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韓国:韓国政治の偶像、二つの神話の終止符(2)朴正煕経済神話の虚と実
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朴正煕経済神話の虚と実

ワーカーズ12号 企画 - 韓国政治の偶像、二つの神話の終止符(2)

ソン・ミョングァン/写真ジョンウン 2016.06.03 18:31

[編集者注]現在、韓国を率いる2つの神話は、何よりも朴正煕(パク・チョンヒ)と盧武鉉(ノ・ムヒョン)の神話だ。 わらぶきの家もなくし、村道も広げ、セマウル運動で豊かに暮らし、保税を実現したという朴正煕成功神話。 ベトナム戦に派兵されたり、鉱夫や看護師としてドイツに行ったり、さもなくば熱砂の地である中東で土木仕事をすれば、大金を握ることができた時期、 京釜高速道路で流通の血脈を広げ、浦項製鉄建設に象徴される重厚長大型産業の育成で韓国経済を磐石にしたということだ。 しかし朴正煕政権19年、果たして韓国経済は「神話的」に成長しただろうか?

一方、高卒者が大統領になるまで、人物そのものが神話になった盧武鉉。 朝鮮・中央・東亜と検察などの既得権勢力に対抗して韓国民主主義を発展させた政治改革の殉教者で、 人が生きる世の中を夢見て生きたという盧武鉉の神話はどれほど事実に基盤をおいたものだろうか?

神話が神話である理由は、必ず虚構を伴うからだ。 朴正煕が本当に経済神話の主役になることができるのか、盧武鉉が政治改革の神話を自信持って話せるのかを調べる。 韓国社会を両分する二つの神話の実体が示すものが何なのかも確認する。 この企画はメディア忠清と共同で進められ、 「チャムセサン週例討論会」で事前に議論された内容を反映する。

移植された産業化戦略と軍事政権の「汚い金」

朴正煕(パク・チョンヒ)が軍事クーデターで執権した当時、韓国と北朝鮮の経済的な差はどれほどだったのだろうか? 1961年の韓国の1人当りのGNPは、北朝鮮とフィリピンの40%に過ぎなかった。 当時の韓国は戦後、米国から最も多くの援助を受ける国であった。 それに比べて経済的発展は非常に遅かった。 一部ではその理由が李承晩(イ・スンマン)元大統領が経済開発計画そのものを嫌悪したためだと評価するとも言う。 共産主義国家のような「計画経済」を彼は受け入れられなかったということだ。 だが1950年代の重工業中心の計画経済で大きく成功した北朝鮮の経済力は、韓国の2.5倍にもなった。

それだからだろうか? 重工業を中心とする北朝鮮の発展をうらやんだ朴正煕政権は、執権初期から重工業中心の経済開発計画を進めた。 朴正煕李承晩とは違い、 計画なく腐敗だけが横行する市場主義を嫌った。 それで執権初期には1950年代の援助経済の甘い汁だけを吸う腐敗した官僚と財閥を断罪しようとした。 また、銃を取って強制的に米屋から米を押収して貧しい人々に無償供給することもした。 当時、朴正煕政権が見せたこうした統治の態度は、 当時の社会的な混乱と対立に嫌気がさしていた国民に新鮮な衝撃を与えた。

しかし意欲だけで具体的な戦略がなかった初期のクーデター勢力は、経済政策に対して非常に日和見主義的で実用的な態度を取るほかはなかった。 それで前の張勉政権の経済開発政策を模倣した。 当時、援助経済の限界を知っていた米国は、4.19革命で登場した張勉政権に自分が提示する経済開発戦略を移植しようとした。 そうした渦中で5.16軍事クーデターが行われ、朴正煕政権ができた。 米国は優柔不断だった張勉政権より、社会的混乱を落ち着かせ、経済開発計画を強く押し通す軍事政府を好んだ。

しかし米国が移植しようとした韓国の経済戦略は、軽工業中心の輸出主導産業化戦略だった。 援助の条件も、そうした戦略の受け入れと結びついていた。 特に米国は、韓国に対して日本との修交を要求した。 米国は韓国が日本との経済的分業関係を形成し、韓国の経済発展と共に東北アジアの安保協力を実現する背景を作ろうとした。 こうした戦略的な認識により、5.16クーデターの黙認、韓日協定の強要、輸出ドライブの注入につながったのだ。

朴正煕政権の重工業自立化路線は、米国の軽工業中心の輸出主導産業化と衝突した。 米国は韓国が無理に重工業を起こすよりも軽工業中心の輸出経済により、台湾のように日本の下請基地として機能することを望んだ。 しかし当時、北朝鮮との体制競争で低い地位に置かれていた朴正煕政権は、重工業育成政策を押し通した。 朴正煕政権は、これに反対する米国との摩擦により、重工業に必要な商業借款をほとんど受けられなかった。 そのため国内資本を動員するために、直接的な市場介入をするようになる。

株式市場介入と通貨改革の失敗、そして輸出主導経済の登場

執権初期に中央情報部は韓国電力の株式を故意に上げる作戦を取ったが、1年間の政府予算の10%に近い20億ファンを取った。 1963年3月の米安保会議報告書によれば、中央情報部は証券操作で2〜3千万ドル(現在の価値で1億7500万ドル、概略2000億ウォン)を取ったと書かれている。 また朴正煕政権は1962年6月、10ファンを1ウォンに変える通貨改革を極秘裏に断行した。 当時の通貨改革の目的は、タンスの金を引き出して、銀行の金庫の中に入れることだった。 増加した預金をそうして経済開発資金に活用しようとした。 ところが実際に蓋を開けてみるのと期待したほどの金は出てこなかった。 むしろ預金した金を自由に引き出せないようにしたため、金の融通が止まり、経済全体が大混乱に陥った。 当時、全工場の45%が稼動中止という状況をむかえる。 結局、米国が介入して7月13日に預金引き出しが再開される。 この事件は米国との摩擦の中で重工業を起こそうとした朴正煕政権の試みが失敗したことを意味する。

その後、朴正煕政権は経済開発計画を修正し、重工業自立化路線を放棄して軽工業中心の輸出産業に転換した。 1960年代の世界経済はね戦後資本主義の黄金期で、先進国の需要が多かった。 靴、衣類、かつら、人形など、後進国の安い商品がよく売れる時期だった。 思いのほか輸出が好調で、実利に目がさとい良かった朴正煕政権は、いちはやく輸出主導の成長を自分の業績だというイメージ・マーケティングをした。

問題は資金だった。 1961年当時の貯蓄率は3.9%で非常に低い状態だった。 定期預金の金利は15%だったが、物価上昇率は20%にもなっていたためだ。 1962年から1971年の平均物価上昇率は韓国12.4%、台湾2.9%、日本5.7%だった。 低い貯蓄率により、国内の資本動員が難しいため、外資の導入に死活をかけるしかなかった。 こうした状況で、韓日協定により入ってくる6億ドル(3億ドル無償、3億ドル借款)は喉から手が出るような金だった。

それで一部では当時の屈辱的な韓日協定はやむを得ない選択であるかのようにも言う。 しかし事実、朴正煕政権にとって、米国が要求した韓日関係改善は特に問題にならない事案だった。 その上、彼らは執権開始段階から日系資金をためらいなく使った。 当時、朴正煕政権は日本との国交樹立以前の1961〜1965年の間に6つの日本企業から6600万ドルを提供されたが、 これは後日、機密解除された米中央情報局の特別報告書でわかった。 これを見れば、1965年の韓日協定はすでに組まれていた脚本に終止符を打つことに過ぎなかった。 北朝鮮との体制競争だけが重要だった朴正煕政権にとって、他の政治的・外交的な事案は副次的だったのだ。 こうした日和見主義的で実利的な態度は、その後のベトナム参戦でも続くが、 当時の戦争特需で実際の収入は10億ドルにもなった。

結局「汚い金」と「血のついた金」が朴正煕経済神話の元手だったわけだ。 これに基づいて1962年〜1971年の間の経済成長率9.3%(世界平均5.3%)という高度成長を経験するようになる。 特に製造業の場合、年15〜20%成長した。 しかしこれは高い物価上昇率の中で、外資導入に頼る奇形的な高度成長だった。

1970年代の不安定な世界経済と重化学工業の再開

1970年代、世界経済は極度に不安定な状態に陥る。 1970年代初めに双子の赤字(財政赤字、貿易赤字)に陥った米国は、 輸入品に10%の付加価値税をかける措置を取ったが、 輸出全体の50%を米国に依存していた韓国は深刻な打撃を受けるほかはなかった。

一方、この頃米国は、ベトナム戦争の中でニクソンドクトリンを宣言するが、 これは米国が冷戦遂行の二本の軸であるヨーロッパと東アジアに対し、 もう以前のような積極的な役割を受け持つのは難しいということを意味した。 そして1971年、駐韓米軍1個師団を撤収した。 このような対外的な変化は朴正煕軍事政権に対し、自主国防のために軍需品を自主的に生産する必要を感じさせた。

この2種類の外部的な環境の変化と北朝鮮との体制競争は、朴正煕政権があれほど願っていた重工業育成の重要な背景になった。 そして1972年の3次経済開発5か年計画で、製鉄、石油化学、機械、造船が重点育成事業として提示される。

一方、こうした戦略的変化を裏付ける経済的な要因が存在していた。 当時、先進国は自分の専有物と思っていた重化学工業が次第に斜陽産業になり、 これを開発途上国に移転させることを望んだ。 特に人件費がかかる組み立て加工産業で目立った。 1970年の第2次日韓経済協力委員会の総会で、日本は老朽化した組み立て加工産業と鉄鋼産業を今後10年間で韓国に移転したいと提案する。 日本が部品を与え、韓国は組み立てる方式だ。 さらに日本は産業移転のために借款まで韓国に提供した。 それでその後、韓国の南東臨海工業地域と日本の西部工業地域が協力経済圏としてつながることになった。

朴正煕政権は、これにとても破格の支援を提供した。 とても低い利子、3年間の税金免除後に50%減免などだった。 このように、重化学工業中心の不均衡成長戦略は、 この部分に進出した財閥に深刻な資金配分の付和雷同現象を生んだ。 一種の賭けのような成長戦略だった。

1次オイルショックと中東特需

重化学工業推進は、おりしも発生した1973年10月の第1次オイルショックにより最初から難航していた。 しかし、こうした危機は予想できないところで天運にめぐりあい、解消される。 まさに中東特需だ。 当時、世界はオイルショックで経済危機を味わっていたが、むしろ中東の国家は莫大なオイルダラーで富が増えた。 そのため中東国家は大規模なインフラ事業を推進し、 韓国企業はととても低価格で入札して受注したのだ。 当時の輸出総額の40〜50%に達した。 韓国企業は中東特需により、数年間で400億ドルもの金を稼ぐことになる。 財閥は先を争って中東事業に進出し、こうして稼いだ金がまた重化学工業に投資され、 自動車産業、電子産業を起こすことになる。

しかし、こうした成果はとても低い入札価格による結果だ。 当時の韓国企業はヨーロッパをはじめとする他国の競争者よりも短い工事期間の中でも、 価格は半分で工事をした。 こうした韓国企業の破格的な契約条件を中東国家としては好むほかはなかった。 これは韓国企業が中東特需を一人占めする結果をもたらした。 こうした破格の条件は、低い人件費と高い労働強度が伴ったから可能だった。 したがって、中東特需で稼いだドルは、中東に派遣された労働者たちの血と汗で稼いだ金だといえる。

1970年代の不均衡経済成長がもたらした経済危機と貧富対立の爆発

1960年〜1970年代の高度成長は、朴正煕政権が取ってきた財閥中心の不均衡経済成長の結果だ。 外形的な指標で見れば、韓国は中進国の隊列に入る程の成果を上げた。 実際、1979年の1人当りGDPは1858ドルだったが、現在の価値に換算すれば6430ドル程度だ。 これは現在のロシア、中国よりは多少低く、南ア共和国、タイより高い水準だ。 現代建設は米国のフォーチュン誌が選定する世界100大企業の中に(78位)入るほどであった。

しかし、こうした経済成果の果実は財閥をはじめとする特定階層と特定業種に集中したことで社会的不満が高まった。 特に中東特需がもたらした不動産投機現象は途方もないものだったが、ソウルのアパート価格は毎年30%ずつ上昇した。 全国平均地価上昇率は1976年に26%、1977年に34%、1978年に49%で、その上、1978年、ソウルの地価は135.7%も上がった。 こうした不動産の暴騰は大きな物価上昇につながったが、 「国民所得1千ドル時代だ、中進国になったと喜ぶが、その代わりに5千ドルの物価環境で暮らしている」という愚痴が広く知られるほどであった。

こうした高い物価上昇の中で、社会的な貧富の対立はますます深刻になった。 当時、国策研究機関によれば全体平均所得の1/3以下の相対的貧困人口の割合は、 1970年の5%から1978年には14%と大きく増えた(東亜日報、1980.6.25.)。 1979年の平均賃金は11万4千ウォンだったが、最低生計費は15万3千ウォンに達した。

一方、朴正煕軍事政権が野心的に進めた重化学工業まで、 あちこちで重複投資と過剰投資の後遺症を味わうことになり、 そのため操業率は半分にも達しなかった。 しかも重化学工業は石油依存度が高く、1979年の第2次オイルショックに脆弱だった。 結局、危機を直感した朴正煕政権は、1979年4月に軽工業育成、内需増進、物価安定、投機抑制を含む4.17経済安定化措置を発表した。

しかし、こうした一足遅れた安定化措置は、すでに深刻な危機に陥っていた経済を戻すには力不足だった。 不均衡な成長、不平等の深化、高い物価上昇は、1970年代中後半を経て民生危機を伴う経済危機に広がる。 特に1977年に新設された付加価値税(訳注:消費税相当)の導入は、民心離反の決定打を提供した。 当時、最低生計費以下の所得の所得税免除対象者は、1976年には74.6%、1978年には76.7%もなっていたが、 こうした状況で政府は税収をあげるためにさまざまな消費税(間接税)(訳注:日本の物品税相当)を新設したのだ。 1977年の施行初年度は税率が13%だったが、6か月間で2415億ウォンを徴収した。 これは当時、税収全体の14.4%を占める規模であった。 当然、労働者庶民の苦痛は加重されるほかはなかった。

悪いことに、1979年に起きた第2次オイルショックは急激な物価上昇につながり、 深刻な民生危機が爆発した。 原油価格は1か月で二倍に上がり、重化学工業の稼動率は30%台に墜落した。 朴正煕政権は、これに対応するために石油価格の60%引上げを発表し、 買い占めを防ぐという名分で煉炭の価格も40%引上げた。 されにバス代と電気代もそれぞれ30%、35%引き上げられた。 こうした経済状況は、翌1980年、史上初のマイナス成長という結果をもたらした。

こうした背景の中で1979年「釜馬抗争」と呼ばれる騒動が起きた。 釜馬抗争のデモに参加した多くの人々は、都市の庶民や貧民だった。 当時の釜山市警の報告書を読むと、デモ群衆の面々はこのようだったという。 「夜になり、デモ隊は都市下層民が事実上主導するようになり、 彼らの職業はアカすり、食堂従業員、工場勤労者、靴磨き、接客業労働者、零細商人、無職者、半失業状態の自由労働者、高校生などだった。」

朴正煕経済神話の評価

もし私たちが1960年代末に暮らしていたとすれば、朴正煕は1950年代の絶対的貧困から民生問題を解決した人物として評価できるだろう。 あるいは私たちが1970年代末に暮らしていたとすれば、それを酷評するだろう。 前に指摘したように、朴正煕の無理な重化学工業の推進は、財閥中心の資源配分の歪曲と非効率を生み、 物価不安により民生苦を激化させた。 こうした経済を落ち着かせ、物価を安定させたのはその次の政権である全斗煥(チョン・ドゥファン)と盧泰愚(ノ・テウ)政権だ。 皮肉なことに朴正煕が強く推進した重化学工業の育成は、 1980年代の「3低景気」を迎えて結実を結ぶようになる。 一方、われわれは1997年の外国為替危機を体験し、朴正煕政権から降りてきた官治金融、政経癒着、財閥のタコ足式拡張の弊害について多くの指摘があった。 恐らく私たちが1990年代末に朴正煕経済神話を評価したとすれば、時代遅れの古い経済戦略として片付けるだろう。 外国為替危機以後、韓国社会に根をおろした新自由主義経済政策は、彼のこうした遺産の清算から始まった。

こうした朴正煕経済神話が新自由主義が急激に拡大した盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の中後半から急激に再生産されている。 当時、ハンナラ党の二人の大統領候補だった李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵(パク・クネ)は、 朴正煕後継者コスプレに没入し、 それ後、順番に大統領になった。 ちなみに実際、その二人の大統領はそれぞれ「ビジネスフレンドリー」と「規制緩和」に表象される熱烈な新自由主義者だ。

このように、今私たちが見ている朴正煕経済神話は、叙事だけが残っている神話だ。 神話は評価の対象にならない。 信頼の対象でしかない。 だから私たちがまた朴正煕経済神話について評価しようとすれば、 神話の後に隠されている歴史的事実と情勢の因果的関係をまず暴かなければならないだろう。 米国の東アジア安保戦略に従属した経済開発計画、産業化の元手を得るための日本と行った屈辱的な取り引き、 ベトナム戦争で得た血がついた金、日本を模倣して財閥に集中した不均衡成長戦略、 深刻な貧富格差と労働貧困層の厳しい人生、中東の砂漠での殺人的な徹夜労働でかき集めたオイルダラー、不動産不敗神話という慢性病が始まった時代、 このように朴正煕経済神話に隠された真実はあまりにも多い。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2016-06-11 01:27:23 / Last modified on 2016-06-11 01:27:24 Copyright: Default

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