なぜ国労バッジをつけ続けるのか(辻井義春) | |||||||
Menu
おしらせ
・レイバーフェスタ2024(12/25) ・レイバーネットTV(11/13) ・あるくラジオ(10/10) ・川柳班(11/22) ・ブッククラブ(10/12) ・シネクラブ(9/1) ・ねりまの会(10/12) ・フィールドワーク(足尾報告) ・三多摩レイバー映画祭 ・夏期合宿(8/24) ・レイバーネット動画 ●「太田昌国のコラム」第96回(2024/11/15) ●〔週刊 本の発見〕第368回(2024/11/21) ●「根津公子の都教委傍聴記」(2024/11/14) ●川柳「笑い茸」NO.157(2024/9/26) ●フランス発・グローバルニュース第14回(2024/10/20) ●「飛幡祐規 パリの窓から」第95回(2024/9/10) ●「美術館めぐり」第4回(2024/10/28) ★カンパのお願い ■メディア系サイト 原子力資料情報室・たんぽぽ舎・岩上チャンネル(IWJ)・福島事故緊急会議・OurPlanet-TV・経産省前テントひろば・フクロウFoEチャンネル・田中龍作ジャーナル・UPLAN動画・NO HATE TV・なにぬねノンちゃんねる・市民メディア放送局・ニュース打破配信プロジェクト・デモクラシータイムス・The Interschool Journal・湯本雅典HP・アリの一言・デモリサTV・ボトムアップCH・共同テーブル・反貧困ネットワーク・JAL青空チャンネル・川島進ch・独立言論フォーラム・ポリタスTV・choose life project・一月万冊・ArcTimes・ちきゅう座・総がかり行動・市民連合・NPA-TV・こばと通信
|
JR東日本でたった一人国労バッジをつけ続け、重い処分を受けている辻井さんは、9月14日、東京都労働委員会で証言にたった。以下は、その時に提出した陳述書である。(M)
陳 述 書 申立人 辻井 義春 国労東京地本横浜支部横須賀駅分会久里浜班 1,横浜支部は国労バッジをめぐる労働委員会で全面的に勝利してきました 私は、1974年7月に国鉄に臨時雇用員として採用され、9月に準職員に発令され、すぐに国鉄労働組合に加入し、今日まで国労綱領や闘う方針を守って組合活動を取り組んでいます。その中でも最も苛烈な攻撃は、87年の国鉄「分割・民営化」での国労解体の攻撃でした。 私は「分割・民営化」時は、戸塚駅の改札に勤務し、国労戸塚駅分会執行委員長の役職でした。「分割・民営化」時の、組織破壊・集団脱退、国労組合員への「意識改革しなければ新会社に行けない」などの脱退強要、見せしめ的な「日勤勤務」、配転、担務変更、管理職による嫌がらせなど、筆舌に尽くしがたい攻撃を受けました。 私は国鉄時代から国労バッジを付けていましたが、何ら問題になりませんでした。1987年(昭和62年)4月1日にJR東日本になってから、国労バッジ取り外しの強要が会社をあげて一斉に始まりました。戸塚駅でも国労バッジ着用者に対して、朝の点呼時に助役が「服務規程違反だ」「バッジをはずしなさい」と言い出しました。拒否すると、一人ひとりが駅の講習室に呼び出され、複数の助役から「どこから給料をもらっているんだ」、「会社が大事か組合が大事かどっちなんだ」、「家族の事を考えたら、どうしたらいいか分かるな」等と言われました。 脱退強要を含めた国労バッチの取り外し強要が、着用者に熾烈に続けられました。会社は、就業規則20条3項の「会社が認めた胸章、記章以外のものはつけてはいけない」という条文を持ち出してきますが、国労の組織的解体、弱体化、闘う組合員憎しのイジメが目的でした。 私は1987年5月25日に勤務時間に駅長室に呼び出され、増田駅長、加藤工事助役から(10:50〜11:00)「団結権は否定しないが、会社の規則、就業規則はどう思うのか、国労バッジをつけている事は勤務時間内の組合運動です」「会社の認めた以外のものは取ってもらいます。国労バッジは認めないので外しなさい」と言われました。以後も何度も同様の攻撃がありました。 同年7月21日には(10:54〜11:47)駅長室に呼ばれ増田駅長から「このヒヤリングの意義は、業務遂行、就業規則の遵守、協調性、積極性、など仕事とその成果を総合的に判断し、是正する所は直してもらい、頑張ってもらう事です」、「辻井君の場合は、仕事の面では普通という評価であるが、課題として国労バッジ、組合マーク入りネクタイ、点検摘発メモなどを早急にはずして下さい。」と言われました。 同年8月4日(13:36〜13:52)加藤工事担当助役が改札詰所で「20条3項を守るように、会社は国労バッジは認めていない」、「夏のボーナスもカットされ仕事は一生懸命やっているのにつまらないでしょ」、「国鉄時代と違って厳重注意といっても大変重い処分とみなされるよ」、「組合員の生活は分会長の辻井君の肩にかかっているんだよ」と言いました。 同年8月18日(13:36〜14:06)駅長室で加藤工事助役が「就業規則を守って下さい。守れないなら戸塚駅の駅員としてふさわしくない。現場には人事権はないけれど、駅長が上にあげる事は出来る」、「バッジをつけていないと国労の団結権が守れないのですか」、「不当労働行為というのは管理職に対してあてはまる事で、新会社では、私は助役なので一般組合員であり、不当労働行為はあてはまらない。」と言いました。 同年8月20日(10:25〜10:36)赤羽根営業助役が改札詰所で「このまま国労バッジをつけ続ければどうなるかわからないよ、今年の6月の件(不当処分の件)冬の手当もどうなるか」「そんなつまらない意地は張らないで」「地労委という所は法的拘束力はないよ」などと言いました。 以後も点呼時はもとより、様々な形で国労バッジの取り外しが強要されました。 「分割・民営化」を前後する過程は横浜支部でも多くの国労組合員が人材活用センターに送られ、暴力事件のデッチ上げ(横浜人活センター事件。無罪確定)、拠点職場の解体を狙った強制配転と暴力事件のデッチ上げ(鶴見駅事件。勝訴確定)など、国労解体の攻撃が吹き荒れました。 国労バッジ着用闘争は、全国的な国労解体の攻撃に抗して、国労本部、東京地本や横浜支部の指示と現場組合員の怒りが結合し開始されました。当時は全国で約6000名が着用しました。横浜支部では710名(第一次申立での救済対象者数)を数えています。横浜支部は東京地本の先頭で組織をあげて取り組みました。これに対し会社が処分を強行したため、以後、国労との間の重大な争議問題となっています。 国労東京地本と横浜支部は、会社によるバッジ着用を口実とした不当処分と、それにともなう賃金差別、昇進試験の受験資格剥奪の撤回と、会社の謝罪を求めて東京、神奈川地方労働委員会への救済申立てを取り組みました。労働委員会への救済申立は組織をあげて、もれなく綿密に行われ、横浜支部では87年の第1次から、第4次の申立が行われました。私は全部の事件の救済対象者です。 (1)第1次バッジ事件(1987年夏季一時金および同年6月の処分取り消し、1987 年昇級カット分)。 (2)第2次バッジ事件(1987年冬季一時金および1991年までの処分取り消 し、夏、冬の一時金カット及び昇級カット分)。これに対して1994年 7月29日、神奈川地方労働委員会から勝利命令、のべ491名に1億 2800万円の支払いと処分の取り消し。 (3)第3次バッジ事件(1992年〜2000年までの処分取り消し、夏・冬一時 金と昇級カット分)これに対して2003年1月16日神奈川地方労働 委員会からのべ7390名に2億5000万円の支払いと処分取り消し の命令 (4)第4次バッジ事件(2001年〜2002年までの処分取り消し、昇級カット、2001 年夏・冬一時金カット分と2002年夏季一時金カット分)これに対して20 04年12月16日神奈川地方労働委員会から、のべ369名に1346 万円の支払いと処分の取り消し命令。 以上(1)〜(4)の全事件で、組合側の完全勝利命令が交付されていることは周知の事実です。 会社は、地労委命令の履行を拒否し続けてきました。しかし第一次事件は1999年11月11日最高裁判所にて受理申し立てに対する不受理決定により組合側の勝利が確定し、会社は翌2000年2月25日の賃金支払日に、処分を取り消し、年5パーセントの利息をつけカット分を返還しました。同時に「今後このような行為を繰り返さないことを誓約します」との謝罪文を組合に交付しました。私も1987年夏季一時金カット分22607円に5%の利息をつけた36905円を返還されました。支部はこの勝利を大きく取り上げ、勝利集会も開催しました。 最高裁での確定に基づき謝罪文を組合に手渡したことで、私たちは今後はバッジ処分は出さないだろうと期待していました。しかし、会社はこの後も、以前と変わることなく処分を強行し続け、ついには本件の「警告文」と、処分の激化にまで突き進んでいます。 2,どんな不利益を受けようとも私はバッジを外すことは出来ません 私が国労バッジを付けた理由は、組織の指示があった事と同時に、国鉄分割民営化での国労解体の攻撃にあくまで反対し、抵抗する意志を表明し続ける必要があると考えているからです。 国鉄分割民営化の実態は、1047名の解雇に象徴されるように筆舌に尽くせない労働者イジメ、団結破壊、権利剥奪の連続でした。私も、身を切られるような現実にさらされました。 私が所属していた戸塚駅分会でも2名の若い仲間がJR不採用になりました。Y君とT君は、不当な処分攻撃を受け、それが不採用の口実にされました。Y君は合理化の中で待命日勤を命じられ、講習室に押し込められ、仕事も与えられない日々が何ヶ月も続いていました。尼崎事故で社会的に悪名を馳せた「日勤教育」の原型です。そのような中でY君は、「お茶の道具や、体を休める長いす等を設置して欲しい」と書いた紙を黒板に貼り付けて要求しました。要求書を駅長室に持って行こうものなら、職場離脱で処分されるため、講習室で張り出したのでした。それを巡回にきた荻野駅長が発見し、一方的に剥がそうとしました。Y君はそれを止めようとして胸に触れたことが「暴力」とされました。それを口実に6ヶ月の停職処分が強行され、JR不採用とされました。 T君は戸塚駅の踏切交通保安係でした。当時、当局の都合で勤務変更が生じました。当局は本人の都合も聞かず、連絡もせず、一方的に勤務変更指示書を張り出しただけでした。T君はこの指示書を見なかったため変更勤務は知らないままで勤務しました。そしたら、当局は「見なかったはずは無い」と強弁し、不参扱いで3ヶ月の停職処分を強行しました。この処分などを口実に、T君もJR不採用とされました。この2名に対しても、神奈川地労委は救済命令を発しています。 1987年の2月20日に、T君と横浜駅付近の酒屋で飲みながら話したことは、今も忘れることは出来ません。16日に私にはJR採用が通知され、T君には採用通知が無く不採用となったことが明らかになった直後でした。 T君は、「辻井さんは採用通知をもらえて灰色だが、採用通知が来なかった俺は真っ黒だ」などと言いました。お互い悔しい思いをしながら、涙を流して酒を飲みました。この事の悔しい思いは、決して忘れることができません。 私に対しては、荻野駅長は普段から「辻井君みたいな社員は絶対に新会社には採用にならない。私が採用させないようにする」と言っていました。2月16日の私への採用通知を読み上げた後に、荻野駅長は採用通知を私に放り投げてきました。私が採用されたことが、悔しくてたまらなかったのでしょう。 国労の分会で、同じ釜の飯を食ってきた(実際、夜食は皆で作って食べていた)仲間が、紙一重で不採用と採用に分けられ、仲間が首を切られた悔しさは今も忘れることはできません。自分だけは採用されたいと国労を脱退するのではなく、厳しくても「仲間を裏切らない」と信じ合い分会全員が団結して闘ってきました。 解雇された2名の仲間と共に団結して闘うという意志表示として、処分されようとも私は国労バッジを外すことはできません。また、地労委命令を守らない、最高裁で確定した判断をも反故にする会社への抗議としても付け続けています。 3,私がこのたび救済申立を行った理由 横浜支部は2002年の夏の処分(査定期間は01年9月〜02年2月)に対しても救済申立を行っています。 2002年3月に「警告文」が掲示されて以降は、横浜支部執行部が「組織として不利益を避けたい」と言いだし、2度の集会が持たれ議論されました。様々な議論が交わされましたが、組織としてバッジを外すという決定はしていません。しかし、解雇も含めた重処分の脅しと過酷な経済的不利益が重なる中で、バッジを外さざるを得ない仲間が出てきました。 国労バッジ処分による経済的不利益は莫大です。私に関しては、定期昇給が延伸されたために生じた賃金減額分は、約6万3千円にのぼります。2002年12月から2006年6月の間の一時金減額分(15パーセントカット)は、133万円をこします。今年度の毎月の賃金支給額は27万円程度ですから、家計は月々7万程度の赤字となっています。減収は1年間で40万円以上になり、定期昇給もなし、夏季・冬季手当は15パーセントカット、減給、出勤停止が1日から3日間に処分がエスカレートして退職金、年金等を考えると精神的、経済的には大変負担が重いと同時に憤りを覚えます。妻は、不当な処分と賃金カットに怒りながら、食費や衣類の購入を控えやりくりしています。 「警告文」が出されて以降は、処分が訓告・戒告から、出勤停止3日が年に4回にエスカレートしました。出勤停止は仕事をさせず、次は解雇もあり得るという処分ですから、これまでとは違う精神的重圧があります。2004年からは、円形脱毛症となり今も直っていません。 会社は今でも、点呼時には必ず助役が「組合バッジは就業規則で認めていません、外して業務に就くように指示します」と言い続けています。処分発令の時には、駅長が居丈高に通告してきます。 会社は、バッジの着用者が減った現在では、国労グッズ(ネクタイ・ネクタイピン・国労マーク入りボールペン等)はもとより、胸ポケットにマーカーペン等を付けている組合員を処分の対象にしようとし調査をしています。今年の2月には横浜支社総務部長が「組合グッズ着用者の実態把握」を指示し、現場長に報告を求めています。あくまで国労を解体する、国労意識を一掃するまで攻め続けるというもので、この姿勢は国鉄「分割・民営化」当時と全く変わっていません。 バッジを着用して職場の規則を乱したり、業務に支障をきたりした事は勿論のこと旅客からの苦情など何一つありません。 にもかかわらず会社は、国労憎しをあらわに、労働委員会命令を履行しないで不当労働行為のやり得とばかりに処分を続けています。国労バッジについて最高裁判所の判決が出されていても、それも遵守しない会社をどうしても許す事が出来ません。会社は、会社の意にそぐわない国労と組合員はその人格も認めない姿勢であり、職場に組合、労働者の権利、民主主義は一切必要ないとの態度で終始一貫しています。 会社はコンプライアンスアクションプランの中で「法令遵守及び企業倫に関する指針」を定めた2005年6月に宣誓しています。会社に尋ねたい、「就業規則と法律(労働組合法)ではどちらが重いのでしょうか?」国労バッチを嫌悪し、国労敵視の労務政策が一貫して行なわれている事は、法治国家である日本で、リーデングカンパニーをめざすJRとしては言語道断です。 私は、第一次から第4次のバッジ事件の救済対象者で、労働委員会闘争に率先して取り組んできました。「警告文」が出されて以降も、横浜支部の役員に何度も組織的な反撃を要請しましたが、「難しい」と答えるだけで、未だに実現していません。国労の団結が破壊され、労働委員会の勝利命令が踏みにじられるのを見過ごすことはできません。 団結破壊と組合員の受ける不利益扱いはますます増大をしております。私達家族から不当な苦しみを取り除いて、安心して生活が出来ますように個人で救済申立を行いました。 貴労働委員会におかれまして、一日も早い救済命令を心から切望いたします。 以上 Created by staff01 and Staff. Last modified on 2006-09-17 00:25:14 Copyright: Default |