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韓国:月の夜、キム・ジンスクの青春の話
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月の夜、キム・ジンスクの青春の話

「寒さや暑さより苦しいのは平常心を維持すること」

チョン・ヨンギル修習記者 2011.11.02 01:00

11月1日、キム・ジンスク指導委員が85号クレーンに上がって300日目の日だ。 この日、希望バス企画団が行った希望のラジオ〈月が光る晩に>にキム・ジン スク指導委員が招待された。番組を進めたパク・ソンミ監督とキム・ジンスク 指導委員の対話が午後10時20分から50分間続いた。

▲クレーン高空座り込み300日目[出処:メディア忠清資料写真]

キム・ジンスク指導委員はこれまで多くの言論とのインタビューで韓進重工業 整理解雇問題について話をしてきた。この日はキム・ジンスク指導委員はパク・ ソンミ監督と『青春』についての話をした。

キム・ジンスク指導委員は青春について「20代から30代までを青春というが、 私はそんな記憶がない。考えてみれば、青春という時間はたった一日でもなかっ た。誰かのように恋愛をしたこともなく、キャンパスで横になって、空を見つ めたこともなかったし。いつも労働をして、26からは奪われた労働のために戦っ て...」と述べた。

希望バスと共に韓進重工業整理解雇撤回の連帯勢力である『遊び人』について の話も交わした。キム・ジンスク指導委員は「私たちは、人々をつなぐように 運動をしてきたでしょう。悲壮に。その時の文化もそうだったでしょう。高空 座り込みもとても悲壮でしょう。遊び人がくる前にはとても悲壮でしたし。そ の間の特性と文化にとても大きく支配されていましたが、その時、遊び人等を 見て、強い衝撃」だったとし「ああいうふうに運動することもできるんだと感 じた」と話した。

彼は「遊び人たちは非正規職もいて、ほとんどが組織されていない人だ。これ まで民主労総が組織するためにあれほど頑張っていた人が、結局は遊び人たち だった」とし「民主労総に来ず、距離感をおいていた人々を、私たちに合わせ て行こうとした。近付いて理解する努力をしなかった」とクレーン座り込み後、 希望バスとツイッターを通じて会った人の話もした。

午後11時10分頃に対話が終わった。キム・ジンスク指導委員は電話の間笑いを 失わなかった。キム・ジンスク指導委員がクレーンに上がって301日目の明日も 午前6時から希望のラジオは続く。

以下は希望のラジオでパク・ソンミ監督とキム・ジンスク指導委員が交わした 話だ。

-これまでのインタビューで、韓進状況について十分話されたので、今日は月が光る夜の話をしましょう。月が出ていますか?

半月のような。望遠鏡で月を見ると実際に動くようです。何がぐずぐず動くよ うです。

-ツイッターでこんな文をよみました。『私がみた一番輝かしい青春は、50を越えたばかりの女性労働者だ』という文。誰なのか分かります。本当に青春とは、年を取っても、どんな環境にいても、精神が青春だと思います。キム指導委員を見てそう考えました。キム指導委員さんが一番光る青春ではないでしょうか。

普通、20代から30代までを青春といいますが、私にはそんな記憶がありません。 21歳の時に韓進重に入社して、鉄板が落ちて病院に入院し、手を挟んで入院し て、毎日残業して... その時は明けの明星を見て帰り、明けの明星を見て出勤 するのですから。ちょっと家が遠く、通勤バスで3時間かかった。その時には、 インスタントの安城湯麺を煮て食べていました。ボイラーは石油ボイラーで、 とても煙が出て長くかかり、お腹がとてもすいているので石油ボイラーが待て ません。登山の時に使うバーナーとコッヘルでラーメン2個食べて寝て。夜明け に5時15分の通勤バスに乗らなければいけないし。

そうして5年、韓進重に通って、26歳で労働組合代議員に立候補して、対共分室 に行って、出勤闘争して、留置場に行って、そんな20代を送り、30代で服役して 手配されて、というように過ごしました。振り返ると青春なんて時間はたった 一日もありませんでした。誰かのように恋愛をしたわけでもなく、キャンパスで 横になって、空を見つめたこともなく。毎日労働をして、26からは奪われた労働 のために戦って。

一度は大学街で大学生から質問を受けましたが、青春に戻ったら何をしたいか と聞かれました。その時、頭に来て私は絶対青春に戻らないと。私がなぜ20代 に戻るのかと。そう言ってから悪いなと思いました。彼らが話す青春、20代と 私が覚えている青春とはとても違うから。私には青春がちょっとつらいんです。 私が体験できなかった時期へのうらやましさ。また暮らしてみたいうらやまし さ。私は50〜60代の人とはじっくり話せることがありませんでした。若い友人 とは気安につきあいましたが。私がまだあまり成長してないみたいですね。

-それは事実上青春ではないかと思います。その当時、青春をまったく考えられず暮らしていたのすね。それとも何かのイメージでもあったのですか。

いや、うらやましいです。日曜に出勤すると、信号で止まる時があるでしょう。 こうして見ると同じ年頃の子供たちが赤い服を着て帽子かぶって、一緒に笑っ て通りで遊んでいるのが見えます。出勤の短い時間に私が頭をさっと回して。 私にはそんなことは一度もありませんでした。その時は、本当にむちゃくちゃ 残業しました。土曜にも働き日曜にも働き。そうして暮らしたので、工場が怖 かった。毎日働いて残業して。徹夜を4〜5回しなければならなかった。そうして 暮らしていたので、子供たちが遊んでいるのを見ると...

そんなことにとても敏感だったようです。そんなことはすぐあきらめなければ いけないのに。若かったのでしょう。あきらめられず、傷になりました。そん なことを考えてはいけないんです。時間がちょっとあまったり、残業がなかっ たり。この工場で残業をしない時や雨が降る時とか、感電事故も多くて滑り落 ちたりもしますから。雨がひどいと、溶接棒が溶けないので作業ができません。 それで退勤します。アブレ休み。アブレ休みと言うんです。そんな時間はむしろ 頑張れません。よく考えるようになって。あまった時間をそうにするようになって。

-働いていた時、同じ年頃の友人はいたんですか。

その時、私には個人的な友だちは一人もいませんでした。この工場に入ると、 みんな男だったし。男なので言葉も違い、関心も違う。笑って騒いで冗談を言っ たりもしますが。男たちは野球のことや、ほとんどは女の話なので。友人が全 くいませんでした。とにかく、孤独。孤独だと考えてはいけない。ここでもそ うです。みんなは何が大変なのか。寒いのが大変なのか、暑いのが大変なのか、 そんなことです。感情を管理する平常心を維持することが一番難しいんです。 一番難しい。その時もそうでした。一度何かを考え始めるとグラグラ沸く時ま で考えるようになったようです。

-感情を管理することはとても難しいですが、ツイッターを見てもキム指導委員さんが感情を管理する姿。若い人たちともツイッターでとても活発にうまく話すでしょう。実は私もそれで光る青春だと感じました。とにかくここでしばらく切って、音楽を聞いて、またゲストとの話を続けます。

復活の『雨が降って、あなたの話』でした。とても正直に愛していると言います。私は指導委員さんを見て、愛という単語をよく思い出しました。恋愛や、そういったことを別にして、本当に広い愛という感じがしました。実は気になっているのが、遊び人たちが初めて行った時、その後で、キム指導さんのツイッターの雰囲気がとても変わったという話がありました。

私たちは労働運動とか、そんなものとはなじまないと思っていました。労働運動をしている人はたくさん勉強しますが、何も知らない遊び人がキム指導委員さんに会いに行って。ある人がこんな表現を使いました。赤色労働運動をピンクに染めた。良く見る視線もあって、悪く見る視線もあるけれど。キム指導委員さんが良く見てくれたことがうれしかったです。不慣れな存在なのにどう受け入れられたのでしょうか。

あの時キム・ヨジンさんが書かれたコラムに、こんなものがありました。私は 人生を誤解していました。私は遊び人だった。とても共感しました。楽しくな りました。とても楽しくなった。その時の運動はとても違いました。それにつ いてツイッターでの議論が熱く。前は私たちが人を結ぶように運動をしてきた でしょう。悲壮に。その時、文化もそうでした。高空座り込みもとても悲壮で した。遊び人がくる前はとても悲壮だったし。その間の特性と文化にとても大 きく支配されていたのですが、その時、遊び人たちを見て、強い衝撃でした。

これまで私は30年近く労働運動をして見てきた人々と違う種類の人を見たので すが、とても気楽に笑っていて。運動はすさまじく、悲壮でした。そんな現実、 それしか方法がなかったのですが。これらが関係をずっと可能にするのではな いかと思って。その信頼は今でも変わりません。遊び人でなければ、まだ私は 悲壮だったでしょう。それが転換になりました。別の角度から臨むようになっ たようです。私もこれまでみんなを硬直した視線で見ることがありました。私 はこれまで見てきた人しか見なかった。民主労総で働き、人々が変わったり。 労組を作って、新しい人がきても、新しい人ではなく、それまでいた人を埋め る過程でした。

遊び人たちを見て、あんなふうに運動することもできるんだと感じました。 ツイッターで見ました。弘大闘争をとても熱心に見ていました。私もツイッター に書きましたが、遊び人たちも多様ですね。非正規職もいて、ほとんどが組織 されていない。これまで民主労総が組織しようとしていた人たちは、結局は遊 び人たちだった。民主労総に来ず、距離感をおいていた人々を。私たちに合わ せて行こうとしても、彼らに近付いて理解する努力はしませんでした。近付い て、彼らの言葉で話し、それがとてもうれしかった。溌刺として軽快になる感 じが良かったんです。

-私たちもそうなるかも知れなかったのに、キム指導委員も遊び人ですか

私もそのようです。それが楽で。私も今では悲壮なことは嫌いです。

-実はジレンマがあったといえそうです。私や他の人もいましたが、別の見方をすれば資本の恩恵をよく享受して暮らす人でした。労働をよく知らなかった。アイデンティティは労働者ではない人。ところがキム指導委員が好きで友人になったようです。こうしたジレンマを持っていると思ったことはありませんか。

私にとって遊び人たちがとても珍しかったのは、いつも私ならツイッターでの 対話を、みんな何をつまらないこと言ってるんだと聞きもしなかったでしょう に。彼らの間での対話を聞くようになった。彼らはどんなことを考えているの か。ここでは考える時間が多いから聞くようになります。

特に、深夜の対話を見て、ただのおしゃべりではないんだ。洞察するようになっ た。驚いたのが江汀に何かあるから江汀に行き、明洞マリに何かが起きれば駆 けつけて。ほとんどの遊び人たちが日常で連帯しながら暮らしているのです。 私が30年近く労働運動をしてきましたが、実はそんなふうに暮らしていません でした。初めはそうでしたが、闘争があれば追いかけて行って、と暮らしてい た。心から沸きあがる、そんなことができなかったようです。義務感でしてい るのです。基本的な性格、人間への畏敬心、そんな状況への疑問。 小さなこ とも細かく見る、人間に対する礼儀がある人たちと。

ツイッターでのおしゃべりだけを見れば、礼儀知らずの連中だと思うでしょう。 ツイッターでひとりひとりの特性を把握するようになって。遊び人のようにし ながらも考えが深いな、ただ言っているのではなく、心の中で何度も考えたい つもの哲学を表わしているようでしった。私も遊び人等を見て。人間に対する 考えが深くなって。前にも人間関係は多かったのですが。ほとんどみな義務感 でした。実際、悩んだ時、打ち明ける人がいなくて。自分の中で解決していた。

-とても多くの道が開かれたようですね。

そうです。私には高空籠城をして、300日クレーンにいて90%以上の人に言った 言葉が、申し訳ありません、すみません、ありがとうございます。3点セットだっ たようです。それほどではありませんでした。すさまじさ、そんなことだけで はありませんでした。内面の目ができた、私自身を見るようになって、人に対 して深く見て。もし高空籠城していなかったら一生、慶尚道の人だったでしょ う。私には高空籠城が意味深い時間なんです。単にすみません、申し訳ありま せん、そうでもないようです。

-キム指導委員にフォローを返すには考えがあって、哲学があって、そうくらさなければいけないんですね。夜が深く、月もなくなるけれど。次の番組は月もない夜なんです。それで今、音楽を聞きながら、どこでもまた聞けないお話を聞きました。別の見方をすれば300日だから、こうした場を作ることになりました。キム指導委員さんと虚心坦懐な話を交わせて、本当にうれしいです。月が出れば月と話をしながらおやすみください。すぐまた影島に伺います。

待っていなくても来ると思ってますから。

-キム・ジンスク指導委員との対話楽しかったです。ありがとうございます。

ありがとうございます。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-11-03 03:14:29 / Last modified on 2011-11-03 04:53:32 Copyright: Default

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