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韓国:旭硝子解雇1000日、解雇労働者日本本社遠征闘争記
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旭硝子解雇1000日、解雇労働者日本本社遠征闘争記

解雇労働者ナム・ギウン、旭硝子本社を訪れ「解雇撤回」を叫ぶ
日本旭硝子の企業労組は無視したが、暖かい手を差し出した日本の市民

パク・チュンヨプ 2018-03-16 19:42 |最終アップデート2018-03-16 19:42

[編集者 注]旭硝子の集団解雇、1000日が近付いてきます。 旭硝子の解雇労働者たちは去る2月21日から3月9日まで、 日本の東京、大阪にある旭硝子の工場を訪問し、 解雇事態解決を要求する日本遠征闘争を終えました。 ニュースミンは3月6日と7日、旭硝子解雇労働者の闘争日程に同行しました。 今回紹介する記事「旭硝子解雇千日、解雇労働者日本本社遠征闘争記」は解雇労働者ナム・ギウン氏と日本遠征闘争の話です。 これから旭硝子解雇労働者の闘争を応援する日本市民にインタビューした記事、 旭硝子グループの歴史を扱った記事が連載されます。

角ばった瓦屋根の家が線路の周辺にぱらぱらと建っている。 電車の車窓の外にはエキゾチックな風景が繰り広げられる。 土饅頭一つなく、墓碑だけがぎっしりと並ぶ共同墓地もときおり通りかかった。 いつしか3年目の解雇労働者になった亀尾旭硝子のナム・ギウン(34)氏は 去る2月21日、生まれて初めて異国の土を踏んだ。 風景を観ていたが、キウン氏頭の中は複雑だった。 大邱地方検察庁が旭硝子の不当労働行為・不法派遣を不起訴にしたため、復職闘争の道は遠くなった。 いまやキウン氏は日本旭硝子の本社を訪問し、小さな道しるべ一つでも建てなければならなかった。

日本遠征闘争14日目の3月6日、キウン氏の心は相変らず複雑だった。 2月23日、東京千代田区の旭硝子本社に一回、 兵庫県尼崎市の旭硝子事業所に一回、 愛知県の工場にも一回訪問したが、 旭硝子本社の関係者は何の意味ある言葉も言わなかった。

労組でも会いたかったが、各工場にある旭硝子の企業労組に会うことはできなかった。 日本労働組合総評議会(総評)が崩れ、日本の労組はほとんどが労使協力主義指向になったと聞いたが、残念な気持ちはどうしようもない。

▲3月9日に旭硝子千葉工場労働組合事務室を訪れたナム・ギウン氏

事前に連絡したが、扉は閉まっていた。 タバコに手が伸びた。 喫煙が比較的自由だった点ことだけは良かった。 キウン氏は、共に遠征闘争をしたソン・ドンジュ(34)、 チャン・ミョンジュ(37)氏と、いつもタバコを吸った。 この日は朝から東京の東側、千葉県に行く支度をした。

一言も交わせなかった旭硝子労組の代わりに同じ業界の日本板硝子共闘労組を通じ、 ガラス製造業界の情報を調べてみることにした。 キウン氏はタバコを吸いながら、コンビニで買った日本版バッカス「リポビタン」を一本手に取った。 千葉県に向かう電車、イヤホンをしたキウン氏は考えに浸った。

「私はなぜ運勢にもない日本に来て、金属労組チョッキを着て歩き回っているのだろうか。」

小さい時からナム・ギウン氏は、望まない流れ者の生活をした。 建設労働者のお父さんは出勤地が一定ではなく、繊維工場で働くお母さんはキウン氏の世話をする時間がなかった。 おばあさんの家、叔母さんの家、またお父さんの宿舎を転々とした。 顔色をうかがわなければならず、「我が家」はしばしば変わった。 半地下の月貰部屋だという点はいつも同じだった。

キウン氏が初めて落ち着いたところは工場だった。 小さい時にお母さんは判事になることを望んだが、キウン氏は工場労働者になった。 繊維工場に出て行くためきちんと世話をすることができなかったお母さんは、キウン氏を塾にやった。 キウン氏は勉強に興味がなかった。 その代わりに小さい時から時々アルバイトをした。 新聞配達、風呂屋の清掃など、手当り次第だった。 居酒屋のウェイターとして働いているとき、一緒に遊んでいる判事、検事とならず者を見た。 判事はつまらないと考えた。

24歳、キウン氏が初めて入った工場は、LG冷蔵庫の下請企業だった。 厳しい職場だったが、不安定なのはどこも同じだった。 工場で会った先輩は、みんな判で押したように疲れた顔だった。 出勤する時も、食事をする時も、退勤する時も、同じ表情だった。

時々、違う表情になることもあった。 工場で「クビ切りだ」という噂が飛ぶ時だった。 年上の先輩には家族がいた。 キウン氏は面倒を見る家族はなかったが、クビになるというのは漠然とした恐れを感じた。 工場に通うにつれて、キウン氏の顔も彼らと似ていった。

2008年、工場の事情が難しくなって廃業した。 慶南道の昌原で非正規職雇用を転々として、2011年4月に亀尾工業団地のLGディスプレーの下請企業に入った。 仕事は違ったが、身分は同じだった。 自分の身分を体に刻むこと、キウン氏が下請企業を点々としながら学んだことだった。 クビになる瞬間もほとんどそっくりであった。 工場では年上のおばさんから始まり、短期アルバイト、移住労働者の順で姿が消えていった。 蝿の命だ。 クビになる先輩を見ながら考えた。 「ああ...これが人生なのか」

▲旭硝子の工場入口に労組が掲げた横断幕

職が変わるたびに確信が強まった。 家族を心配して小さな声もあげられない先輩を見て、最初から妻子を持つ意欲はわかなかった。 ある日、インターネットで勤労基準法ということを知った。 週40時間労働を守らなければならないという。 言われれば一日14時間も働いたキウン氏には遠い国の話に聞こえた。 それよりも、不意に飛び込む蝿叩きを避けることが重要だった。

そのうちに旭硝子下請企業のGTSに入社した。 しばらく働いて労働組合と出会い、それで解雇され、工場に戻るためにアスファルトの地面に座って戦うことになるとは、その時には想像もしなかった。

キウン氏の一行は千葉駅でおりた。 日本の鉄道労組の一つである国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉労組)の人が来ていた。 動労千葉労組は総評の時に最も強力だった労組が鉄道民営化の過程で労使協力主義を選択した時に分かれた労働組合だ(訳注:実際には三里塚闘争の時に分離したといわれている)。 動労千葉労組の助けがなければ、そもそも日本遠征闘争をすることはできなかった。 闘争日程の間、彼らの誠実な態度を見るたびに、キウン氏は単に同じ労働者だというだけの理由で受ける支援に胸が一杯になった。 短い挨拶を交わして、キウン氏は彼らの案内で日本板硝子工場へと向かった。

東京の東南側、北太平洋を防ぐ防波堤のように広がる千葉県は工場密集地域で、 海岸線に沿って果てしなく工場と高圧送電塔が立ち並んでいる。 工場の間から、ときおりパチンコも見える。 日本板硝子の正門に到着して見て回った工場は見覚えがあった。 7世代パネルを作るライン、高く聳え立つ三本の煙突。 パネルを作る工場を見て、キウン氏はしばらく回想にひたった。

日本板硝子共闘労組との面談で印象深かったのは、 正規職中心の労働組合なのに非正規職も加入できるという点だった。 日本板硝子労組執行委員長のシカマキ氏は拳を握って応援を送った。

▲日本板硝子共闘労組と旭硝子解雇労働者たち。一番右側がシカマキ氏。

「日本の労組運動そのものが低迷している状態ではあります。 日本旭硝子労組のように、会社と闘うこともできません。 私たちの会社でも、多数労組は闘争しません。 韓国で起きた旭硝子非正規職労働者解雇問題はよく聞いて知っています。 企業と政府に責任があります。 われわれは連帯します。 できることをします。 がんばれ!」

日本板硝子共闘労組から力を得たが、キウン氏一行はしばらくしてまた眉をひそめなければならなかった。 千葉県にある旭硝子工場でまた門前払いにあった。 旭硝子解雇問題を話しても、微笑を浮かべた管理者らは韓国旭硝子は他の法人という話(言葉)だけ繰り返した。

▲藍色の上着を着た旭硝子総務部の関係者と彼らに解雇事態解決を要求する旭硝子解雇者らと動労千葉労組関係者

あらかじめ旭硝子労組に協力要請も送ったが、事務室の扉は堅く閉じられていた。 日本板硝子共闘労組は非正規職の解雇に反対して闘争もしたというが、「労働者は一つ」という言葉が空しかった。 製造業の工場への労働者派遣を法が認める日本で、旭硝子工場の非正規職はどんな状況にあるのか。

キウン氏は非正規職下請労働者として、くやしさをよく知っている。 非正規職が労組を作ればどれだけ圧力がかかるのかも、身を持って体験した。 3交代で働きながら、塩酸のような危険物質を扱い、夜勤に休日労働、20分の食事時間、ミスでもすれば赤いチョッキを着せるようなことも行われる。

元請の旭硝子の管理者の態度をふりかえる。 製造業で不法派遣を分けるため、業者間請負契約を結んだ。 請負契約を結べば、ある業者が別の業者の業務に介入することはできない。

キウン氏は入社した時、下請企業の社長が元請の許諾を得るのを見た。 作業をしていて緊急な電話を受けた時、元請管理者が悪口を言い、 ローラについた異物を拭き取る洗浄作業をする時も、元請の管理者が指示をした。 作業スケジュールも同じで、パネルに気泡が入っていないか、不良品はないのかまで、 元請管理者の細かい指示を受けた。 下請の管理者には何の権限もなかった。

不満が溜まっていったとき、キウン氏はチャ・ホノ(47)氏と会った。 同僚の紹介で食事をする席だった。 ホノ氏はキウン氏に労組への加入を薦めた。 賃金が上がり、おびえなくてもよくなって、有給も表情をうかがわずに使えるといった。 突然の解雇も不安がらずによくなるといった。

すぐに合流することはできなかった。 解雇が一番恐ろしかった。 悩みを繰り返した。 他の組合員の先輩も見えた。 疲れた姿も発見した。 仕事がとてもつらかった。 今より悪いことはなさそうだった。 少しでも良くなるのではないだろうかと思う、そんな小さな希望が芽生えた。

▲日本、千葉県の旭硝子工場

労組活動を始めると、工場はとんでもなく大きな変化があった。 突然、元請の管理者が業務指示をしなくなった。 つまらないことで小言をいわれることもなくなった。 突然、作業服を変えてやるといった。 材質が悪く暑い作業服を着ていたが、五種類の生地の中から選べといった。 賃金が上がるといううわさも流れた。

本当か? 工場生活で初めて少し変わりそうだという気持ちを感じた。 自信が沸いてきた。 何の闘争だったのか、組合員たちが工場で「闘争」と叫ぶ姿も見た。 キウン氏の胸の中でも何かが飛び出してきた。 初めて工場の中で一回、叫んでみた。 これが労働組合なのか。 ぼんやりと思い出すその小さな希望が、今ではもっと鮮明になったと考えた。

解雇者になった今、2015年5月29日に労組を設立した翌月、旭硝子が下請企業との請負契約を解約する時までの一か月間の記憶は苦くも甘かった。 7月1日から工場に出勤ができなかった。 同月21日、不当労働行為・不法派遣で会社を告訴したが、 労働部は2年以上ずるずると延びて不法派遣起訴、不当労働行為不起訴意見で送検した。

長い間に百人以上の組合員は20数人にまで減った。 二回も国政監査が開かれ、国会議員は韓国旭硝子の原野タケシ代表を追及したり、 事件を寝かせているノ・スングォン大邱地検長を叱責した。 国会議員に「尊敬する」といっていたノ・スングォン大邱地検長、 しかし大邱地検は国政監査が終った2017年12月、不起訴にした。

検察が膨大な調査資料を握って、一歩遅れて不起訴処分にして、 この資料は旭硝子が中央労働委の不当労働行為の判定を不服として提起した行政訴訟では活用されなかった。 裁判所は証拠が足りないとし、会社の主張を認めた。 大邱地検の前に設置したテント座込場は、2018年1月12日に強制撤去された。 キウン氏はウェイターとして働いていたときの場面を思い出した。 判事と検事、ならず者が一緒に居た場面。

▲2016年4月21日、亀尾市庁は旭硝子工場前の座込場を強制撤去した。

キウン氏が苦々しく舌打ちしている間に一行は千葉県工場の抗議訪問を終えて夕食を囲んでいた。 キウン氏の一行の反対側には動労千葉労組の活動家が集まって座った。 キウン氏の前には動労千葉労組執行委員長の田中康宏氏が座った。 まもなくヘムルタン、パジョン、豚トゥルチギが出てきた。

「日本人はあまり食べません。 韓国の人はたくさん食べるでしょう? 韓国の食べ物を食べて少しは慰労になればうれしい。」(ヤスヒロ氏)

ヤスヒロ氏が話を続けた。 彼は日本の労働組合が全般的に弱い状況、 金属製造業ではない鉄道労働組合が旭硝子解雇者の遠征闘争を支援する状況がとても心苦しいという。

▲ヤスヒロ氏

「実は日本の金属労組がこの闘争を支援するべきなのですが、すみません。 私たちのような小さな労組が支援する状況が残念です。 それでもわれわれはできることをします。 旭硝子解雇問題だけでなく、戦犯企業も重要な問題です。 この問題提起は日本の労働者がするべきです。 私たちは2003年から民主労総との交流を始めました。 韓国の事情を知って、韓国も日本の前轍を踏んでいることを知りました。 民営化、下請労働問題。 こうした傾向を見て、労働者の連帯で国境を越えて共に闘争しなければと考えるようになりました。 学ぶこともたくさんあります。 最近のキャンドル闘争で民主労総が先頭に立って戦う姿を見て、 日本も韓国の闘争を学ばなければならないと考えました。」

ヤスヒロ氏は韓国語で「労働者は一つだ」と言って話を結んだ。 ぴりぴりするヘムルタンを飲むキウン氏と解雇労働者の気持ちも緩んだ。

▲動労千葉労組と夕食を食べる旭硝子解雇者

宿舎に帰る電車、キウン氏の前に座っていた老夫婦一組がたどたどしい韓国語で話しかけてきた。 キウン氏が着ている金属労組のチョッキを見たのだった。 韓国に関心が強い彼らは、旭硝子解雇事態も知っていた。 カバンにはセウォル号リボンがついている。 キャンドル・デモにも関心が多かったと話した。 短い対話を後にして電車からおりるキウン氏に老夫婦が叫んだ。

「闘争! 力を出してください!」

3月7日、キウン氏は東京都千代田区にある旭硝子本社をもう一度訪問した。 キウン氏は本社が解雇問題を解決すべき理由を説明したが、 タカノ・エツロウという総務部グループマネジャーは、顔は丁重だったが、同じ言葉を繰り返した。

「韓国旭硝子と旭硝子グループは別法人です。 別の法人については何も言えません。」

▲日本東京の旭硝子本社前。私設警備が旭硝子解雇労働者のビルへの進入を統制している。

資本と権力が一緒に食事をする。 彼らは似た顔だ。 ノ・スングォン大邱地検長、それでも起訴はできた。 電話の向こうのホノ氏から不起訴処分の知らせを聞いた時、 キウン氏は大邱地検前のテント座込場で期待する先輩たちの顔を見ることができなかった。 検修権と作業指示権というものがあるという。 国語辞典にも出てこないその言葉を使い、旭硝子の派遣行為は正当だという。 検察がそうだった。 法は味方ではないな。キウン氏は悟った。

日本にきて向き合った多くの顔を思い出した。 自分の問題できるかのようにつらく感じ、共に腕を捲くりあげて闘争と叫んだ日本人の顔、 セウォル号リボンを付けて韓国語で応援してくれた日本市民の顔、 「労働者は一つだ」と叫ぶ日本労働者の顔だ。 闘争の方向も一瞬、姿が見えたようだった。

原文(ニュースミン)

翻訳/文責:安田(ゆ)


Created byStaff. Created on 2018-03-17 08:17:39 / Last modified on 2018-03-17 08:27:58 Copyright: Default

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