黒鉄好のレイバーコラム「時事寸評」 : 何もかも史上最低の総選挙が意味するもの | |||||||
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何もかも史上最低の総選挙が意味するもの第47回衆院総選挙が終わった。この選挙が史上最低だったことに異論のある人は少ないだろう。選挙の持つ政治的意義、事前のメディア報道量、話題性、市民の関心、投票率……そのすべてが戦後最低レベルの盛り上がりに欠ける選挙だった。正直なところ、棄権しようかと何度も思ったし、選挙後の論評もやめておこうかと何度も思った。だが、こんなつまらない選挙でも、戦後日本政治史の中に位置づけてみると見えてくるものがある。中には、論評もせず看過してしまうにはあまりにも重大すぎるものもあり、あえてこのコラムを書くことにした。 ●ノスタルジー感じた選挙 「衆院選 与野党伯仲望む47.9% 本社世論調査」(12/9付け「産経」)――選挙運動期間中、いくつかのメディアにこのような記事が載った。当コラム筆者の住む北海道でも、地元紙「北海道新聞」に同様の記事が掲載された(ただし、北海道新聞では伯仲を望む人はもう少し多く、50%を超えている)。 この記事を読んで、私はある種の懐かしさとともに感慨を抱いた。総選挙をめぐって新聞紙上に「伯仲」という用語が登場したのはいつ以来だろうか。この10年ほど、総選挙の際にメディアが行う世論調査は「あなたは、どのような形での政権を望みますか(自公中心の政権か、民主党中心の政権か)」という形のものがほとんどだったからだ。 当コラム筆者(現在、40代)より上の世代にとって、「伯仲」はなじみのある用語であるとともに、ある種の懐かしさを感じる用語でもあるだろう。55年体制下では、総選挙のたびに「自民安定多数と与野党伯仲のどちらを望むか」という形式の質問が行われていたからである。「安定」と「伯仲」のどちらが多数となるかはその時々の政治情勢に左右され、与野党の馴れ合い政治に有権者が飽きたら「安定」へ、自民党政権の暴走が目に余り始めたら「伯仲」へと、世論の針が振れるのが常だった。 だが、30歳代以下の若い世代にとっては、そもそも伯仲は「はくちゅう」と読む、というところから説明しなければならないのではないだろうか。それほど長い間、この言葉は新聞紙上に登場しなかった。今回、おそらく十数年ぶりに伯仲という言葉が――55年体制当時と同じように――新聞紙上を賑わせるのを見て、私は懐かしさとともに感慨を抱いたのである。「日本は再び、政権交代のできない時代に戻ったのだ」と。私より上の世代に対しては言うまでもないが、「安定か伯仲か」は政権交代がないことを前提にした質問なのだ。 ●「大義」を問うことに意味はあるか 安倍政権による「大義なき」衆院解散の時点では、私は、実は野党にもかなり勝機(政権奪取ではなく、与党の勢力を減少させるという意味での勝機)があったと思っている。政権運営は強引で、アベノミクスにもさしたる効果はなく、閣僚の相次ぐ金銭スキャンダルも表に出た。解散の時点では自民党だけで294議席を持ち、公明党と合わせれば改憲の発議も参院の否決を覆す再可決もできる3分の2以上を占めていた。その圧倒的多数を安倍首相が自分たちの都合だけで一方的に手放してくれるというのだ。普通の感覚を持った人間だったら、これをチャンスだと思うはずだし、仮に選挙後も引き続き与党に過半数を占められるのは変わらないとしても、自公が3分の2を割ってくれれば再可決は不可能になる。さらに、2016年の参院選で自公が過半数割れを起こし「ねじれ国会」が再来すれば、政府提出法案は軒並み成立しなくなり、安倍政権は死に体と化す――私にふと、そんなシナリオが思い浮かんだ。しかも、解散直前の世論調査で安倍政権の「支持」がついに「不支持」を上回るというオマケまでついたのだから。 だが私、そして多くの日本国民にとって想定外だったのは、その程度のこともわからないほど野党が腰抜けでしかも思考停止に陥っていたことだ。彼らはいっせいに「解散に大義がない」などと批判し始めた。だが、解散は首相の専権事項であり、これまでも政権与党の党利党略のために使われてきた。そんな解散に大義など求める方が間違っている。大義とはあるかないかと問うものでもなければないと批判するものでもない。強いて言えば私たちひとりひとりが自分で見いだすものなのだ。 ●だらしない野党が復活させた一党優位政党制 今回の選挙を戦後日本政治史にいかに位置づけるべきか。その課題に向き合うなかで、私にひとつの仮説が浮かんだ。今回の総選挙がいわば「第2次55年体制」の始まりを告げる位置にあるのではないか、というものだ。 もっとも、55年体制とは何かを定義づけしないままこのような議論をするのはいささか無責任であろう。多くの日本人にとって、55年体制とは「資本家階級を代表する自民党が国会議席の過半数を占め、労働者階級の代表、社会党が自民党のほぼ半分の議席数をもって対峙する体制」というのが一般的認識だと思う。この意味での55年体制は、今日、まるで存在しておらず、社会党を引き継いだ社民党は風前の灯火だ。 だが、55年体制を「自民党が万年与党として政権を半永久的に維持し続ける一党優位政党制」のことだと定義するならば、この意味での55年体制は全く崩壊していないどころか、前回、2012年総選挙で復活の種がまかれ、今回の総選挙で完全に復活したと言うべきだろう。私が今回の選挙について「第2次55年体制」の幕開けとの仮説を提示したのは、このような意味からである。 少なくとも20世紀では最も顕著な功績を残した政治学者であり、政党制の類型化に新たな世界を切り開いたイタリア人、ジョヴァンニ・サルトーリは、旧ソ連のような完全一党制でもなく、支配政党が支配的地位を制度によって保障されているヘゲモニー政党制(中国共産党やインドネシア・スハルト時代の与党ゴルカルなどがここに分類される)でもなく、完全な政党間の自由競争が保障されていながら、特定政党が万年与党として半永久的に政権を維持し続ける政党制のことを「一党優位政党制」と名付け、インドの国民会議派、メキシコの制度的革命党、高福祉国家を建設したスウェーデンの社会民主労働党などと並んで自民党をここに分類した。また、ある国の政治体制を一党優位政党制と判定するための基準は「第1党と第2党との得票・議席の差が大きく、かつその第1党が連続して3〜4期、政権を担当すること」であるとしている(注1)。 サルトーリは、一党優位政党制と類似したシステムである分極的多党制(各政党間の左右のイデオロギー差が大きく、右の反体制政党から左の反体制政党までが議会に進出しているようなシステム)についても論及している。彼は、このどちらも「用語本来の意味での政権交代のないシステム」として論じており、万年与党から見て左右両方に「レリヴァント(有意)な野党」があるものを分極的多党制であるとする一方、左右どちらか一方にしかレリヴァントな野党が存在しないものを一党優位政党制であるとしている。 日本の現状がこのどちらに該当するかは、自民党より右に位置する維新の党、次世代の党をレリヴァントな野党と見ることができるかどうかにかかっている。当コラムでそこまで詳しく論述する余裕はないが、サルトーリが示している基準では「レリヴァントな野党」には該当しないから、自民党の右側に野党は存在せず、日本の現状は依然として一党優位政党制といえるだろう。 一党優位政党制と分極的多党制は、万年与党から見てレリヴァントな野党が左右両側に存在するか、どちらか片側にしか存在しないかを除けば共通特徴を持っているから、分極的多党制に当てはまる特徴はそのまま一党優位政党制にも当てはまる。その上で、サルトーリはその共通特徴を次のように分析している。 ≪分極的多党制の……特徴は≪無責任野党≫の存在である。……中間政党(ないしは中間勢力の指導的な政党)は政権担当地位を失なう不安にさらされていない。要の位置にあるし、どのような組合せの過半数政権でもバックボーンとして期待されるので、常に政権政党になる宿命を背負っている。他方、極端な政党、つまり、現存システムに反対している政党は常に政権交代の機会から排除されている。平常の状況では、このような政党は政権担当の機会に恵まれない。それ故、このような状況の下では連合政権代案はない。≫ ≪政権担当の機会が特定の政党に限られているという事実を踏まえれば、分極的多党制に重要な責任野党が欠如している理由、半責任野党、典型的な無責任野党が存在する理由が判ろう。国民に「対応」しなければならないと考える時、すなわち、約束したことを実行に移さなければならないと考える時、野党は責任ある行動をとるであろう。逆に、政権担当を考えなければ、それだけ無責任になるであろう。ところで、分極化した政治システムでは中間勢力の指導的な政党を中心にその同盟軍間で政権交代劇が演じられているのであるが、この政権交代劇には思想的制約が大きく作用する。さらに、中道左派政党、中道右派政党は第二次的な政治責任だけを分有しようとする傾向がある。最後に、政府が不安定であったり、次々とけんか好きな連合政権が交代劇を続けたりすると、誰が何に対して責任があるのか判らなくなってしまう。 以上の諸点を考慮に入れると、分極的多党制では政権指向政党ですら、責任野党の役割を演じる気にはならないであろう。半責任野党が生み出される。そして、反体制政党は無責任になるよう動機づけられる。いわば永遠の野党であり、政治システムとの一体化を拒絶する≫ そして、これらの特徴から、分極的多党制(もちろん共通特徴を持つ一党優位政党制にも当てはまる)について、サルトーリは「政治的不公正競争市場」であると結論づけている。与党も野党も固定化した政治システムでは与党も野党も政治的自由競争にさらされていない。それゆえ与党は政権転落の不安を感じることもないから怠惰で不誠実になり、一方の野党には、国民に対して責任を持とうという気概が育たず、自分たちが政権に就いた時のことを想定する必要もないから連合政権代案もなくなる。サルトーリ「現代政党学」の日本語版が刊行されたのは1979年のことであり、彼は、現在の日本の絶望的状況をもう30年以上前に「予言」していたことになる。 野党がだらしないから一党優位政党制になるのか。それとも逆に一党優位政党制が長期にわたって続くことが野党を堕落させ、政権への意欲を失わせるのか。サルトーリは深く検証していないが私は両方だと思う。野党がだらしないことは、一党優位政党制の結果であるとともに原因でもある。 付け加えておくと、サルトーリは、分極的多党制や一党優位政党制は政党間のイデオロギー距離が大きい社会で発生し、政策よりもイデオロギーが与野党の対決軸になっているような社会における特に顕著な傾向であると指摘している。イタリアの政治状況については詳しくないので当コラムは論評を差し控えるが、確かに日本に関しては、冷静な政策ごとの議論が成立せず、何を議論していても最後は「反日!」「ネトウヨ!」の罵り合いになっている現状がある。この状況に当分の間、変化はなさそうに思える。 注1)サルトーリ自身も認めているが、この基準も完全なものではない。たとえば英国は二党制に分類されているが、サッチャー政権時代には保守党が連続して3期、18年間政権を担当しており、一党優位政党制の基準を満たすまであと一歩だった。仮にこのような政治体制まで一党優位政党制に含めれば、二党制、多党制がその意味を失ってしまう。 ●公然と登場した「反議会制民主主義」勢力 そして、このような不毛な政治的麻痺状態に嫌気がさしたのか、今回の総選挙に関して、日本政治の今後を占う上から見過ごすことのできない出来事があった。ひとつは、イラク戦争に反対し、時の小泉政権によってレバノン大使を解任され外務省を追われた元外交官、天木直人氏がインターネット上で公然と投票ボイコットを訴えたこと(注2)。もうひとつは、「日本未来ネットワーク」なる謎の団体が、政治への不満を表明する方法として白票投票を呼びかけたことである(注3)。注目しなければならないのは、議会制民主主義制度からの「退出」を主張する勢力が、選挙公示期間中に公然と登場したことである。少なくともこうした主張は、これまで居酒屋談義ではあり得ても、公の場で行うべき道徳あるものとはみなされていなかった。ついに来るべきものが来たか、という思いにとらわれる。 日本未来ネットワークなる団体の正体は、多くの人が突き止めようと動いているが未だに判然としない。投票率が上がると不利になる与党関係者に雇われたIT企業によるステルス作戦という見方や、右翼系宗教団体による「人工芝運動」(草の根の「市民」が担っているものに見せかけた組織による運動)との見方もある。 当事者としては「うまくやった」つもりかもしれないが、日本未来ネットワークのサイトをよく見ると、白票運動を展開してもなお、10年後に同じ政治家が当選し続けており、彼らの運動が現実政治に何の影響も与えていないことを自分で暴露してしまっている。「問うに落ちず、語るに落ちる」とはまさにこのことだ。 投票ボイコットはともかく、白票運動が遠くない将来、政治的効果を持つことがあるとしたら、公選法改正によって例えば「第1位の候補者よりも白票のほうが多かった場合、その選挙区では当選者なしとする」というような規定ができたときだろう。その選挙区で当選させるに値する候補者がいないとき、全員を落選させたいとき、いつまでも議員定数削減に取り組まない国会に対し、有権者の力で強制的に議員定数を削減させたいときなどに白票投票が役立つことになるだろう。一票の格差を放置したまま当選した議員に「国民の代表」「選良」などと名乗ってほしくないときに、全選挙区で一定の有権者が「意思表示」して選挙区の全当選を無効にすることもできる(注4)。しかし、そのような法律のない現状では、投票ボイコットも白票も有効投票数を減らし、堅い組織票を持つ自民・公明両党を利するだけである。 注2)安倍解散・総選挙に対する最強の反撃は選挙のボイコットだ(天木直人ブログ、http://blogos.com/article/99141/) ●野党に何を求めるか、そしてどのような野党を育てるべきか さて、これまでの論考で、30年以上も前に書かれたサルトーリ「現代政党学」なども参考にしながら、日本政治の特質を見てきた。その中で、一党優位政党制が主に「政策よりもイデオロギー」の政治的土壌と、その原因でもあり結果でもある≪無責任野党≫によって発生していることを突き止めた。こんな言い方をしてはなんだが、自民党は55年体制当時からほとんど何も変わっておらず、昔からこの程度の政党である(せいぜい、昔は今ほど右翼イデオロギー的でも、やり方が露骨でもなかったという程度の話だ)。だとすると、戦後最悪の安倍ファシスト政権をのさばらせてきた原因は、やはり自民党ではなく野党にあるといえる。 思えば、私たちは自民党や、左翼運動がその考察対象(そしてあるときは連携相手や打倒対象)としてきた日本共産党以外の野党に関心を払ってきただろうか。ほとんど関心を払ってこなかったのではないだろうか。私たちは今こそ「野党とは何か、そして野党に何を求めるべきか」を真剣に議論すべきときだ。関心も持たれず、期待もされず、それでいて「自民党へのチェック機能も果たさず、政権も奪えず、けしからん」と言われても、野党各党にしてみれば「だったら、どうすればいいんだよ」と叫びたい気持ちだろう。 とはいえ、今、日本の選挙制度は1選挙区から1人しか当選できない小選挙区制だ。分極的多党制と共通特徴を持つ一党優位政党制が政党間のイデオロギー偏差の大きさに由来していることを考慮すると、イデオロギー偏差を埋めないまま、政治的立場が大きく隔たる野党同士が統一候補を擁立すれば「野合」批判を受け、各政党がバラバラに党勢拡大を目指せば共倒れして自民党に負けてしまう。このような八方塞がりの状況で、私たちは野党に何を求めればいいのだろうか。 政治学者の吉田徹によれば、二大政党制発祥の地、英国では野党は“Her Majesty's official opposition”と呼ばれているそうだ。直訳すれば「女王陛下の公認反対党」の意味であり「王立野党」とでも訳しておけばいいだろう。ジャーナリストのウォルター・バジョットが「『陛下の野党』という言葉を発明した(略)イギリスは、政治の批判を政治そのものにするとともに、政治体制の一部にした最初の国家である」と述べていることを吉田は指摘している(注5)。政権構想とか代案などという前に、まず与党にしっかり反対することが野党の第一の役割である。 同じ英国の17世紀の政治哲学者、ジェームズ・ハリントンは別の興味深い考察をしている。部屋の中には少女が2人だけいて、他に調停者もなく、2人の間にはケーキがひとつだけ置かれている。2人の少女は犬猿の仲で、とてもではないがケーキを公平に切り分けることなどできそうもない。さて、この2人の少女にケーキを均等に分けさせるにはどうしたらいいか? ハリントンはこの問いに対し、こう回答している――「ひとりの少女には自分の好きなようにケーキを切る権限を与えてもよいが、その代わり、もうひとりの少女には、ケーキが切られた後、先にどちらでも好きな方を選び取ってよいことにするのだ」。なるほど、ケーキを切る側の少女は、不公平な切り方をすれば、相手に先に大きい方を取られてしまう。自分の取り分を最大にするには2分の1ずつ均等にするしかないと理解するであろう。権力はきちんと監視され、批判され、チェックされたとき初めて適切に行使されることをケーキに例えたのである。 権力の行使は、なにも国家だけが行うのではない。2人の少女の例にあるように、人間が2人いればそこには権力関係が生まれ、「政治」が生まれる。ケーキを切ることは、議題を設定したり、議長として議事を進行させたり、議事録を作成したりするのと同じく権力でありその行使である。ケーキを切る側の少女が、もし何者によっても監視されず、批判されず、チェックも受けないとしたら、彼女は自分の取り分が最大になるように切るであろう。もしかすると、もうひとりの少女にはひと切れも渡さず、全部自分が食べてしまうかもしれないのだ。権力を与えたら何をするかわからない者を監視し、批判し、チェックし、ケーキを公平に切らせる――ここに野党の役割がある。 民主党政権時代の政権運営は、確かに目も当てられないほどのひどさだった。サルトーリが分極的多党制に関して指摘した≪政府が不安定であったり、次々とけんか好きな連合政権が交代劇を続けたりすると、誰が何に対して責任があるのか判らなくなってしまう≫という言葉は、民主党政権に向けられているかのようだ。しかし、そんな民主党でも、反対野党、抵抗野党としてなら、まだまだ存在価値があるのではないだろうか。 今こそ私たちは、野党に対して「きちんと政権与党をチェックし暴走を止めてほしい。あなたたちにその役割を期待している」という明確なメッセージを発しなければならない。野党各党が自分たちの役割を見失い迷走しているなら、私たちが期待と役割を与えることが必要だ。そして私たち有権者にも、野党を育てる粘り強い覚悟が求められる。 注5)「分裂」と「統一」のジレンマを克服する――野党勢の「オープン・プライマリ」という選択 (吉田徹、http://blogos.com/article/89335/) ●55年体制は再評価できるのでは? 読者の皆さんに当コラムから問題を出したいと思う。次の2つの選択肢のうちから1つを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。 (1)ケーキを切る相手側が自由な権力を持ち、どのような切り方をされてもあなたは文句を言えない立場にあるが、いつか自分も切る側に回れるかもしれない(が、なかなかそのときがやってこない) (2)自分がケーキを切る側に回ることは永遠にできないが、その代わり、切る側を監視し、チェックする権限を手に入れることで、毎回必ずケーキを半分食べることができる それでも私は(1)がいい、という人もいるだろう。しかし(2)を選ぶ人も多くいるのではないかと思う。(1)は現状の日本政治の例えであり、(2)は55年体制当時の例えである。政権交代の可能性が全くなかった55年体制当時のほうが、今よりも豊かで幸せな暮らしをできた理由を、このように説明すれば納得していただけるだろう。 与野党馴れ合いと国対政治がはびこり、唾棄すべき存在として一度は完全に破壊された55年体制だが、最近私は再評価すべきではないかと考えるようになった。現在の日本政治がイデオロギー偏差の大きさを基盤とし、責任野党が育ちにくいシステムであること、責任野党が存在しない中で再び55年体制時代を思わせる一党優位政党制が完全復活を遂げつつあること、そして55年体制に代わる政治体制が過去20年以上にわたって模索されながら、未だその輪郭さえ現さないことを考えるならば、自民党政権をしっかりと監視し、チェックできる健全野党の育成を通じて「ケーキを半分に切らせること」が私たちの果たすべき課題である(この課題さえ実現できれば、政権交代など別になくてもかまわない)。 ●暗闇に一筋の光明〜日本共産党躍進と沖縄 苦しいことばかりの総選挙だったが、暗闇に一筋の光明を見たのは日本共産党の躍進と沖縄(全4選挙区)での自民全滅だ。日本共産党は、改選前8議席から倍増以上の大躍進を見せ、当コラム執筆時点(15日午前0時)では20議席をもうかがう勢いだ。先の参院選で11議席に躍進した共産党は、衆参あわせて30人近い議員を抱えることになる。政権選択が叫ばれていた当時の低迷を思えば信じられないほどだが、安倍政権批判票を一手に引き受けての勝利である。質問主意書の数など、無所属議員が頑張っているのに比べれば、共産党議員はいま一歩の水準だ。今後は国民の期待を背に、もっと自民党政権と対峙し、活発に論戦を挑んでほしい。 沖縄では自民党は1〜4区の全区で基地反対派の統一候補に敗北した。統一候補の所属も共産、社民、生活、元自民(翁長派)と多岐にわたり、まさにオール沖縄の多様性を示している。 2007年6月、沖縄戦における「集団自決」を巡って、「日本軍が関与した」とする教科書の記述に文部科学省から削除を求める検定意見が付けられたことをきっかけに、沖縄で抗議運動が活発化。同年6月22日、沖縄県議会で検定意見の撤回を求める意見書が全会一致で採択されるが、このとき、採択に向けて重要な役割を果たしたのが、今回、沖縄4区で自民党候補を破って当選した仲里利信氏だ。仲里沖縄県議会議長(自民、当時)は、沖縄戦当時8歳。「ガマの中に隠れていたら日本兵が来て、自決用に毒おにぎりを渡された」と証言したことが決め手となって、自民党も賛成して決議案が採択された。仲里議長の証言を聞いた共産党県議は涙を流したという。今思えば、この頃からオール沖縄の種は地道に、しかし確実にまかれていたのだ。 集団自決を歴史から抹殺し、なかったことにしようとしたのは当時の第1次安倍政権だ。その第1次安倍政権の前に立ちはだかったのが仲里さんである。その仲里さんが、今また第2次安倍政権による基地押しつけの前に立ちはだかっている。沖縄の、保守勢力も巻き込んだ反基地の流れが後退することはもはやない。 ●戦後日本政治史の中で 今回の総選挙の結果を一言で要約すれば、離合集散ばかりが華やかだった「第三極」が最終的に崩壊したこと、そして55年体制崩壊以降の20年にわたって繰り広げられてきた「政権交代可能な保守2大政党体制」に向けての壮大な実験に「失敗」の最終結論が出されたという点にある。その意味では、どんなに盛り上がりに欠けたとしてもやはり歴史的な選挙だったと思う。「二大政党制定着せず」「55年体制の再建が日本政治にとってベストではないとしても、ベターの選択」というのが当コラムの最終結論であったことにほろ苦さを感じる。しかし、私たちが自民党と対峙する道はそこからしか開かれないことも事実なのだ。 最後に、大勝した自民党とどのように対峙すべきかについて述べ、当コラムを締めくくろう。サルトーリが述べたように、一党優位政党制や分極的多党制は「政治的不公正競争市場」の産物なのだから、自民が大勝したからといって気落ちする必要はない。選んだ覚えもないのに独占市場の中で勝手に使わせられている電力会社と同じであり、使わせられている以上、私たちには批判する権利がある。 オリンピックやワールドカップのように、4年に1度の選挙のときだけお祭り騒ぎをし、負けたら「やっぱりダメだったね」とあきらめ、日常生活に帰って行くという態度では未来を切り開くことはできない。「お前など選んだ覚えもないし、独占市場での勝利は真の勝利ではないのだから調子に乗るな」とせいぜい批判し、監視し、チェックに努めよう。私たちの敵、安倍晋三は、2012年の選挙が史上最低の投票率となる中で首相になった男だ。「史上最も少ない国民からしか選ばれなかった男」が、今また政治的不公正競争市場の中で「選ばれた」からといって何を恐れる必要があろう。大義は私たちの側にある。恐れず、しかし侮らず、堂々と天下の大道を進もう。 <参考文献> (黒鉄好・2014年12月15日) Created by staff01. 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