません。主宰者からも「雨のため万燈会を断腸の思いで中止させていただきます」と発表がありました。
 私としては、フェスティバル案内ポスターに「平和を願い命を落とした先人たちに思いを馳せ、9千個の送り火を灯します」と書かれていて、そこに載せられていた額神社の幻想的な写真を見ていただけに、残念きわまりないものがありました。
 とはいえ、もっと残念だったのは主宰者の皆さんだったはずです。というのは中町会館に飾られていた万燈には、「鶴彬 かほく市民川柳」に応募された句がすべてみごとな直筆で書き込まれていたからです。
  そこで平野さんの勧めもあって浄専寺に移動して、さらに積もる話しに花を咲かせることにしました。着いてみて驚いたのは、広い本堂が「原爆パネル展」の会 場としても使われていることでした。さらに浄専寺を会場にして講演会やコンサートさらには「ブッダ・カフェ」など様々な催し物が企画されていることも、私 の驚きを倍加しました。
 アメリカでは1960年代に黒人運動が大きなうねりとなって爆発し、ついに公民権を勝ちとることに成功したのですが、そ の大きな原動力のひとつが教会であったこと、その指導者としてメキメキと頭角を現したのが、モントゴメリーの教会に赴任したばかりの若きキング牧師(当時 25歳)であったことは、意外に知られていない事実です。
 またローマ法王から「解放の神学」として弾圧の対象となりながらも中南米で貧者のため に活動し続けた聖職者や修道士も、グアテマラやエルサルバドルなど多くの地でアメリカが裏で支援する独裁政権・軍事政権によって暗殺されました。ハイチで 初めて民衆によって選ばれた大統領=アリスティド氏も、元司祭で「解放の神学」の熱心な実践者でした。
 日本の仏教界になぜこのような寺院や人物が出てこないのかと残念でたまらなかったのですが、すでに浄専寺でそのような動きが始まっていることを知り、今回の高松訪問で大きな収穫を得た思いがしました。なお浄専寺の活動はホームページで知ることができます。
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<註>  ハイチ大統領アリスティド氏は、選挙で2回とも勝利したにもかかわらず、アメリカが裏で支援した軍事クーデターで、結局その任務を全うできませんでし た。1度目は1991年9月の軍事クーデターであり、2度目は2004年2月の元軍人が多数参加した反乱でした。これもアメリカという国を理解するために は欠かせない事実でしょう。

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 最後にもうひとつだけ書いておかねばないのは板坂洋介氏のことです。私は「鶴彬 かほく市民川柳」入選作品発表会の会場で板坂氏に会えるものと期待していたのですが、探してもそれらしき人物が見当たりません。
 そう思っていたら平野さんが「板坂さんも来ていますよ」と指さしてくれました。その指先の向こうに白いあごひげを伸ばした人物がいました。なるほどそう言われれば髭のうしろにかつての面影を見ることができます。
 氏は映画『鶴彬―こころの軌跡』を撮影するとき現地スタッフの大黒柱として大きな力を発揮したと聞いていましたから、何も援助できなかった私は恥ずかしくて話をするのが少し後ろめたい気もしていました。
 が、妻や義母を連れて岐阜からわざわざ高松のフェスティバルに参加した私の姿を見て驚いたようすでしたが、私の手にしていた『鶴彬通信はばたき』を見て、「これも読んでくれているのか」と大いに喜んでくれたようだったので正直ほっとしました。
 金沢からわざわざ高松まで来て地元の行事を盛り上げるべく奮闘している彼を見ていると、「初任地の高校で初めて出会って以来、何らぶれることなく一貫して活動し続けているひとりの素晴らしい実践家」という、何とも言えない感慨が私の胸に湧いてきました。
 また「鶴彬 かほく市民川柳」入選作品発表会の会場には下記のようなひとたちが東京から参加していましたが、その世話をしているのが板坂氏のようなのです。
* 東京都新宿区「旧豊多摩病院」跡地近くに鶴彬の句碑を建てようと運動している「東京鶴彬顕彰会」の世話人代表
* 演劇『手と足をもいだ丸太にしてかえし―鶴彬の生涯―』を東京で上演しようと頑張っているグループ演劇工房のひとたち
* そして「レイバーネット川柳」の乱鬼龍氏
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<註> 来たる11月6〜9日に東京で上演される『手と足をもいだ丸太にしてかえし―鶴彬の生涯―』の詳しい情報については語り部集団「木偶の坊」HPを御覧ください。
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 私たちが浄専寺で平野道雄さんと話をしていたら、ちょうどそこへ東京から来た上記のひとたちが板坂さんに連れられて挨拶にきました。「今からどこかで夕食を食べて金沢に帰るから、ちょっと挨拶を」ということのようでした。
 そこで私たちも夕食時に長居しては申し訳ないので、これを機に浄専寺をあとにすることにしました。駐車場まで行く途中、平野さんは境内にある鶴彬の句碑まで私たちを案内してくれました。句碑には次の十七字が刻まれていました。
 「胎内の動き知るころ骨(こつ)がつき
  この句は神山征二郎監督に選んでいただいたものだそうです。また、この句碑の除幕式には大勢の住民や県内外の川柳愛好家が参加し、監督神山征二郎・作家澤 地久枝・俳優池上リョヲマ(映画では鶴彬を演じた)といった著名人の手で除幕されたそうですから、さぞかし平野さんも感無量のことだったでしょう。
 そして私の方は、夕闇のなかを金沢に向かう車の中で、「いま日本の右傾化が急速に進行しているときだけに、若くして倒れた鶴彬の苦闘と偉業を多くのひとにどう伝えたらよいのか」とひたすら思案していました。
 体の調子が悪く、なかなか時間がとれなかったのですが、今このブログを書くことによって、やっとその責任の一端を果たすことができたのではないかと思っています。このブログが鶴彬を知るためのささやかな刺激になれば望外の幸せです。

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浄専寺境内の句碑                       大阪衛受監獄跡地の句碑
鶴彬 浄専寺句碑 鶴彬 暁を抱いて闇にゐる蕾 
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<註> 今のところ鶴彬の句碑は、石川県(鶴彬の郷里)、岩手県(兄の孝雄氏が住んでいた盛岡に遺骨が埋葬された)、大阪府(徴兵中に反戦運動したというかどで大阪衛戍監獄に収監された)の三府県しかありません。
 ただし石川県の句碑は、生誕地喜多家・高松歴史公園・浄専寺境内および金沢市卯辰山公園の四カ所にあります。それぞれの句碑に刻まれた句は次のとおりです。
* 「可憐なる母は私を産みました」鶴彬の生誕地(1925年・16歳)
* 「枯芝よ団結をして春を待つ」高松歴史公園 (1936年・27歳)
* 「胎内の動き知るころ骨がつき」浄専寺(1937年・28歳)
* 「暁を抱いて闇にゐる蕾」金沢市卯辰山公園(1937年・28歳)

 ちなみに鶴彬は石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれで、本名は喜多一二(きた かつじ)。生家は現在、喜多義教氏が住んでいます。


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