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韓国:[ルポ]サムスン解雇労働者の20余年の復職闘争の話
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命をかけた最後の闘争、恐ろしいものはありません

[ルポ]サムスン解雇労働者キム・ヨンヒ、イ・ジェヨン氏の20余年の復職闘争の話

ヨンジョン(ルポ作家) 2020.01.08 11:06

昨年6月10日、サムスン本館に近い江南駅交差点の鉄塔に人が上がった。 サムスンで働いていて解雇され、24年間の復職闘争をしてきたキム・ヨンヒ氏だった。 定年まで1か月残し、彼は0.5坪程度、高さ20mのCCTV鉄塔で高空籠城を始めた。 彼はサムスンで労働組合を作って解雇された労働者の復職と、 サムスンの謝罪、解雇期間賃金支払いを要求している。 12月26日、高空籠城200日を前に多くの労働・社会団体と市民が サムスン側に問題解決を要求したが、 サムスンは無返答だった。 サムスン解雇労働者キム・ヨンヒ、イ・ジェヨン氏がサムスンで働いて労働組合を作ろうと思った理由と、 解雇の過程、高空籠城を選んだ理由と期待を読者と分けあおう。 〈筆者注〉

解決しなければ生きて降りないといいました

「サムスンは労働組合を認めて解雇者復職を履行しろ」

「犯罪者李在鎔を拘束しろ」

12月11日の夜、江南駅交差点。 CCTV鉄塔の上で赤いチョッキを着た人がスピーカーを持ってシュプレヒコールをあげる。 24年前にサムスンを解雇されたキム・ヨンヒ氏だ。 この日はキム・ヨンヒ氏がサムスンに復職と謝罪を要求し、 高空籠城を始めてから185日目の日だ。 ハンスト8日目に高空籠城を始めたキム・ヨンヒ氏は、 55日間の高空ハンストもした。

[出処:キム・ハンジュ記者]

2日間、危機警報まで出ていた微小粒子状物質が晴れると、また寒さが始まる。 ヨンヒ氏は鉄塔の上で微小粒子状物質と自動車の排気ガス、 そして寒さに耐えて一日一日を送っている。 暫くすると文化祭が始まり、鉄塔の上で小さな灯りが冷たい風に揺れる。

「1坪もない空間で身をすくめて過ごすようになって185日ぐらいになると、 本来動くはずの関節が動きません。 寒くなるほどその程度がもっと深刻になるかもしれません。 寒くなれば心配なものの一つが心血管系疾患で、 特に今、一人で上にいる状況では、 心血管系疾患の応急状況になるととても恐ろしい。 一人でいて、何か起きないか下で心配しています。」

文化祭に参加した人道主義実践医師協議会所属のキム・ドヨン氏は、 少し下に立っていてもこれほど寒いのに、 キム・ヨンヒ氏は長い時間、上で一人でどうして頑張っているのかわからないといった。 だがまさにキム・ドヨン氏は、キム・ヨンヒ氏の診療ができない。 キム・ヨンヒ氏が診療を拒否しているためだ。

194日目になる12月20日、キム・ヨンヒ氏と電話インタビューをした。 キム・ヨンヒ氏が 「苦労なんてありますか。 安心して座り込みできることに感謝するだけです」という言葉で話を始める。 本来「アナウンサー声」だったが、 微小粒子状物質の中で1日3回、5時間の宣伝戦をしたため喉がかれたと笑ったりもする。

「ずいぶん太って、ハンスト前の体重に戻りました。 血の循環が悪いほかには健康上の特異事項はありません。」

夏のハンスト中に表れた一時的に前が見えなくなる症状が出たが、 最近はかなり良くなったといった。 ときどき右肩がマヒしたりするが、 夏に較べれば右半身のマヒもかなり好転したという。

ヨンヒ氏の背は1m80cmだ。 しかし鉄塔の直径は1m20cmしかなく、寝る時はからだを曲げたり脚を鉄塔にかけなければならない。 時々脚の運動をするというが、容易ではなさそうだ。 食事は昼と晩の二食が上がってくるが、昼を少し食べて晩は残し、翌朝に食べる。 動きが制限されているので消化も悪く、好みもないといった。 宣伝戦の時間の他に、昼の時間には本を読み、夜はラジオを聞く。 携帯電話はヨンヒ氏を世の中と繋ぐ唯一の道具だ。 ヨンヒ氏は健康上の特異事項がないというが、 筆者には全てが特異事項と感じられた。 痛みや不便を感じられないほど健康が良くないのではないかという気がした。 診療を拒否している理由を尋ねた。

「上がる時、この問題が解決しなければ生きて降りて行かないといいました。 まだ解決していませんが、医師の所見で 『もう鉄塔での座り込みが無理だ。 すぐに治療を受けなければならないから降りてきなさい』と言うかもしれません。 死ぬとしても知らずに死ぬほうがましでしょう。 降りて行けば健康に生きて死ななければいけませんが、 家族を苦労させるかと心配になることはあります。」

寒さにどう耐えているのか尋ねるのと、 冬にサムスンの李健煕(イ・ゴニ)会長、 李在鎔(イ・ジェヨン)副会長家の前など、 もっと寒いところでも寝袋一つで1か月座り込みもしたとし、 それに較べればここはホテルだという。

「方法はありますか? 寒さも暑さも楽しめ。 心配ありません。」

指が切断されたのに病院に行くなというサムスン

ヨンヒ氏がサムスンに入社したのは25歳になる1985年だ。 飛行機のエンジンと時計精密事業をしていた昌原サムスン航空に入社し、 ヨンヒ氏の父親は『サムスンに入った』と町内で大騒ぎをした。 ヨンヒ氏は時計事業部で品質管理業務をした。 入社した時だけでも、平凡な職場生活を期待していたヨンヒ氏は、 自分が労働組合を設立して解雇され、 60歳まで闘争をするとは夢にも考えることができなかった。

「サムスンで働いてみると、外で見るのとはとても違いました。 たくさんお金をくれるのは、タダではありません。 それなりの理由があるのです。 現場ではトイレに行くのも班長の許しを受けて行かなければなりませんでした。 頭髪摘発までして、雰囲気は軍事文化です。 工場長が夜にも寄宿舎を監視しました。 夜間に警備が疲れて少し寝たというのでクビにします。 職場予備軍編成カードを作成しなかったといって、 部長が私に『この野郎』と悪口を言ったりもしました。」

人事課などではヨンヒ氏が全羅道出身だという理由で監視して困らせた。 そんなある日、ヨンヒ氏が朝早く出勤をした日だった。

[出処:キム・ハンジュ記者]

「課長の席に電話がきたので受けました。 『サムスン時計生産1課か?』と泣く声で尋ねます。 『夫の指が切断されたのに、なぜ家に放置しているのか? いつ治療を受けさせるのか?』 夜間に指が切断されたのに、会社の安全担当が病院に行かずに家にいろといったそうです。 タオルで押さえていても血がどくどく出るといいます。」

とても驚いたヨンヒ氏は、すぐ自分の車でその労働者を労災病院に連れていった。 医師は昨日怪我をしたのに、なぜ今になって来たのかと言った。 その時、病院で聞いた労災にあった労働者の苦痛の絶叫が今も生々しい。

「会社に行くと非常事態になりました。 私はよくやったという言葉を聞くと思っていたのに... 人事課から出ました。 安全担当は別にあるのに、なぜお前が病院に連れていったのかと言います。 無災害が破られたじゃないかと。 同じ人なのに、どうしてそんなことができるのか...」

サムスンの実体を知って、最初は地獄のようなここから抜け出そうとした。 その計画が失敗し、死のうと思う程絶望もした。 どん底を打った絶望は、ヨンヒ氏の考えを変える契機になった。

「この時から間誤ったサムスン文化を変えなければならないと考えました。 私は死んで、生き返った命なんです。 神様が私に役割を与えるために生かしてくれたんだ...」

1990年にヨンヒ氏は労使協議会委員とサムスングループ慶南地域労組設立準備委員長になり、 労働組合の設立準備を始めた。 そしてサムスンの執拗な懐柔と監視、テロも始まった。

「サムスン時計では、光州に代理店を作ってやる、 家を買ってやると言って懐柔しました。 それでもまるめ込めないので、明け方の4時に道路で5人に角材で頭を打たれました。 どれくらい傷つけたのか骨を吹き飛ばす痛みでした。」

サムスン時計はヨンヒ氏を15日間拉致し、労組設立を放棄しろと脅迫し、 家族にまで懐柔と脅迫をした。 その過程でキム・ヨンヒ氏の父親は遺言状を残して行方不明になり、 妻はサムスンの指図を受けたと疑われる警官から苦しめられた。 サムスンがヨンヒ氏の家族に加えた苦痛は20年過ぎても胸に大きな傷として残っている。

キム・ヨンヒ氏が労組設立活動を続けるので、 サムスンは1991年に性暴力事件を捏造し、懲戒解雇した。 1993年に進められた解雇無効確認訴訟控訴審裁判は当時、 文在寅(ムン・ジェイン)弁護士(現大統領)が性暴力の事実がないという公文書を裁判所に提出せず、敗訴する。 1994年、解雇無効確認訴訟の大法院宣告を前にして、 サムスン側は上告取下書作成を条件としてキム・ヨンヒ氏と系列会社に1年勤務した後、 元職に復帰させると合意をする。 そしてヨンヒ氏をサムスン建設(サムスン物産建設支部ロシア・スモレンスキ支部)に発令した。 だが、サムスンは引続きキム・ヨンヒ氏に労組放棄を強要し、 暴力と復職合意書恐喝、スパイの汚名をかぶせて告発するなど、 あらゆる方法で困らせた。

ヨンヒ氏は1995年にハンストなどの闘争でやっと韓国に帰国したが、 サムスンの使用者側は約束した元職復帰を履行しなかった。 キム・ヨンヒ氏は解雇通知書もなく解雇されたと話す。 その後、ヨンヒ氏はサムスン本館前でハンストなどの復職闘争をして二度拘束された。 そして定年を一か月残した去る6月10日に高空籠城を始めた。 ヨンヒ氏は死を覚悟した最後の戦いとして選択した高空籠城なので、 恐ろしいことは何もないと言う。

サムスンは労働組合なしでは労働者が生きられない

「下で見ている気持ちはとても苦しい。 人の命を担保にこんなに長い間闘争しているのに、 サムスンでは変わった反応がないということが... キム・ヨンヒ同志はサムスンの本当の謝罪と名誉復職がなければ、 死んで降りられないという決心をしています。」

鉄塔の下で半年の間、キム・ヨンヒ氏の高空籠城を支援して、 サムスン本館前でテント座り込みをしているイ・ジェヨン氏は、 寒くなってとても心配になるといった。 イ・ジェヨン氏もキム・ヨンヒ氏と同じように、 サムスンで労働組合設立を試みて解雇された。

「復職して一日でも作業服を着ることが私の目標でしたが、 それがどんどん薄まっています。」

あいにくサムスン副会長の李在鎔(イ・ジェヨン)氏と名前が同じ 解雇労働者のイ・ジェヨン氏は、 22年間サムスン復職闘争を続けている。

「サムスンで働いていない人たちが考えれば、 サムスンは月給もよく、勤務条件も良いと思うでしょうが、 実はそうではありません。」

1986年に発電所に入る発電用ボイラーを生産するサムスン重工業昌原第1工場に入社したジェヨン氏の経験も、ヨンヒ氏と違わなかった。 働いて人が死んでも無災害達成のために隠蔽し、 非人間的な職務職能給制を導入して労働者たちの間で競争をあおり、 殺人的な労働強度を維持するのがサムスンの実体であった。

「私は労働組合がぜひ必要だと考えました。 ここは労働組合がなければ労働者が生きられないところです。 その必要性を感じて周辺の人々と労働組合を共に作ろうと言い続けて解雇されました。」

1992年、イ・ジェヨン氏は会社の労働者協議会に立候補して委員長に当選した。 当時、労働者直接選挙制で行われた選挙で、 労働者協議会を労組に転換するという一つの公約を掲げて立候補したジェヨン氏は、 相当多くの票を集めて当選した。

「人々が驚きました。 サムスンにこれほど労組を渇望する人が多いんだな。」

智異山渓谷に行ってきたからスパイ、対共分室に11回連れて行かれる

その後、サムスンはジェヨン氏が労働組合設立を放棄させるために、 執拗な懐柔と脅迫、テロをした。 ジェヨン氏はサムスンが労働組合設立を防ぐために使う3段階の戦略があると言う。 最初は面談をして 『良い部署に送る。特典を与える。海外に発令する。いくらお金をやる』と懐柔するのだ。

「10億やるから会社を辞めて出て行けと懐柔しました。 現金で5億を払って家族がみんなベトナムで暮らせるようにしてやるとも言いましたし。」

次は拉致、監禁、テロ戦略だ。 拉致をして閉じ込めて 「労組放棄覚書を書けば出してやる。 書かなければ解雇をする」と脅迫をしたりテロをするのだ。 ジェヨン氏も自分の車の中で、ガラス窓を割って入ってきた角材で殴られ 重傷を負うテロにあった。 ジェヨン氏はサムスンが自分を殺そうとしたが、運良く生き残ったという。

「馬山地域にビリヤード場が一つあったのですが、 そのビリヤード場の壁に当時、金正日誕生日祝いのプラカードがかかっていたのです。 それが智異山側で製作されたという話があったのですが、 サムスンが労働者を弾圧するためにわざとかけたのでしょう。」

ジェヨン氏は、知人がいる智異山渓谷に行ってきたという理由で、 そのプラカードを製作したスパイ容疑を受けて対共分室に11回連れて行かれた。 状況版で頭を殴られ、電気拷問の威嚇も受けた。 懐柔と脅迫は、家族にも行われた。

「娘が小学校4年の時、突然学校に行きたがらないのです。 どうしたかというと、学校に行けば子供たちが君たちのお父さんアカだとみんながからかうと言うのです。 その時、私が今何をしているのだろうと、しばらく考えたりもしました。 子供たちが傷つくから。 そんな部分のために、労組と復職の闘争を放棄する人は本当に多いです。」

そうかと思えば、サムスンは何年もジェヨン氏に仕事を与えない方法で困らせることもした。 課長の机のそばに机一つを置いてただ座っていろと言い、 清掃労働者1人を管理しろとも言った。

「とても多すぎる業務も苦痛だが、何もさせず、 一日中いるのも時間がとても長くてその苦痛は激しいです。」

どこの誰も解雇無効訴訟で勝つことができません

それでも労働組合設立を放棄しないので、 サムスンは最後の3段階戦略を実施した。 それは解雇であった。

「サムスンは法務チームがとてもしっかり組まれています。 解雇以後に法務チームですべて処理するので、 誰も解雇無効訴訟では勝てません。 ひとり解雇させるために、1年前から準備をして、 一挙手一投足をすべて監視して、 少しでも逸脱していればみんな記録をして解雇の準備をします。」

[出処:キム・ハンジュ記者]

サムスンは性暴力事件を捏造してジェヨン氏を解雇しようとしたが、 サムスンが懐柔しようとした女性労働者がこれを拒否したため失敗した。 するとサムスンは突然、ジェヨン氏を水原に発令した。

「私は家庭もここにあって、その時は認知症で長く苦労している母の世話をしている状態でした。 私が発令地に行けないという事由を出しましたが、 発令の日から15日間無断欠勤処理をしました。 そしてちょうど15日目の日に懲戒委員会に回付しました。 その日の午後に解雇状を受け取りました。」

ジェヨン氏は受領しなかったが、 サムスンが供託かけておいたジェヨン氏の退職金は15日の無断欠勤解雇で 半分だけが支払われていた。

労組設立申告書を持って行けば3時間前に入ってきたと

そのように労組設立のために我慢して耐えたが、 イ・ジェヨン氏も、キム・ヨンヒ氏も、 ついにサムスンで労働組合旗を掲げることができなかった。

「サムスン重工巨済造船とサムスン重工業第1工場第2工場の労組設立申告書を集めて道庁に申告しに行くと、 すでに設立申告されていたのです。 3時間前に入ってきた、昨日入ってきたといいます。 これはおかしいじゃありませんか。 すでに道庁にあらかじめ幽霊労組組合員リストと書類を準備しておいて、 私たちが来た瞬間に印鑑を押して見せるのです。」 (イ・ジェヨン)

複数労組が認められなかった1社1労組の時の事だった。 労働組合を作ることができずに解雇されたため、 組織的な連帯闘争支援をきちんと受けられず、 さらに孤独で苦しかった20余年間の闘争だった。

ジェヨン氏は2013年に民主化運動名誉回復補償審議委員会で 民主化運動関連者として認められた。 該当委員会では、サムスン重工業に元職復職を勧告したが、 サムスン重工業は経営難を理由にまだ復職履行をしていない。 やはり今年定年になるジェヨン氏は、今年解決しなくても、 サムスンから謝罪を受けて名誉復職のために闘争を続けると言う。

「後悔はしません。 解決するまで降りて行きません。 私が死ねばそれはサムスンの他殺です。 私たちの要求条件を貫徹させて降りて行き、 サムスンが無労組経営を廃棄して、憲法でも保障された労働組合を自由にできる雰囲気が サムソン系列社に根をおろし、労働者たちが自分の権利を得るための役に立ちたいです。 サムスン7つの系列会社の労働組合組織率は1%にもなりません。 サムスンの犯罪は社会的費用です。 市民もサムスンの犯罪を新しく受け入れて、 サムスンの見張り役になって、 間誤った部分に声を上げてほしい。 李在鎔副会長の国政壟断破棄差戻し審理が進められていますが、 サムスンは解雇労働者と被害者問題をまず解決してから裁判に臨むべきです。」 (キム・ヨンヒ)

「『タマゴで岩を砕く』という言葉をたくさん聞きました。 それだけサムスンと戦うのは大変だということでしょう。 それでも誰も対応しなければ、サムスンがこうした悪いことを続けさせるだけです。 それでも今まで諦めずに粘って、 サムスンの蛮行を一定程度知らせる効果があったと思います。 初めはサムスンでまさか、そうまでするかと言っていた人々も、 私たちが根拠資料も出してマスコミでも伝えられると、 今では『ああ、本当なんだな。 サムスンが悪い』と考えるようになりました。 サムスンの前で座り込みするチームは7〜8チーム程度です。 みんなサムスンで被害を受けた人々です。 その上、ガン患者の人たちもきて戦っています。 サムスンはこうしたことを先に解決して善処するべきなのに、 それどころか、どうすれば抜け出せるかとしか考えません。 サムスンが変わるまで、私ができる限り戦います。 キム・ヨンヒ同志に言いたいことは... 連帯する人々が心配する気持ちを考えて、 自分のからだをもっと考える余裕を持ってほしいです。 サムスンが悪くて起きた事件が一日もはやくみんな解決し、 サムスンのおかげで苦しむ人たちが家に帰れればいい。 私もみんな解決すれば、田舎に行って農作業しながら、ちょっと休みたい。」 (イ・ジェヨン)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-01-18 05:38:48 / Last modified on 2020-01-18 05:38:50 Copyright: Default

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