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LNJ Logo 「慰安婦」にとってあの戦争は終わっていません
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安原です。

2月15日に行われた公聴会でのオランダ人ヤーン・ルフ・オヘルネさんの
陳述の仮訳です。原文は下記のURLにあります。

http://www.internationalrelations.house.gov/testimony.asp?committee=3

オーストラリアの「慰安婦」の友人
ヤーン・ルフ・オヘルネAO の陳述

米下院
外交委員会
アジア・太平洋・地球環境小委員会

「慰安婦」の人権の保護についての公聴会
2007年2月15日(木)

ファレオマバガ議長と小委員会委員のみなさま:

「慰安婦」の苦難について議会公聴会を開催してくださって有難うございます。
今日、私は挺身隊協議会のイ・ヨンスさんと韓国アメリカン・サービス・教育コ
ンソーシアムのキム・クンジャと共に私たちの物語を分かち合うことができて嬉
しく思います。

さらに、私はマイケル・ホンダ議員が下院決議121を上程して下さったことを感謝
したいと思います。決議は日本政府が「公式に」明白にあいまいなところのない
謝罪を行うことを要求し、そして「歴史的な責任をとる」ことを求めています。
また、私はエニF.H ファレオマバガ議長が証人を招待して下さったことに感謝し
ます。彼は私たちに正義をもたらすことを望んで世界に向かって私たちが話せる
ようにして下さいました。

戦時下の女性としての私の経験は完全な人格の下落、屈辱および耐え難い苦痛の
経験でした。 第二次世界大戦中に、私は、日本軍のためにいわゆる「慰安婦」
になることを強いられました。慰安婦とは性奴隷の婉曲な言い方です。

忘れられた人たち

私は現在インドネシアとして知られている旧オランダ領東インド諸島のジャワで
1923年に生まれました。オランダ植民家族の4世でした。 私は砂糖農園で成長
し、とても素晴らしい幼年期を過ごしました。 私はカトリック系学校で教育さ
れ、ジャワのサマランの聖フランシスコ教育大学を卒業しました。

1942年、私が19歳だった時、日本軍がジャワに侵入しました。 何千人もの女性
と子どもと共に、私は3年半日本の捕虜収容所に抑留されました。日本の捕虜収
容所でのオランダ人女性の恐怖、残虐、苦痛そして飢餓について多くの物語が語
られました。 しかし、1つだけ語られなかった物語がありました。第二次世界大
戦中に日本が犯した最悪の人権侵害の最も恥ずべき話: 「慰安婦」、ジュウグン
 イアンフの物語です。女性たちがどのように意志に反して旧日本軍に強制的に
とらえられ、性のサービスを提供させられたかについてです。

私は2年間収容所にいました。1944年に、当時の最高位の日本人将校たちが
収容所に到着しました。 命令が出され、17歳以上の独身の女性は構内に一列に
並ばされました。将校たちは私たちの方へ歩み寄りました。そして、選別過程が
始まりました。 彼らは列のあちこち歩きまわり、上から下までじろじろ見て、
脚を見、スタイルを見、私たちのあごを上げ、そして10人の奇麗な少女を選びま
した。 私は10人のうちの1人でした。 私たちは前に出るように命ぜられ、私た
ちは連れていかれることになったから荷物を小さなバッグに詰めるように言われ
ました。収容所の全員が抗議しました。また、私たちの母親たちは私たちを引き
戻そうとしました。 私は再び彼女に会えるかどうかも知らずに、母親を抱きし
めました。 私たちは軍用トラックへ乗せられました。 私たちはおびえ、バッグ
を握り締め、互いにしがみつきました。

トラックはスマラン市に止まりました、それは大きなオランダ植民地様式ハウス
の前でした。 私たちは、外に出ろと命じられました。 私たちがハウスに入って
すぐ、これがどんな種類のハウスだか分かりました。 ある日本人が私たちは日
本人の性的快楽のためだと伝えました。 ハウスは売春宿でした。

私たちは大声で抗議しました。 私たちは意志に反して、ここに来ることを
強制されたと訴えました。 彼らに私たちにこんなことをする権利はない、また、
ジュネーブ条約違反だと訴えました。 しかし、彼らはただ私たちをあざ笑い、
好きなようにできると言いました。 私たちは日本の名前を与えられ、寝室ドア
に付けられました。

私たちはとても無邪気な世代でした。 私はセックスに関して何も知りませんでした。
売春宿の「オープニング ナイト」の恐ろしい記憶は生涯私の心を苦しめました。
私たちは、食堂へ行くように命じられました。そして、ハウスが軍人でいっぱい
だったのを見て、私たちはお互いにしがみつきました。 私は助けになることを
頼みにして祈祷書を持ち、少女たちをリードして祈りをしました。

その後、彼らは一人ずつ私たちを引きずって連れて行きました。 私は寝室から
の悲鳴を聞くことができました。 私はテーブルの下に隠れましたが、すぐに見
つかりました。 私は彼に逆らいました。 私は力いっぱい彼を蹴りました。 私
が彼に自分を与えなかったので、日本人将校は非常に腹を立てました。 彼は剣
を取り出し、それを私に向け脅迫しました。もし私が彼に降参しなければ、彼は
私を殺すでしょう。 私は追い詰められた動物のように、部屋の隅に体を丸めま
した。 私は、死んでも構わないと彼に分からせました。 私は彼に祈りを言うこ
とを許してくれと彼に懇願しました。私が祈っている間、彼は服を脱ぎ始めまし
た。 彼には私を殺す気はありません。 死んだ私は彼にとって何の役にも立たな
いからです。

その後、彼は私をベッドに投げつけ、私の衣服すべてをはぎ取りました。
彼は、私の裸の体の至る所に剣を走らせ、猫が鼠を扱うように遊びました。 私
は、まだ彼と戦おうとしました。しかし、彼は私の上にのしかかり、その体重で
動けなくしました。 彼がとても残忍な方法で私をレイプしたとき、涙が私の顔
から流れ落ちました。 私はこの行為に終わりがないのではないかと思いました。

彼がついに部屋を去った時、私は体中で震えていました。 私は、残された衣類を
集めて、バスルームへ逃れました。 そこで、私は、他の少女たち数人を見つけ
ました。 私たちはみんなショックをに打ちひしがれ、泣いていました。 バスルー
ムで、私は体から汚れと恥辱をすべて洗い流そうとしました。洗い流したかった
のです。 しかし、夜はまだ終わっていなかったのです。まだ日本兵が待ってい
たのです。これが一晩中続きました。それはほんの始まりで、毎週、毎月続いた
のです。

ハウスは完全に警備されていて、逃げ道はありません。 時々、私は隠れようと
しましたが、いつも見つかり、部屋へ引きずられました。 私はありとあらゆる
手段を試みました。私はさらに髪の毛をすべて切りました。したがって、私は全
く坊主頭になりました。 もし私が醜くなれば誰も私を求めないだろうと思った
からです。 しかし、私は好奇心の対象になり、 彼らは全員、髪の毛を切った少
女を望みました。 それは逆効果だったのです。

私は日本人にやすやすとレイプさせませんでした。 私は、彼ら一人一人と戦い、
そして、私は繰り返し殴られました。 いわゆる「慰安所」では、私は組織的に
絶えず殴られレイプされました。 性病検査のため検診に来る日本人医者でさえ
も、来るたびに私をレイプしました。 また、私たちにもっと屈辱を味合わせる
ために、ドアと窓は開けたままでした。だから、日本人たちは、私たちが検査さ
れる様子を見ることができました。

「慰安所」にいた間中、日本人は私を虐待し、私を恥辱にまみれさせました。
私にはぼろぼろになった身体だけが残されました。 日本人兵士は私の若い命を
めちゃめちゃにしました。 彼らは私からすべてをはぎ取りました。 彼らは私の
若さ、自尊心、尊厳、自由、持ち物そして私の家族を奪い取りました。

しかし、彼らが私から奪うことができなかったものが一つありました。 それは
神を信ずる私の信仰と神への愛でした。 これは私のものでした。また、誰も私
からそれを奪うことができませんでした。 日本人が私に対して行ったすべてを
越えて生き残ることを助けたのは私の深い信仰でした。

私は、彼らが私に行ったことについて日本人を許しました。しかし、私は忘れる
ことはできません。 50年の間、「慰安婦」は沈黙しました; 彼女らは汚された、
汚いと感じながら生きました。この女性たちのぼろぼろにされた命が人権問題に
なるのに50年かかりました。

「慰安婦」にとって、あの戦争は終っていません。 私たちはまだ悪夢を見ます。
戦後、私の身体を元に回復するために大きな手術が必要でした。 1992年には、
韓国人の「慰安婦」が沈黙を破りました。 キム・ハクスンさんが始めて告白し
ました。 彼女たちが、日本政府の謝罪、補償、正義を求めて嘆願するのを私は
テレビで見ました。 私は彼女らを支援しようと決心しました。 私は1992年12月
に東京の国際公聴会で、日本の戦争犯罪についての沈黙を破り、第二次世界大戦
における、最悪の人権侵害の1つを明らかにしました。 それは忘れられた大虐殺
だったのです。

過去15年間、私はオーストラリアと海外にいる「慰安婦」の苦難と戦火の渦中
にいる女性の保護のために疲れ知らずに働いてきました。 今、時間はなくなり
つつあります。 60年経った今、「慰安婦」は正義を受ける資格があります。 彼
女たちは安部晋三首相自身の口から、日本政府から正式の謝罪を受ける資格があ
ります。 日本政府は自らの戦争犯罪に対して十分な責任をとらなければなりま
せん。

1995年には、彼らは被害者に賠償するためにアジア女性基金を設立しました。
この基金は「慰安婦」を侮辱するものでした。私を含む女性たちはそれを受けと
ることを拒否しました。 この基金は民間基金でした。お金は政府ではなく民間
企業から来ました。 日本はその歴史と折合いをつけ、彼らの戦時中の残虐行為
を認めなければなりません。 彼らは過去に犯された誤りについて正確な歴史を
教えなければなりません。

「慰安婦」生存者が話しをするのは重要なことです。小委員会の議長と委員の
みなさま、

私は、私の話を分かち合うこの機会に感謝しています。 私はこの発言によっ
て、世界平和と和解に貢献することができることを、そして女性に対する人権侵
害が二度と起こらないことを希望します。

ありがとうございました。

Created by staff01. Last modified on 2007-02-17 14:06:04 Copyright: Default

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