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LNJ Logo 木下昌明の映画批評 : キルギス映画『明かりを灯す人』
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●キルギス映画『明かりを灯す人』
草原の村の電気工の話――夢の大切さを描く

『明りを灯す人』は、シンプルで味のあるいい映画だ。

 アクタン・アリム・クバト監督はキルギス人で、これまで日本でも『あの娘と自転車に乗って』や『旅立ちの汽笛』が公開されている。2本とも自伝的な作品で、観客は自分の若き日を画面の人物に投影してみることができた。なかでも、『あの娘と……』のなかで、主人公の少年が借りた自転車の荷台を外し、好きになった娘を前にのせて走るシーンは忘れがたい。

『明りを灯す人』は、娘ばかり4人いる“明かり屋さん”とよばれる電気工が主人公。これを童顔の監督が白っぽい民俗帽子を被って好演している。

 舞台は、天山山脈の麓(ふもと)にあるキルギス共和国の風光明媚(めいび)な草原の村。電気料金高騰の折、主人公は貧しい老人の家で、メーターに奇妙な細工をしている。こんなことってあり!? と驚くが、警察に連れて行かれて「細工したのか?」と詰問されると、「払えない人の分だけ」とあっさり認める。このように、彼は困った人には愛用の自転車に乗って助けに行かずにいられない性分なのだ。彼が釈放された時、妻はたらいで体を洗ってやる。ふと妻の手が彼の股間にのびて、「私の“革命児”は元気?」という艶っぽいシーンもある。

 彼は草原に大きな風車を建てている。妻からは「あんたのオモチャ」と揶揄(やゆ)される。だが彼は「息子を授かる」という夢と同時に、強い風の吹く渓谷を風車で埋め尽くし、村中の電力をまかなうという大きな構想を抱いているのだ。

 ソ連崩壊でキルギスは独立したものの、政治的混乱は続く。若者は国外へ出稼ぎに行き、村は疲弊して開発の波が押しよせている。映画はそんな政情不安も描き出している。――彼の夢はかなうのか。

 9月19日、「さようなら原発」の集会が東京の明治公園であった。人々が広場からあふれていたのにはびっくりしたが、そこにベビーカーを押す若い母親たちの姿もあった。日本にも“明りを灯す人”は現れないものか。(木下昌明/『サンデー毎日』2011年10月16日号)

*『明りを灯す人』は東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開中。

[付 記]

 映画は一度みたくらいではみえてこない場合がある。それが二度三度みると、これは監督の心に思い描いていたシーンだということがわかってくる。わかってくると、いっそうその映画がいとしくなる。

 たとえば、この映画での主人公“明かり屋”と近所の少年とのなにげない交流のシーンが3回でてくる。

 一度目は、主人公が電柱の上から落としたマッチ箱を少年がひろって箱に小石をいれて投げ返すシーン。そのあと、主人公がふと遠方をみると、向こうの通りを若い女が歩いているのに目がとまる。彼は、それをじっとみている。電柱の下で、なんだろうと見上げている少年。

 二度目は、別の日、その少年が電柱に耳をあて神秘な“電気の音”をきいている。そこに主人公があらわれ、別の電柱に耳をあてて少年にほほえむシーン。

 三度目は、主人公が仕事中、少年が高い木にのぼって降りられなくなったという報せをきいて、彼は仕事をほっぽりだして助けに木にのぼるシーン。これがとてもいい。木の上で彼は、少年に「どうしてのぼったの?」と初めて口をきく。少年は「山の向こうがみたかったから」と答える。すると彼は「おれも子どものころ、そうだったよ」と話しかける。そこから昼なのに月がみえるのだ。

 この3つのシーンを通して、主人公には息子がほしかったことがよくわかる。自分の少年時代と同じように好奇心をもって木にのぼるような息子がほしかったこと、そして、その息子が自分の跡を継いでくれることを――。また、少年は電柱の上から遠くをながめる“明かり屋”をみて、自分も高い木のうえから遠くがみたかったこと、天山山脈の向こうには、なにがあるのだろうか――と。

この映画には、夢の大切さが描かれている。


Created by staff01. Last modified on 2011-10-13 14:48:02 Copyright: Default

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